長編小説|Another Horizon #08
#08 マイソールにて
インドの旅は、まだまだ終わらない。ケーララ州を北上し、カルナータカ州。マイソール近郊、ソームナートプル。
航太は、眼前に広がる夥しい彫刻群に言葉を失っている。
ケーシャヴァ寺院。誰も訪れないような片田舎の村にひっそりと佇む珠玉の寺院。ホイサラ朝の傑作建造物だ。外壁をびっしりと覆い尽くす彫刻。浮き彫りだ。彫像が立体的に浮かびあがっている。
その緻密さは、狂気の沙汰に近い。これだけの装飾を彫り込むのに、はたしてどれほどの歳月を必要とするのか。しかも素材は細工の容易な木材ではない。硬い石材なのだ。
「インドって、デコラティブなものが多いんだよな」
呆然としている航太の背後から、翔太郎が話しかける。デコラティブ。装飾過剰とでも言うべきか。確かに、と航太は賛同する。
このあと航太は、翔太郎の案内のもとインドの遺跡を巡ることになるのだが、『装飾過剰』というのは言い得て妙だ。日本の侘び寂びとは対極にある世界観。
「インドの女神さまってさ、……スタイル、いいよね」
ヒンズー教の神様だろうか。お椀のような豊満な胸にくびれた腰。巨乳だよね、と率直に感想を言うのは憚られて、航太は言葉を吟味する。
「ああ。おっぱいデカイよな」
翔太郎は、航太が避けたズバリそのものの表現を、なんの躊躇いもなく口にする。呆れたように航太は彼を振りかえり、また彫刻に視線を戻した。そして、硬直した。
( これって、どう見ても …… )
絡みあう男女の像。抱きあっている……だけではない。女性像の脚が大きく開かれている。
「ミトゥナ像だよ。いわゆる男女交合像だ」
「え、だって……ここ、お寺でしょ⁉︎ 」
航太の驚いた声に、翔太郎は首をすくめてみせた。
「寺と言っても、仏教じゃなくて、ヒンズー教の寺院だからね。子孫繁栄とか、豊穣祈願とか、男女の性愛を神聖なものとして捉えているんだろう。……そもそも、セックスを疚しい行為として捉える価値観に問題があるんだ。男がエロいのなんて、当たり前だろ?」
「いや、それは、そうだけどさ……」
彼女の両親の留守を見計らって、こそこそとセックスしている立場からすると羨ましい。
ただ、少し意外に感じた。
翔太郎が、この手の話題をすること自体が珍しい。猥談をすることもなければ、特定のアイドルや女優に熱をあげている様子も皆無だ。自宅に恋人を連れてきたこともなかった。
女に興味がないのかな、とすら思っていた。思っていたからこそ、翔太郎が25歳の若さで結婚したときには、天地がひっくり返るほど驚いた。
「ここのミトゥナ像は比較的おとなしめだが。北部のカジュラホという場所にさ、もっとすごいのがあるんだ」
「 ……………… 」
男のエロさを爽やかに全肯定した翔太郎は、不可視のデバイスを操作して航太に画像を呈示する。もう、その姿は嬉々としてエロ本を見せてくるエロ親父でしかない。
カジュラホのミトゥナ像。官能的で耽美的なものもあるが、その性的表現は官能的を通り越して、過激だ。乱交やら、獣姦まである。
なんだか、翔太郎が楽しそうだ。妙に肩の力が抜けている彼の姿を見て、翔太郎は『父親』の役割から解放されたのだな、と航太は悟る。
両親が離婚したのは、航太が5歳のときだ。幼すぎて、もう父親の顔など記憶の断片にも残されていない。昼夜問わず働き詰めだった母親の代わりに、翔太郎は親の役目を担わされたのだ。
来年、航太は成人を迎える。
自分で言うのもなんだが、非行に走ることもなく健やかにすくすくと素直な良い子に育ったので、翔太郎は安心しているのだろう。だから、自分の役目は終了したと、こんな教育上よろしくないものまで見せつけてくるのだろう。
普通の兄弟がどのようなものか、航太は知らない。まして12歳差の兄弟なんて、一般的に考えれば赤の他人も同然だろう。翔太郎が親代わりだったという点で、自分たちは普通の兄弟とは異なっている。
幼少期の記憶。漠然と憶えているのは、もふもふの毛玉の塊に囲まれていたことだけだ。
霧ヶ峰、車山中腹に位置するペンション。家族で経営していたその宿は、ペット同伴可だった。看板犬のロンの存在もあって、愛犬家の集う宿としてそれなりに繁盛していた。
─── ようこしょ、いらっしゃいまちた。
まだ辿々しい言葉遣いの航太が、ペコリと頭をさげる。それに合わせて、隣に行儀よくお座りしているロンが頭をさげる。宿泊客は、その愛らしいお出迎えに相好を崩す。
航太は、かなり人懐っこい性格だったらしい。宿泊客の集う暖炉のあるロビーに来ては、客の同伴している愛犬と戯れていた。
柴犬、チワワ、トイプードル、パグ、小型犬だけではない。大型犬もいた。ロンと同じラブラドールレトリバー、シベリアンハスキー。今でも犬好きに悪い人間はいないと信じているほど、穏やかで優しい空間だった。
その優しい世界は、航太が5歳のときに壊れてしまった。
具体的な経緯は、航太は聞かされていない。承知しているのは、ペンションの経営が傾き、父親が酒浸りになったことだけだ。彼は、ずっと自営業者であり会社勤めなどしたことがない。そして母親が酒に溺れる父親を見限る決断は、冷酷なほど早かった。
『ねえ……お母さん忙しいんだから、あんたが、家のことやらなきゃいけないことぐらいわかるでしょう?航太はまだ小さいんだから……。お兄ちゃんがしっかりして、面倒みてあげなきゃ可哀想でしょう』
諏訪市内の狭い団地の一室。生活は一時的に困窮していた。
当時17歳、今の航太と同年齢だった翔太郎を、母親は庇護する対象とはみなさなかった。そのときの母親の奮闘と翔太郎の犠牲と献身がなければ、自分の幼少期はかなり悲惨なものになっていただろう。
あのとき翔太郎は、なにひとつ自分の希望を叶えることができなかった。大学への進学を諦め、就職の道を選んだ。母親の八つ当たりじみたヒステリーに言いかえすこともなく、航太の我儘にも嫌な顔ひとつしなかった。
結婚を機に、やっと『父親代わり』の呪縛から逃れることができたのだ。結婚してから、翔太郎は取り憑かれたように自由奔放に海外へ渡航することを繰りかえしていた。
『Another Horizon』は、翔太郎の夢みたものの集大成だ。
だから、よかった……と、心から思っている。
♦︎♦︎♦︎
「ねえ、今の金髪碧眼のおばあちゃん、誰?」
最初は、通りすがりの観光客かなと思っていた。翔太郎の映像に幾度も登場する、初老の西洋人女性。年齢は60代くらいだろうか。
「ああ、彼女は、このとき一緒に旅してたドイツ人。ソームナートプルまでのバスで一緒になったんだ。それで、まあ……、俺に惚れたんだろうな。亡くなった旦那の若い頃にそっくりだとか言われた」
俺も罪な男だな、などと翔太郎はうそぶいている。
「おばあちゃんの旦那さんって、日本人だったの?」
いや、ドイツ人だよ、と彼は否定する。はあ⁉︎と航太は呆れた。翔太郎はどこから見ても、ドイツ人には見えない。
「旦那に似てる、なんて口説くときの常套句だろ?まあ、惚れられて悪い気はしないし、彼女はインドに詳しいんで、しばらく一緒に旅してた。このとき俺が学んだ教訓は、清潔な宿にありつきたいならドイツ人についていけ、だ」
「ドイツの人って、清潔好きって有名だよね」
「もうひとつ学んだ教訓は、ドイツ人の薦めるメシに期待するな、かな。宿は清潔なわりに格安で申し分なかった。シェアさせてもらったから、さらに安くなったしね」
聞き捨てならないことを、翔太郎はさらりと口にする。メシの問題ではない。
「シェアって、一緒の部屋に泊まってたってこと⁉︎」
そう、と翔太郎は涼しい顔だ。
「ときどき、貞操の危機に陥りそうになったけどね。愛する妻がいるんですって泣き真似したら、理解してくれたよ………って、何だよ、おまえのその疑い深い目は?」
航太の胡散臭げな眼差しに、翔太郎は苦笑している。
「だって、翔太郎さ、年増女が好みじゃん?」
「年増女……って、美雪のことか?」
おまえ、殺されるぞ……、と翔太郎は真顔で脅してくる。
美雪というのは、翔太郎の妻の名だ。彼より5歳も年上だから、航太にとってはオバサン以外の何者でもない。
翔太郎の派遣されていた映像製作会社の女上司。かなり早いうちから『Another Horizon』の構想を打ち明け、相談していたのだろう。翔太郎とともに海外を巡っていた時期もある。彼が同志として、心を許した女性。
VR空間デザイナーの肩書を持つ彼女は、翔太郎の撮り集めた映像素材を加工修復し、ひとつの世界を構築することを手がけている。
ただし、航太は好きではない。紹介されたときに自分が抱いた印象だから、翔太郎には言えない。いけ好かない女、なんて口が裂けても言えるわけがない。
「このあと、どこ行くんだっけ?」
航太と翔太郎は、ひっきりなしに乗用車や路線バス、リキシャーが行き交う大通りを歩いている。けたたましいクラクションの音。人の喚き声。
ついたよ、と翔太郎は立ち止まった。
は⁉︎ と、航太は茫然自失の境地に陥る。看板が近づいてくるとは思っていたが、まさかそこが目的地とは……。
「なんで、インドまで来て、ハンバーガー?」
『M』の文字の看板。誰もが知る、日本のどの街にも存在するアメリカの某有名チェーンのファーストフード店が、航太を迎え入れた。
店の扉の前に警備員が待機していて、恭しく扉を開けてくれたことに驚いた。彼の視線が、自分たちを値踏みしていた気がする。
「ファーストフード店と言っても庶民の味方じゃなくて、中流階級の家族が利用するレストランなんだよ。値段もインドの物価から考えれば割高だ」
ここからは、また翔太郎の『追体験』らしい。航太のアバターは、過去の翔太郎の視界をトレースすることになる。どのように撮影しているのか尋ねたら、なんと超小型カメラが搭載された眼鏡をかけていたらしい。
「インドに来て1ヶ月以上過ぎてて、もうとにかくマサラの匂いから逃れたくてさ……。ハンバーガーなら大丈夫だろうと思ったんだ」
何を食べてもマサラの味がする、と翔太郎は顔を歪める。
「中華料理……炒飯や焼きそばみたいなものも食べたけど、マサラの味がした。チャイもマサラが入ってるし、市販のポテトチップスもカレー味だ。インド人からもマサラの匂いがしやがるし、大気中にもマサラが浮遊している気がする。もう、発狂しそうだったんだ」
しやがる、なんて言葉遣いを翔太郎はあまりしない……から、驚く。
そもそも、彼は訪れた国の悪口を決して言わない。しかしインドに関しては、よほど腹に据えかねたことがあったのか、ときおり好戦的な口調になる。それがおかしい。
追体験しても、VRだから味がわからないじゃん、と航太はやや不満だ。そしてメニューを眺めて唖然とする。
「3種類しかないの⁉︎ しかも、普通のハンバーガーがないんだけど⁉︎ 」
ああ、と翔太郎は神妙に頷く。
普通のハンバーガー……いわゆるビーフバーガーがない理由は、ヒンズー教が牛を神聖な動物とみなし、殺生を禁じているからだ。では豚肉は?インドには、イスラム教徒も多く暮らしている。イスラム教においては豚肉は厳禁だ。必然的に、鶏肉が主流となる。
チキンバーガーをください。カウンターに近づいた、過去の翔太郎の声。
ノー、チキン。今日はチキンバーガーは品切れだと、冷たいインド人店員の声。すごい接客態度だ。日本でこんな態度で接客したら、即クビだろう。
じゃあ、フィッシュバーガーを。店員に臆しているのか遠慮がちな翔太郎の声。
ノー、フィッシュ。フィッシュバーガーも品切れだ。取りつく島もない、とはこのことだ。
「マハラジャバーガーしかないじゃん…… 」
残された最後の選択肢。翔太郎には悪いが、話のオチが見えてきてしまった。鶏も魚もないと断られた彼は、長い沈黙のすえに仕方なくマハラジャバーガーなるものを注文する。
カウンターで商品を受けとり席についた。航太は、過去の翔太郎の行動のままに、包み紙を開けてマハラジャバーガーにかぶりつく。VRだから味はわからない。わからないが、これは……。
「カレーコロッケだ……」
航太の呟きに、反対側の席に腰かけた翔太郎がテーブルに突っ伏した。このときの俺の絶望がわかるか、と言って。
「え、まさか……この追体験って、お客さんに有料でオプション販売すんの?」
「そのつもりだが、……まずいかな?」
航太は、既に気がついている。インドの旅に凝らされた趣向とは、ストーリー仕立てなのだ。ログインしたビジターは、翔太郎の視点を辿ることにより、インド人に振りまわされ一喜一憂するその感情の浮き沈みを体験できるのだ。
「まずいに決まってるだろ。絶望した体験を販売するのは却下だよ。無料なら、話のネタになるからかまわないと思うけど」
そうか、と翔太郎は腕を組む。航太はかねてより思っていた疑問をぶつけてみた。
「インドを選ぶお客さんが望んでるのって、ガンジス川に飛び込んでみる、とかそういうのじゃないの?インドに来ると、人生観が変わるってよく言うじゃん」
航太の指摘に、翔太郎は思いきり嫌な顔をする。
「ガンジス川の沐浴なんて……ありきたりだろう?俺の目指しているのは、もっとオリジナリティ溢れるコンテンツだ」
偉そうなことを述べているわりに、翔太郎の眼差しが宙を泳いでいる。航太が詰問するような視線を向けると、彼は呆気なく真相を告白する。
「ガンジス川があるのは、ヒンズー教の聖地のバラナシだが、……行ってないんだよ……。そもそもあんな汚い川に飛び込めるわけがないだろう。人間の死体から糞まで垂れ流しだぞ。入ったら最後、下痢どころか赤痢か腸チフスだ」
ルートを変更したんだ、と翔太郎は語る。彼の掌から、透明な地図が出現した。ガイドの小道具らしい。その地図に示されたのは、北東部コルカタから南へ伸びる一筋の線。バラナシと正反対の方向だ。
「まずコルカタに到着して、あまりの汚さに逃げだしたんだ。人も強烈だったし。それと比較して南インドは人の気質も穏やかで、街も清潔だって聞いて、一気に南下してチェンナイから旅を始めた」
世界中を旅しているにもかかわらず、翔太郎は臆病で潔癖だ。度胸がない自分自身をあっさりと認めている。
そのとき、ガラスを叩く音が響いた。窓側の席に座していた航太は、店の外に視線を移す。
物乞いの子供だろうか。ひとくち頂戴、と食べる仕草を繰りかえしている。
「このあとさ、俺、あの子たちに延々と追いかけられたんだけど……。そのオプション体験してみる?」
もちろん、と航太は笑って頷いた。
バクシーシ。その言葉の意味することは、喜捨である。富めるものが貧しいものに施して、徳を積む行為。持つものが持たざるものに恵む功徳。
「インドに来て、すぐにその言葉を覚えたよ。どこに行っても、バクシーシだからね」
翔太郎は後ろをついてくる子供たちを、気にする素振りも見せない。航太は、そっと後ろを振りかえって子供たちの様子を窺った。指先を擦りあわせるような仕草。お金頂戴、と言っているのだ。
年齢は不詳だ。しかし間違いなく、日本で言う未就学児の年齢だろう。その身なりは悲惨である。衣服というよりは、ボロ布。垢と埃にまみれた剥き出しの手脚。何日も洗っていないであろう頭髪は、ほつれ絡みあっている。
それでいて何故か、可哀想なのに可哀想だと思えない。悲惨であるはずなのに、悲惨な印象を与えない。航太はすぐに、その理由を悟る。瞳が輝いている。ぱっちりとした大きな両眼は、溢れんばかりの好奇心を湛えている。
「お金……、あげないの?」
隣を歩く翔太郎に尋ねる。彼は、さも面白いことを聞いたという表情をする。
「何故、金をあげる必要がある?」
「だって、可哀想じゃん。服だってあんなにボロボロだし……」
「清潔でなければ不幸だ、というのは俺たちの価値観だろう。本人たちが気にとめないのであれば、別に不潔と不幸は結びつかない」
それはそうだけどさ、と航太は胸に疑問を巡らす。清潔に越したことはないだろう、と。
「金銭というのは、労働の対価として得るものじゃないのか?海外を旅していて、いつも疑問に思うのは、チップにしてもバクシーシにしても、平然と向こうから要求してくるんだ。こちらがサービスに満足したとか、自発的に施しを与えたいというのなら理解できる。生憎こちらは金に余裕のないケチな日本人だ。ただ、それだけのことだ」
ずいぶんと割りきった思考回路だ、と航太は思う。翔太郎の優しい人柄を承知しているだけに、やや意外だった。航太の想像する彼は、金銭を与えすぎて自分まで困窮しそうなのに。
「この先に、街で評判のラッシー屋があるんだ」
航太のアバターが立ち止まった。ラッシーを購入している。
翔太郎の言う評判のラッシー屋らしい。きちんとした店舗ではなく、屋台だ。杏色の素焼きのカップに、なみなみと白い液体が注がれている。
途端に、子供たちが駆け寄ってきた。航太のアバターに……つまり過去の翔太郎の腰にまとわりついて、手を伸ばしてくる。ひとくち頂戴、としきりに飲む仕草をしている。
「翔太郎……。よく、この状態で、飲めたね」
本当にな、と翔太郎はこればかりは同意した。
そして翔太郎が次に購入したのは、隣の屋台で売っていた揚げ物だ。ピンポン球状でプラスチックの皿に7個。どことなく、たこ焼きを彷彿とさせる見た目だ。
「チリパコーラーかと思って買ってみたんだが、正確になんだったのかわからないんだ。パコーラーというのは、インド版の天麩羅だ」
そのあとの翔太郎の行動に、航太は驚く。金もくれずラッシーもひとくちも分けてくれない彼に愛想を尽かしたのか、子供たちは他の観光客を物色し始めていた。
その彼らを手招きして呼び寄せると、そのパコーラーもどきを分け与えている。自分はひとつしか食べていない。残りは6個。子供たちは3人。
ふたつずつだからな、と諭す翔太郎の声に、素直に頷く子供たち。
「正直に言うとさ……、まずかったんだ」
「まずかったから、あげたの⁉︎ 」
難詰するような航太の視線に、翔太郎は慌てて弁明する。
「俺の口に合わないってだけだよ。実際に、行列のできている屋台だったし。まわりのインド人はおいしそうに食ってたから、問題ないだろう?」
ちなみにこのあと、味を占めた子供たちに翔太郎は延々と追いまわされる羽目になる。彼らに時間は無限にあるのだ。もはや、鬼ごっこやかくれんぼといった遊戯の域に近いのだろう。付き合わされている翔太郎の心境は、いかに。
「いや、俺も、どこまでついてくるのか試そうかと思って。わりと楽しんでたよ」
あっけらかんと翔太郎は笑う。
そのうちに、航太はあることに気づく。周囲の景色が変化していない。既視感のある路地をずっと辿っている。大通りからはずれて、迷路のような袋小路に彷徨いこんでいる。
道に迷ったんだ、と翔太郎は白状する。
そして事態は、絶望的な状況に発展する。狭い路地裏を塞ぐ漆黒の巨体がある。
野良牛だ。インドでは至るところに牛がいる。飼育されているわけではない正真正銘の野良牛。神様の使いの名にふさわしく、自由奔放に路地裏を闊歩している。牛の脇を通り過ぎようにも、そこにあるのはこんもりとした牛糞の山。
ゲームオーバーだ。糞の山を掻きわけて前進するのは、翔太郎には無理だろう。
「ここで、さすがに観念したよ。宿までの戻りかたがわからなくなってたから、道案内を頼んだんだ」
翔太郎は宿の名を告げるが、子供たちは首を傾げる。当然だ。無数にある安宿を把握しているわけがない。地図を見せても、子供たちは地図が読めない。そこで、彼は街のランドマーク的存在の寺院の名をあげる。ようやく、子供たちが頷いた。
あっちだ、と一番年長者らしき男の子が指し示す。
一番年少の小柄な女の子が、翔太郎の掌をとる。手を繋いでいてあげるね。
そこから迷路のような路地裏を抜けて、大通りを歩いた。寺院の聳え立つ仏塔が見えてきたところで、翔太郎は手を離す。ありがとう、助かったよ、と。
もとより、金銭を要求されることは承知していたのだろう。翔太郎の手がバッグを探っている。金銭は労働の対価だ、という彼の言葉が航太の脳裏に甦る。道案内は立派な仕事だ。
── ねえ、ジャパニ。そのキャンディ頂戴。
手を繋いでいた女の子が指差すのは、バッグの内ポケットに入っているレモンミント味のキャンディだ。だが、翔太郎はそれを承諾することはなく、代わりに渡したのは僅かばかりのルピー紙幣とボールペンだ。
飴が文房具になったことに不満な表情も見せずに、子供たちは手を振って去っていく。
「飴をあげなかったのは、どうして?」
女の子が甘いものを好むのは、国を問わないらしい。あげれば喜びそうなものなのに。
「おまえ、あの子たちが、歯ブラシや歯みがき粉持ってると思うか?」
「そっか。持ってる……わけないよね」
完全に、意表を突かれていた。彼らは路上生活者なのだ。食事後に歯を磨く、日本では当たり前の生活習慣が必ずしもあてはまるとは限らない。飴が虫歯の原因になるのは、よく知られた話だ。
歯を磨く習慣はあるはずだ、と翔太郎は語る。路上生活者であっても、共用の水汲み場があるから水には困らない。ただ使用されるのは、歯ブラシではなく木の枝だと。
「インドに限った話じゃないんだ。外国人観光客が無責任に飴やらキャラメルやらを与えたせいで、その代償に歯を全部失うことになった子供がいる。そんな話を耳に挟んだことがあるだけだ。……ボールペンにしたのは、勉強してくれればいいというのもあるし、腐らないし換金可能だからだ。ミールス1食分くらいの値段にはなるだろう」
へえ、と航太は感銘を受ける。
自己満足かもしれないけどね、と翔太郎は付け加える。
「さて、これで南インドの旅は終わりだ。次の日に出発なんだが、ちょっと早送りして……バスターミナルに行こうか」
マイソールからカルナータカ州、州都バンガロールへ。南インド最大の都市だ。
アナウンスもなければ、行先の掲示板もないバスターミナルに戸惑ってしまう。翔太郎が夥しい数のバスの中から目的地まで行くバスを探す方法というのは、なんと人に聞いてまわるという非効率なものだった。バスの正面で、車掌が行先を叫んでいる。
目的地が大都市であるおかげか、すぐにバスは発見できた。車掌に促されてバスに乗り込むと、翔太郎は窓際の席を航太に譲ってくる。
バスはすぐに出発した。だがインド名物のすさまじい渋滞に遮られて、バスターミナルを出ることも叶わない。我先に道を進もうとする車の数々。そのあいだを縫うように走るオートリキシャー。車に轢かれかねない無謀な歩行者。
これで見納めか、と航太は嵌め込み式ではない開閉自由な窓を開ける。
鼓膜を突き破るようなクラクションに紛れて、翔太郎が『おまけ』と呟いた気がした。
( ……おまけ? )
ジャパニ‼︎ と、子供が叫ぶ声がした。
物乞いの子は、そこらにいる。バスターミナルの中にもいた。その容貌は似たり寄ったりで区別はつきにくい。しかし、航太にはすぐにわかった。
あの子たちだ。満面の笑みを浮かべて、バスを追いかけてきている。危ない、と航太は危惧してしまう。
ジャパニ!ジャパニ!グッバイ‼︎ と、声が聞こえてきた。
翔太郎が与えたのは、まずかったパコーラーもどきと、僅かな金とボールペンだけだ。こんなふうに見送られるに値することはしていない。
過去の映像なのだ。航太が手を振ったところで、彼らに伝わるわけがない。それでも航太は身を乗りだして手を振ってしまっていた。そして、彼らが車に阻まれてバスを追いかけるのを諦めるまで、いつまでもその姿を眺めていた。
