見出し画像

『夜明けの18秒』Episod 6 夜と昼の境界で【創作大賞2025・ファンタジー小説部門】


プロローグ・episode1 小さな違和感と、雪の降る日に
episode2 不可逆な時間
episode 3  ひとりの記憶、ふたりの放課後
episode 4 記憶が目を覚ます時
episode5 旅のはじまりと、雪原の光

Episode 6 夜と昼の境界で


 歩き出して、まだ間もないのに、吹きつける雪は頬にあたり、焼けるようにヒリヒリと痛んだ。柔らかな刃は体を静かに傷つける。それが、現実だと教えるように。

 ざくっ、ざくっ、ざくっ。
 足音だけが、世界に残されたリズムのように響いていた。

 トコさんが仕立ててくれたブーツは、僕の足の代わりだった。羽に包まれるように、足元を優しく覆って、雪の冷たさが肌に忍び込むことなく守ってくれる。それは、職人の手。やさしさの手。

 最近のトコさんは、始業式の話ばかりしていたけれど、本当は、何もかも、気がついていたのかもしれない。僕がこの町を出ていくことを。それでも、最後まで何も言わず、いつものように微笑んでいた。

 その笑顔が、今も、遠くで僕を見守っている気がした。優しい町。それが、僕の帰る場所だった。

 銀の懐中時計を取り出す。時計はゆっくりと、進んでいった。初めて見るような、時間の感覚。鼓動と秒針が重なる瞬間。一分が愛おしい。一秒が、愛おしい。今日という時の儚さが、雪の中へ、溢れた。僕の今しかない、一秒。ヨアケと、過ごす、時間。

 町が、遠く背後に沈むように見えなくなる頃。僕は、振り返ることを止めた。今日という日をそこに置いてくるように。

 不可逆な町。
 もう戻らない、僕の故郷フィンロッホ ⸻。

 ミーシャは、僕たちの少し先を、音もなく歩いていた。小さな足は雪を沈ませず、ピアノの鍵盤をノンレガートで奏でるように、軽やかで、淡々とした足取りだった。過去と未来の間にだけ存在する影のようだった。ミーシャは何かを知っている。その目は、すでにこの先の光景を見てきた者のような、優しくて、聡明な眼差しだったから。

 歩くたびに残るはずの足跡は、すぐに雪に埋もれ、容赦なく僕たちの歩みの痕跡を無へと返していく。

 ミーシャは長毛の、真っ白な猫だった。でも不思議なことに、雪に溶けるどころか、むしろその中で淡く光りながら、シルエットだけがはっきりと浮かび上がる。

 僕とヨアケは、あとを続くように歩く。ヨアケの頬も赤く、息は少し荒い。歩調は変わらないけれど、ふとした瞬間に足元がふらついていた。

「ヨアケ、大丈夫?」

 僕が声をかけると、ヨアケは微笑んで頷いた。

「うん。少し、胸が冷たいだけ。大丈夫、歩けるよ」

 ヨアケは、少し苦しそうに微笑んだ。その笑顔は優さの中に脆さがあった。僕は何も言えずに、ただその言葉に頷いた。夜も、雪も、風もきっとわかっている。この白い道が、子どもたちに許された旅路ではないことを。

 背中を見つめるたび、不思議と胸の奥がきゅっと痛んだ。その言葉が、何かを隠しているような気がしてならなかった。もしかしたら、思い出せるかもしれない。でも僕はこの時、記憶に蓋をした。初めて、思い出すことが怖くなった。

 やがて、森の外れに差しかかったところで、ある記憶が溢れるように蘇ってきた。

 パーシさんにもらった、あのトランク。中にあったのは、写真。失われた昨日の記録たち。

 幼い僕。笑うパーシさん、若いセディさん。トコさん。雪のない広場。青く茂るセコイアの森。あの頃のフィンロッホ。木の香りがする。日差しの差し込む獣道。滑らかな風。

 そして、写真の隅に、黒の懐中時計を手にしていた男の顔。

『この中に、世界の終わりを見た記録がある』

 あれはたとえ、なんかじゃなかった。
 未来という名の終わりを見た者の、記憶の断片だったのだ。僕は、そっと目を閉じた。

 そのとき、心の奥で、炎の前のパーシさんの声が蘇る。

『昨日のことを忘れるのは、悲しいことじゃないんだよ。でも、思い出すのは、時にとても怖いことなんだ。なぜなら、思い出すっていうのは、もう一度、そのときの痛みを、心の中に生き直すことだからさ。でも、ナオ。君は、選べるよ』

 目を開けたその先に、微かに水の気配があった。

 その言葉を胸に響かせた次の瞬間。
 まだ白い、閃光に染まる視界が、ふっと僕たちを包みこんで、大きく揺らいだ。そして目の前のセコイアの木々が、一瞬だけ暗く沈み、夜の色に染まった。

 でも次の瞬間にはまた昼の光が強く差し込む。夜と昼が、音もなく、交互に世界を塗り替えていった。雲と雪は突如消え、太陽が顔を出した。そしてまた吹雪に見舞われる。世界の明暗は、僕たちを混乱させた。

 ヨアケが立ち止まり、僕の腕を強く握った。

「ナオ……いま、夜だったよね?」
「うん、でも、今は昼だ……どうして?」

 影が逆さに流れる。雪は上からではなく、横から降っていた。風の向きも、時間の流れも、何もかもがおかしかった。

 耳鳴りのような静寂の中で、遠くに聞こえるはずの足音さえ、どこかに溶けてしまう。

 ヨアケの顔色が、わずかに青ざめていた。
 そして、強く握った手が、どこか透き通っているように見えた。

「ナオ……ここ、時間が壊れてる。今と、さっきと、昔と……全部、混ざってる」

 その言葉の意味を、すぐに理解することはできなかった。でも、心の奥が冷たく軋んだ。
 雪の中で、世界は確かに“今”を失いかけていた。

 その時、ミーシャが急に立ち止まり、こちらを振り返った。鋭い光を帯びた瞳で、まっすぐに僕たちを見つめる。

『時間が止まるとね……昼と夜の境目が、曖昧になっていく。でも、それが交互に来るようになったら──それは、世界がまた動こうとしているサインさ。終末に向かう大きな、うねり』

 パーシさんとセディさんは、あの時たしかに、不安そうに言っていた。『だから、今日しかない』と。

”昨日も、今日も、明日も。
大地が時を語れなくなる頃、世界は終末へ誘われる。そして、長い夜と、雪に染まるでしょう。”

 クレーンフェルトの本の一節が、ふたりの言葉と重なり合う。 ⸻急がなきゃ。

 次の瞬間、世界は音もなく、ふっと静かに戻った。雪はまた真上から舞い、太陽は再び、白く淡く輝いていた。そして、ふっとライトが切れるように、静寂の闇が僕たちを包んだ。

 僕たちは立ち尽くしていた。
 それでも、ミーシャの小さな足は、また一歩、先へと歩き出していた。

「ナオ、見て」

 ヨアケが指を差す。木々の影の向こう、白い世界に切れ目のように、青白く光る水面が揺れていた。

「時間の泉」

 その名を口にした瞬間、世界の音が止んだような静寂が降りた。泉は、コバルトブルーの瞳のようだった。その泉のほとりに、ミーシャがひとり、じっと佇んでいた。風が吹き抜けていたはずなのに、ミーシャの毛は一本も揺れなかった。

 そこだけが時間の外側にあるかのように、彼女は微動だにせず、泉を見つめていた。

 雪は強く舞い降りるように、僕たちを包み込んでいた。雪の隙間から、あの泉がゆっくりと浮かび上がってくる。僕たちは、ゆっくりと歩みを進めて、泉に近づいた。隣のヨアケの体がひどく頼りなく、薄らいで見えた。

 泉のほとり。そこに映っていたのは、僕とヨアケ、そしてもう戻らない記憶と、これから出会うはずの何かだった。ヨアケがぽつりと呟く。

「ナオ、覚えてる?あの日、ふたりで、朝を見たこと」

「うん。夜明けの、18秒」

 あの時、僕たちは手をつなぎ、数え始めた。

『……15、16、17、18』

 朝日が、泉の水面を照らした。
 雪と光が交差し、世界が少しだけ、色を取り戻す。あの時、ヨアケは、光を受けながら目を細めた。

『私ね、明日に近づくたびに、体が軽くなるの。それで、だんだん透き通っていく。この雪みたいに、ね』

 その声は、空気のように、色をつけることなく消えていった。僕は、あの時、答えを返せなかった。ただ、その言葉の裏にある真実に、ゆっくりと近づいていく音だけが、心の奥で鳴っていた。

 記憶の蓋を閉めた頃、雪は徐々に激しさを増していた。ミーシャは、一定の距離を保ったまま、時折こちらを振り返った。そして、「にゃおん」と誘うように鳴いた。まるで、道を思い出して、と言うように。僕たちは、その白いふわふわのしっぽを頼りに進んだ。すこしずつ背の高い観測所が見えてきた。

 もう少し。息は荒く上がっていく。景色が、全て同じに見える。視界に晒される雪は僕たちの目の前すら、光に照らすことを忘れた。

 あれ。ミーシャが、見えない。
 足跡が、見えない。

「ナオ、いま何時?」

 ヨアケの声で僕ははっとして、懐中時計の蓋をゆっくりと、開けようとした。指先が悴んで思うように動かない。手袋を外して蓋を開けようとした時、僕の手から懐中時計は、雪の中に落ちた。

「時計が…」

 僕とヨアケは、素手で雪の中を探しまわった。すぐそばに落ちたはずなのに。容赦なく吹き付ける白い雪は、どんどんと手元の景色を全て白く変えていく。

「時計がないと…時間がわからない…」

 時のない世界で生きてきたはずなのに、こんなにも時に依存していたことにふと気がついた。

 一秒が怖い。一分が、怖い。進んでいるはずの時間を確かめられないことが、こんなにも不安にさせるなんて…。

 その時、ふと、優しい感触が頭をなでた。

「ナオ、大丈夫。私がいる。見つかるよ」

 僕はヨアケの瞳を見た。雪のせいなのか、ヨアケの姿がさっきよりも、薄く見える。僕の目元に、一瞬だけあたたかい雫が滲んだ気がした。それは、音もなく、またすぐに冷たい塊に姿を変えて。視界は、白く世界を覆った。途方に暮れて、しばらく無の時間が過ぎた頃。

「にゃおん」

 いつの間にか戻ってきていたミーシャが、僕とヨアケの間に滑り込んだ。

『ここだよ』そう伝えるように、体をくるくると回している。

 ミーシャが回るその先に、かすかに光るものを見た。

「ナオ、これ、懐中時計のチェーンかも」

 僕たちは雪を素手で掘った。手先の感覚は、もうなくなり、体がひどく重たく感じる。

 チャラ…

 冷たい時計が、ヨアケの手の中に収まった。震える悴む手で、そっと蓋を開く。

”6時8分 ”

 カチ…。
 秒針がひとつ、進んだところだった。
 僕たちは、お互いに目を合わせて頷いた。
 もう、時間がない。

「ミーシャ、急ごう」
「にゃおん!」

 僕は懐中時計をヨアケから受け取り、ふたりで雪道を駆け抜けた。ブーツの中に雪がとうとう入り込み、足の先の感覚をさらに奪っていった。

 木々は立ち並び、景色はどこまでも白く、暗闇の中をミーシャだけを頼りに進んだ。思うように、足が進まない。何度も、何度も転びながら、体を立て直していく。進むんだ。この先へ。それが、僕の選んだ道だから。

 随分と雪道を進んだ頃。音もなく、雪はやんで、重たい雲の隙間から満月が顔を出した。観測所が目の前に見える。ここから、西へ ⸻。

 忘却の雪を超えて、探しに行く。
 昨日を、そして、明日を。

「ナオ、行こう。ふたりなら、行けるよ」

 僕は頷いた。そして、手を握り合って、雪の中をどこまでも、進んだ。儚いヨアケの姿を、忘れないように。この一瞬のことを、二度と手放さないように。

 暗闇と、雪が僕の耳に囁きかける。進むのかい?そして、進み続けるのかい?と。息を切らして、靴底の雪の重みに気づかないふりをした。ただ、進む。雪原の暗闇の中を。

 どこまでも歩き続けたその静けさの先で、ガタン、と鉄の軋む音が響いた。

「間に合った」

 思わずヨアケと顔を見合わせた。安堵のため息と、汗が吹き出す。木々の間から、静かに姿を現した列車は、まるで過去の夢が形をとったようだった。

 雪原の中の森の中で、そこだけが雪に埋まることなく、レールが浮かび上がっていた。その上を音を立てながら、列車は、僕たちの前で止まった。今日から連れ出す、乗り物”ネバートレイン号”。

 大きな汽笛の音と共に、記憶が汽車のかたちを借りて現れたようだった。その車体は黒に近い深い群青で、ところどころに古い真鍮の鋲が打たれていた。窓枠は繊細な装飾に、車両の側面には、古い筆記体で「Nevertrain」と描かれていた。

 少しだけ、震えた。ヨアケは、僕の袖をギュッと握った。緊張が、指先から伝わる。

 ポケットから、銀色の懐中時計をそっと取り出す。時刻は、6時30分を少し過ぎた頃だった。

 僕たちは、もう、今日という名の真実の、ほんの目の前に立っていた。長い間、凍りついていた時間を、ようやく少しずつ、溶かしていくように。

 いつのまにか月は雲に隠れ、空の奥から、また雪が吹きつけてきた。僕たちを包むように。そして、背中を押すように。ガタン、と鉄の軋む音が、もう一度空気を裂くように響いた。

 ふいに僕はあたりを見渡した。この世界を目に焼き付けるように。雪に覆われた森のなかで、ひときわ高い枝の上で、小さなヤドリギが息をしていた。

 雪と葉の影に隠れるように咲いた、淡い黄緑の花。誰も気づかないその一輪が、世界の終わりと始まりを、そっと見守っていた。

 ミーシャが、小さく鳴いて僕の胸に飛び込んでくる。白く柔らかな毛並みに、少しだけ震えがあった。

「ミーシャ……ありがとう。ここまで、導いてくれて」

 僕は小さく呟いた。ミーシャの瞳の奥に、なにか大切なものの記憶がふわりと滲んでいくのを感じた。
 そのままそっと降ろすと、ミーシャは静かにしっぽを振って、一歩だけ下がった。

 そして、列車の扉が、音もなく開いた。

 誰もいない車内から、懐かしい匂いが流れてくる。その奥から、ゆっくりと、駅員らしき男が姿を現した。灰色の制服はくたびれ、顔には深い皺が刻まれている。

「合言葉は?」

 ゆっくりとした声が響く。
 ミーシャ越しに現れた記憶の映像が、胸に溢れて止まらなくなる。僕は、本当にこの列車に乗って良いのだろうか。本当に、本当に…。

 ヨアケが、僕の手を強く握り、ささやいた。

「ナオ、行こう」

 僕は、俯いて拳を握りしめた。そして、震える体の中、ただ頷いて一歩前に進んだ。

「合言葉は?」

 僕は、顔を上げた。車掌の顔は、薄ぼんやりとどこか懐かしい顔つきをしていた。この場面すら、僕はもしかしたら、何度か繰り返しているのかもしれない。

「夜明けの、18秒」

 その瞬間、男は目を細めて、微笑んだ。

「ようこそ。ずっと、お待ちしておりました」

 ヨアケを見ると、青白い顔をしたヨアケは、やさしく笑みを浮かべた。僕たちはゆっくりと車内へと足を踏み入れた。
 ドアが音もなく閉まり、雪のなかで、ただ一匹、ミーシャはそこに立ち尽くしていた。

「ナオ……覚えてる?あの日、ふたりで朝を見たこと」

「うん。夜明けの、18秒」

 僕たちは座席で手をつなぎ、そっと目を閉じる。時計の秒針が、カチリ、と音を立てた。

”6時41分”

 カチ、カチ、カチ…秒針は進んでいく。
 僕たちは、しずかに、数え始めた。重なる声が車内に響く。

「……15、16、17…」


 **
  ⸻観測所


 列車の汽笛が、遠くの空を震わせた。
 雪の舞う窓の向こうに、夜明けの色が滲みはじめている。

 パーシは観測所の古びた椅子に腰を下ろし、双眼鏡をテーブルに静かに置いた。

「……行ったね。ようやく、あの時間を越えた」

 セディがコーヒーを淹れながら、トコに目配せをする。

「なんだかんだで、あのふたり……最後まで今日を諦めなかった」

 トコは鼻をすすり、膝に置いたブーツの型紙を撫でた。

「また靴、作らなきゃね。フィンロッホの“明日用”にさ。雪の上を歩けるような、軽いやつ」

 パーシは髭の間からふと笑みをもらした。

「トコさん、あんた最近、ブーツ作ってなかったじゃない。“世界が終わるかもしれないから”って、怠けてたでしょ」

 トコはふくれっ面をしながらも、どこか嬉しそうだった。

「まあね。でもほら、もう“明日”が来るなら……また、足のサイズを測り直さなきゃ」

 セディは窓の外を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「雪が、また、止んできた……」

 観測所には静寂が降りていた。どこか空気があたたかかった。止まっていた時計の針が、再び刻み始めるような、そんな気配があった。しずかに、柔らかい雪が景色を覆う。一枚、また一枚と、花びらが散るように。パーシは、セディと、トコを抱き寄せた。

「──昨日のことは忘れる。でも、あの子たちのことは、きっと忘れないよ」

いいなと思ったら応援しよう!

モスキート エリ 応援が物語のインクになります。 あなたにもそっと、届きますように。

この記事が参加している募集