出不精な私と、樽に住んでいた哲学者
子どもの頃から、家が好きだった
毛布にくるまって目を閉じる。すとんと落ちてく、何者にもとらわれず自分の世界が広がる感覚。至福、とはこういうことだと思う。
幼稚園から帰った後のお昼寝が、とくに好きだった。
子どもの頃から、出不精だった私。遠足の前日も、運動会の朝も、友達に「遊ぼう」と誘われるたびも、心のどこかで「行かなくていいならそっちがいい」と思っていた。別に人嫌いでも引きこもりでもない。ただ、家が好きだったのだ。
中学に入るとお昼寝はしなくなった。でも好きだという気持ちは変わらなかった。休日に窓から日差しが差し込む部屋で、ぼんやりうとうとする。あの感覚はいまも健在だ。そのためだけに生きているわけじゃないけど、あながち否定もできない。
家が好き。シンプルすぎてうまく説明できないけれど、ずっとそうだった。
一人暮らしと、あるnote記事
一人暮らしを始めたとき、最初に感じたのは解放感だった。
何をしてもいい。何時に寝てもいい。冷蔵庫に何を入れてもいい。部屋の隅でギターを弾いても、深夜に映画を見ても、誰にも何も言われない。この感覚は、家が好きだった自分にとって、想像以上に大きかった。
ただ、同時にわかったことがある。全部自分でやらないといけない、ということだ。掃除も、洗い物も、電球が切れたらその交換も。解放感の裏側に、静かな面倒くささがついてきた。
それでも、しばらくすると落ち着いた。「好きなことをしていい場所」として、その部屋が馴染んでいった。家が好きという気持ちは変わらず、むしろ深まっていった。
そんなことを思い出したのは、コニシ木の子さんのnote「なんのはなしです家」を読んだのがきっかけだった。そういえば自分はずっと家が好きなくせに、それが何なのかをちゃんと考えたことがなかった、と気づいた。その気持ちが引っかかって、気がついたら「家とは何か」を調べていた。
調べてたら、樽に住んでいる男が出てきた
「家とは何か」を調べ始めると、哲学の世界がわりとこのテーマに熱心なことがわかった。現象学だの実存主義だのが出てきて、読み進めていると、とんでもない人物が登場した。
ディオゲネス。古代ギリシャの哲学者だ。
この人、家が樽だった。
いや、正確には大きな甕(かめ)らしいのだが、まあ樽だ。所有物はほぼゼロ。服は一枚。財産なし。「所有こそが人間を縛る」という信念を、全身全霊で体現した男である。パンクにもほどがある。
極めつけは、アレクサンドロス大王とのエピソードだ。当時世界最強の権力者が、わざわざ樽まで会いに来て「何か望みはあるか、何でも叶えてやろう」と言った。その返答が秀逸すぎた。
「そこをどいてくれ。日向ぼっこの邪魔だ、影になっている」

大王が去った後、周囲は大騒ぎ。ディオゲネスは涼しい顔。アレクサンドロス大王本人は「もし自分がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたかった」と言ったという。
樽に住みながら、世界征服者に憧れさせた男。
所有も、肩書きも、家すら要らない。だからこそなのか、誰より自由に、自分のまま生きた。現代に生まれてきたら、どんな言葉で人を魅了しただろう、とつい考えてしまう。
私にとっての家
ディオゲネスほど振り切れないし、そこまで憧れもしない。樽はさすがに遠慮したい。
でも彼の話を読んで、何かが腑に落ちた。家って、建物のことじゃないんだな、と。
一人暮らしの部屋が「家」になっていったあの感覚も、壁や天井のことではなかった。好きなことをして、好きなように過ごして、誰にも気を遣わなくていい。そういう時間の積み重ねが、あの場所を「家」にしていった。
ディオゲネスは何も持たないことで自由になった。私は家を持つことで自由になった。向かう方向は正反対でも、たどり着いた場所は案外近いのかもしれない。
毛布にくるまって目を閉じていたあの子どもの頃。言葉にはできなかったけれど、ちゃんと感じてたはず。外から帰ってきて、毛布の中に入ると、すとんと、落ちていけた。何者にもとらわれず、自分の世界が広がる感覚。それが私にとっての「家」だったんだと、今になって思う。
自分になれる場所。私にとって家は、たぶんそういうことなんだと思う。
