ボードゲーム制作でも役に立つ? 私の中のリセットボタンと、消えない、消せない引継ぎデータ(「ゲーム製作LT会(仮)」第0回より)
おつかれさまです。W2ナニカソンです。
こちらは現在SurFunさんと挑戦中の「ゲーム製作LT会(仮)」第0回にて魔人が登壇、お話した内容のnote記事版です!
今は昔、ゲームは理不尽だった
勇者まじんよ。よくききなさい
まるであなたの努力をあざわらうように
リセットボタンは理不尽に押されるもの
慈悲のような余計なノイズはありません
思うように「このゲームの魅力」を伝えられず
至らなさ、理想とのギャップがただみじめで
だれのせいでもないのに、嘆いて歯噛みして
そんな己をさらに恥じ入る日もあるでしょう
でも、まだまだピコピコといえばファミコンな時代、運命のいたずらである日突然に「ぼうけんのしょ」は消えてしまうものでした。どれほど誠実にリセットボタンを押しながら電源を切っても、まえぶれもなくのろわれました。
子どもたち(または大きな子どもたち)は「うんのよさ」の大切さを体験からかみしめ、ああ、これならたしかに「あそびにん」が「けんじゃ」になれるわけだな、と悟りを開きました。
あの頃そもそもゲームに起こるすべてのことは予測不可能な野生の戦いでした。デジタルなのにある種の生きる実感さえ感じるダイナミズム。理不尽・不条理は当たり前すぎて「初見殺し」なんて言葉すらありませんでした。
堪えて堪えて進んだら、きっとすばらしいエンディングがあると期待しても、それすらも保証はなく。結局無限にほぼ同じステージがくりかえるだとか、世界観を理由に暴言をはかれるとか、そんなことも日常でした。そして竜王の誘いは断れるのになぜかローラ姫からはカンタンに逃げられません。
あそぶ側の覇気も理不尽なゲームに負けてはいなくて。
裏ワザという名のバグをたのしみ
ついカッとなればきょうだいのプレイ中に容赦なくリセットボタンを押し、場合によっては殴り合い…
約束を破ってあそべば、オトナに(たぶん)理性的な鉄拳制裁としてリセットボタンを押され…
いくばくかの反省はするものの、そうそう懲りずにまたあそび
何回かやらかしつつも、少しずつ知恵をつけて…
おかげさまで、知らないうちにずいぶんと泥臭い粘り強さや、意外な社会性を学んだものだなぁ。オトナになるとオトナになれなかった時期の揺れ動きの経験こそが、まさに必要だったのだと気づくものです。
リセットボタンは、あの頃の理不尽たちの記憶の象徴でもあります。
ボードゲームは最初からオートセーブ
本題となるボードゲームの話をしましょう。
とくに軽量級と呼ばれるボードゲームでは、それこそ10分くらいであそびの切れ目、結び目が現れるものです。勝敗がつけば、システム的に目に見えた引継ぎ要素はなし。手札があるゲームであれば次の挑戦時には初期手札がまた配られます。そういうものだからです。
あたかも、軽やかに何度もリセットボタンを押すようなものです。
「おもしろかった、もう一回あそぼう!」
終了後、残骸をぐしゃぐしゃとかき混ぜて元に戻すことにはある種のカタルシスすらあります。負けが悔しい瞬間はあるかもしれませんが、ゲームがリセットされること自体に理不尽さを感じることはほぼありません。
これは、ボードゲームにおいて「自分自身が記憶媒体」であることが大きいように思います。電子回路や記憶装置が外部に存在しませんから、否が応でも自分に宿る、大脳のオートセーブ機能を自覚できるのです。
プレイヤーの体験や記憶、ゲームシステムや戦略への理解、自分なりの勝ち筋、あるいは楽しみ方のアプローチ、一緒にあそんだ他のプレイヤーとの対話の深まり、関係性の変化などは勝手に引き継がれます。だからこそ、安心して軽率にゲームシステム上のリセットボタンを押せるのです。
つくると「強くてニューゲーム」
ここで、私たちとボードゲームの関係について改めて説明します。
私たちはシステム開発を生業としておりますが、社内の「新規事業」活動としてW2ナニカソンというプロジェクト活動を行っています。そしてその中で、もう2年余りボードゲームを開発し続けているのです。

つくる側の体験を積み重ねたことで気づいたことがあります。つくる側はオートセーブどころか、「強くてニューゲーム」になるのです。
ボードゲーム制作に新規事業として取り組むとどうなるか。当然、数字による成果をマッタク無視はできない、いやむしろしっかり追いかけなくてはいけません。つまり、つくって終わりではない。広報活動が必要になります。とにかく自分の作品を試遊していただける機会を探し、行脚し続けることになります。
「試遊」は経験値モンスター
そもそも、ボードゲーム制作も「ものづくり」のひとつです。ですから、制作段階のテストプレイが非常に重要であることは、事前に比較的予想できていました。逆にあまり想像できていなかったのが、この完成後の姿です。完成後にもこんなに何度も試遊づけになるものなのか…と。
そもそもボードゲームを購入する人の導線の問題…とりわけ試遊した実感を大切にする人がこれだけいる
制作者のインスト(ゲーム説明)によってあそべるということに価値を置く人も多い(別の言い方をすれば、制作者とプレイヤーの距離が近い市場である)
知らないことだらけで、最初の内はわけもわからず、
「そうか、そういうものなのか!」
と、がむしゃらに対応しておりました。
脳が刺激される体験が自分の中に自然と積み重なってゆきます。かくて、広報活動「試遊」はまるで経験値モンスターでしたが、それに明確に気づいたのは最近ようやくです。
一期一会の「試遊」の中で
最初の頃は、
「このゲームの魅力」をうまく伝えられたか?
仮にこのゲーム自体がプレイヤーにとって必ずしも「For Me」なものと思えなかったとしても、少なくともそのひとときはたのしんでいただけただろうか?
もしうまく伝えられなかったなら、たのしんでいただけなかったかもしれないのなら、次はどうしたらよくなるか?
といった部分が、気づきとふりかえりの主眼でした。もちろん、それはそれでとても大切なことです。
消えない、消せない引継ぎデータ
さらに試遊を重ねるうちに、だんだん見える景色が変わってきました。
そもそも「このゲームの魅力」をうまく伝えられたかという問いは、自分たちが「このゲームの魅力」を知っているという前提に立っています。その前提から、よい意味で疑うようになっていったのです。
こんな一面もあった、こんな可能性もあった
私が知っている「このゲームの魅力」なんて、一面に過ぎなかった
わたしはまだ「このゲームの魅力」をすべて知らない
いっしょにあそぶすべての人が、それを教えてくれる
それは一種の気づきの変換点でした。
それまでだって、試遊のたびそれなりには学びを得てきたハズなのに。もっと深い場所で、簡単には言語化できない、消えない、消せない引継ぎデータがたまっていたのです。そして、あるときひょいっと顔を出したのです。
今日も明日も、押してゆこう
リセットボタンを押す経験のくりかえし。ボードゲームが擬似的にもたらすそれは、気づきにくい引継ぎデータの存在を揺り起こし、いつの間にか剥き出しにする力がありました。
ねらっていたことではないですが、結果としてボードゲーム制作には、暗黙のオートセーブと「強くてニューゲーム」を信じ切るチカラをさらに磨く恩恵がありました。それは、循環的に「新規事業」という得体のしれない塊を前に進める力を強化してくれる、おあつらえ向きなものでした。
理屈も浅はかな自負も思い込みも、ただ一瞬で吹き飛ばす衝撃。蓄積して煮凝りみたいに複雑な味を蓄えて、とうとう溢れ出して今私の目の前にあります。またすぐに消えてしまうかもしれませんが、今はあります。
勇者まじんよ。よくききなさい
まるであなたの努力をあざわらうように
リセットボタンは理不尽に押されるもの
慈悲のような余計なノイズはありません
思うように「このゲームの魅力」を伝えられず
至らなさ、理想とのギャップがただみじめで
だれのせいでもないのに、嘆いて歯噛みして
そんな己をさらに恥じ入る日もあるでしょう
でも、そのリセットボタンは、存外無力です
どうしても消えない、消せないものがある
本当に大事な奥底にあるものは、
自分でも制御できないほど蓄積してゆきます理不尽な記憶とともに私のココロにあるリセットボタン。あの頃から、深い場所の引継ぎデータの存在を教え続けてくれていたのかもしれません。
だから恐れずに、軽率に、今日も明日も押してゆこう。
(W2ナニカソン・ワクワク魔人S)

