『夜明けの18秒』・プロローグ・episode 1 小さな違和感と、雪の降る日に【創作大賞2025・ファンタジー小説部門】
あらすじ
雪に閉ざされた町・フィンロッホでは、人々は同じ“今日”を繰り返していた。
少年ナオは、記憶を失くしながらも、白猫ミーシャに導かれ、“昨日”を思い出しはじめる。
止まった時計、読みかけの絵本、世界の終わりを見た猫、そして──“6:41:18”に現れる列車。
それは、過去に取り残された“約束”を取り戻すための、たった一度きりの旅だった。
忘却の雪を越えて、ナオは少女ヨアケと共に「明日」を選ぶため、ネバートレインに乗り込む。
夜明けの18秒に、止まった時間が動きはじめる。
プロローグ
この世界では、祈りのかわりに時計を埋める。
たった18秒で、世界は朝になる。
でも、その18秒が、永遠に来なかった町の話をしよう。
心に降りつもる雪は、どうやら僕の吐息の色も変えたらしい。世界はさらに白く包まれて、澄んだ空気に馴染んでセコイアの巨木の間をするりと抜けていく。遥か上空の枝から落ちてくる雪の塊に、僕の体は、ひときわ冷たく悲鳴をあげた。
頭の中は滑らかに回転しているのに、歩幅が狭くて気が滅入る。そんなもどかしさに首を振ると、彼女はどこか、昨日を覚えているような装いで、小さな足跡を残して先へ行く。
どこまでも白銀の地、この”フィンロッホ”では、今日も深く重なるように雪が舞い降りる。踏み込むと、簡単に足が沈むのに、手を伸ばしても、雪は指のあいだからこぼれ落ちていく。いくら昨日を探しても、掴めないまま溶けていくように。
真っ白で、長毛のミーシャは、短い足を雪に落としながらも妙にしゃんとした足取りだ。まるで目的は一つと言わんばかりに。視線が不意に僕を捉えた。『まだ?』慌てて雪を手で払って追いかける。トコさんの仕立てたスノウブーツは、質は良いけれど、12年の月日には勝てないようだった。僕の足に馴染みすぎたその靴は、歩みの邪魔になるほどに、くたびれている。
僕は、今日という日を、この12年間毎日1ミリの狂いもなく過ごし続けていた。それは、疑問に思うことを忘れる仕掛けだったのかもしれないし、あるいは、忘れることこそが、世界の終わりを知らせる兆しだったのかもしれない。
この町は”昨日”も”明日”もこないのだ。ただ、今日、だけが、音もなくつもり続ける。
『ミーシャは、世界の終わりを見た猫なんだ』
あの手紙に書かれていた、その一文が、今また胸の奥で、ゆっくりと体温を取り戻していく。
”6:41:18”
明日、僕は過去へ行く。止まった昨日を取り戻すために。これは、夜明けの18秒間に起こる、僕が僕になるための小さな今日の物語だ。
episode 1 小さな違和感と、雪の降る日に
窓の外では、雪が降りつづいていた。それでも、その始まりが、いつなのか僕にはわからない。
この世界の人々は、昨日の記憶がすっぽりと抜け落ちている。それは、朝、目が覚めた時から、少しだけ夢の記憶を辿るように、違和感という紙屑が心に深く重なって覆っていくときに似ている。
12年目の6歳の今日。
聞こえてきたのは、誰かが雪の上を歩く音だった。トン、サクッ、トン……。五線譜の上をなぞるようなその足音は、規則正しく、どこか心地良い。
フィンロッホの町では、代々、町はずれの小さなスノウブーツ店を営むトコさんの靴が履き継がれている。
“あなたの歩みを預かります。スノウブーツ・Toco”
木製の立て看板はすでに雪に深く埋もれ、文字は過去の記憶のように、滲んだまま浮かび上がっていた。
生まれた子どもが、初めて雪の上に立つ日。その足に合わせて、トコさんが一本一本手で縫いあげる。それは、この町で歩みが始まるときにだけ与えられる、小さな人生の始まりだ。
雪をやわらかく鳴らすその音は、遠い記憶の扉をそっとノックするようで、スノウブーツはいつも、住人たちの人生の隣にあった。
ミーシャが、ふいに耳をぴくりと動かして、僕の肩を跳び越えて窓辺へ駆け寄った。
袖を伸ばして、窓の霜を指でこすると、指の先からひんやりと冷たさが肌に伝わる。森の奥、郵便ポストの前に、誰かの影が見える。次の瞬間、白い風がすべてをさらっていった。
雪を押しながら玄関の扉を開けると、冷たい空気と氷の粒が頬に吹きつける。凍って取り付けの悪いポストはガタガタと揺れて、中には、折り畳まれた新聞が押し込まれていた。手を滑り抜けて、ひらりと一通の白い封筒が落ちた。そこには、万年筆のインクが滲んだ文字でこう書かれていた。
To Nao.
封筒を裏返すと、猫の足跡の封蝋が、時間ごと封じ込めるように、静かにそこにあった。ミーシャの柔らかい毛並が揺れ、僕をくるりと覗き見る。
「……これ、君の?」
ミーシャは首を傾げた。全てを知るように、うっすら目尻を下げて。中からは、少し湿り気を帯びた薄い紙に、滲んだインクで綴られた手紙が入っていた。
⸻
To Nao.
やぁ、ナオ。
もしこの手紙が無事に届いたなら、たぶんもう、君は気づき始めているんじゃないかな。
世界が、音もなく崩れていってることに。
忘れるという現象が、ほんとうは静かな終末であることに。
ぼくはパーシ。そう名乗ったところで、どこまで君が覚えているかはわからないけれど──
本当は、君にずっと伝えたかったことがあるんだ。
でも、直接じゃうまく話せそうになかったから、こうして新聞の間に忍ばせた。
君のそばにいる白猫、ミーシャ。
実は、もともとぼくの家にいたんだ。
でも、ある日彼女は振り返らずこう言ったのさ。
『私、ナオのところへ行くわ』って。
不思議だよね。
彼女の名を、きみも“ミーシャ”と呼んでいたってこと。
それは偶然じゃない。きっと、約束されたことだったんだ。
ミーシャは、“世界の終わりを見た猫”なんだよ。
そして、時間の外側を歩ける、この世界でたったひとつの存在でもある。
ナオ。
もうすぐ、“迎え”がくる。
きみは、“ネバートレイン”に乗らなきゃいけない。
あれはただの列車なんかじゃない。
忘れられた人たちの記憶と、きみの“約束”を運ぶものなんだ。
きみの胸のどこかに、見覚えのある数字がきっと残っているはず──
6:41:18
それが、鍵。
きみの記憶と、あの約束の残響を開く時刻。
迷ったら、ミーシャについて行くといい。
彼女は知っている。この世界が眠るまえに、何があったのかを。
そして、目覚めるために必要なものを。
また、手紙を書くよ。
会える日を、ぼくも楽しみにしてる。
From Persi
⸻
読み終えると、胸の奥で静かに何かが溶け出した。初めて読む手紙のはずなのに、どこか懐かしい。世界の底から、小さく囁くような、音がした。
ミーシャが、僕の足元にくるりと巻きついた。そして、「にゃおん」と鳴いた。それは誰かの名前を呼ぶ声のように、静かに耳に残る。
「ナオ、ごはんよ」
窓からママが呼んでいる。ミーシャは、雪を払うようにくしゃくしゃと身震いした。僕もまた肩に落ちた雪を払いながら、玄関を開けると、作りたてののコーンスープの匂いが鼻先をかすめる。スノウブーツの雪を落として部屋に入ると、ふと、家族で並ぶ肖像画の前で、僕は足を止めた。笑っているのに、どこか空っぽな目をしている顔が、心を指で弾くようだった。
ミーシャの首輪の鈴がチリンと響く。『私はここにいるよ』と言うように。ミーシャの頭を撫でて、”ありがとう”ってキスをした。
「おはよう、ナオ」
「おはよう、ママ」
トースターは赤く燻って、僕を待っていたように、ちんと、音を立てた。お皿を2枚用意して、パパの分と、僕の分をのせて、「おはようパパ」と、湯気のたつトーストを渡す。
「ナオ、おはよう。雪がまた少し強くなってきただろう」
そう言ってマグカップに手をかけコーヒーを啜った。
「うん。時計……まだ止まってる」
柱時計の前で、ミーシャがじっと座っていた。振り子はとうに止まっているのに、ミーシャの瞳だけが動かずに針を見つめている。
6時41分。そこから18秒ほど進んだ位置で、針はぴたりと、今日も沈黙を守っている。目覚めのあとの、夢のかけらのような違和感。次第にそれは降り積もり灰色な時をそこに置いた。動かない時の中で、再び今日が始まる。
「そうだね。きっと、それがちょうどいいんだ。昨日は……ああ、なんでもない。泉も凍ってるだろうし、スケートができるかもしれないね」
今日も、パパは、昨日の話がどうしても思い出せないようだった。この町では、“昨日”がいつも抜け落ちている。
ミーシャのふわふわのしっぽが、心に触れた。足元にそれを滑らせて、彼女はそうやっていつも僕の心の隙間を埋めていく。
彼女と出会ったのは、忘れかけた風景の一場面。それはたしか雪の日で、誰かのシルエットと一緒に現れたような気がする。そんな曖昧な家族の始まりが、この世界と僕たちにはよく似合う。
冷蔵庫からママはバターをするりと取り出して、僕たちのトーストの上にひとかけら置いた。顔を上げると、ママは少しだけ泣きそうな顔をしている。ブロンドの髪の毛は随分と白髪が多い。ふり積もる雪が、ママを染め上げたようだった。その姿の向こう側にいつかの笑顔がぼんやりと頭を掠める。その最後がいつだったのかは、やっぱり思い出せない。どこか、光に透けた声と髪の毛が、僕の心に薄く差し込み、不意に痛くなる。
僕は少しの間新聞を広げた。届いたばかりのはずの朝刊は、少しだけ紙の端っこがくたびれていて、所々破けていた。手紙をくれた配達員のパーシの届ける新聞はいつも、くたびれている。少し湿っていたり、角が破れていたり。誰かの手をすでに何度か通ったように。
ページをめくり、目を落とす。この世界で僕はまだ6歳のはずだったけれど、どの記事もすんなりと目に馴染んで、変わり映えのしない文面を優しくなでた。そして、紙の端には、にじんだ数字がひとつ。
”6:41:18”
心の奥の奥が、そっと疼いた。
手紙にも記されていたその数字を見つめていると、どうしてかわからないけど、しずかに泣きたくなる。
違和感は音を立てて、僕の指を動かしていく。かさり、かさり。視界が開けたように、ページをめくり続けた。そしてその先で、ラジオのラテ欄の右端の太文字が、目に飛び込んできた。
どきん、と心臓は音を立てたけれど、これが初めてではないことを、僕はとうに知っている。
『クレーンフェルト行き列車出発時間のお知らせ』
ネバートレイン号、クレーンフェルト行き列車の出発は定例通り、朝の6時41分18秒。
乗車券は、“あの合い言葉”を言えた者のみ。付添人は一人まで。
乗車人数に達していなくても、締切となることがあります。どうか乗り遅れのないように──』
「にゃおん」
そのとき、本棚から一冊の本が音もなく落ちた。古びた本の表紙には”クレーンフェルトの旅”と、記されていた。呼ばれたように、新聞を置き、そっと拾い上げる。
ページをめくると、そこには淡い雪景色の挿絵と、小さな町の絵。文字はかすれていたけれど、かろうじて読めた。
⸻
”雪は降り続いていた。
誰かの記憶をそっと包むように、町は静かに埋もれていく。声も、顔も、名前も、ゆっくりと白に変わって。
そうして、世界は──忘れることなく、永遠に、眠りについた。”
⸻
「ナオ、トーストが冷めちゃう」
綴られていた文章が、瞼の奥に張り付いて、記憶がひとつひとつ浮かび上がる。そっと本を抱えてパパの向かいに座った。昨日も、一昨日も、その前も。僕は、この食卓の同じメニューの前に座っている。
トーストをひとくちかじって飲み込んだ。同じ味、変わることのない、毎日。パンくずが口周りに生えた髭について、そっと手で払う。6歳の顔には似つかわしくないけれど、それが僕の一部だった。
この町では、体の大きさは変わらないのに、風貌だけが、少しずつ老いていく。誰もそれを不思議がらないし、誰も口にしない。ただ、昨日を知らないだけだ。
違和感がパンくずと共にはらりと床に落ちた。そうやって、毎日、”今日”を繰り返す。昨日も、約束も、始まりさえも忘れて、絡まることのない雪が静かにつながるように。
僕は、パーシに会いに行く。喉仏を動かし、温かいコーンスープ一気に飲み込む。ミーシャはミルクを飲むのをやめて「にゃおん」と、小さく返事をした。
”ミーシャは、世界の終わりを見た猫なんだ。”
その意味を確かめるために。
フィンロッホの冬は、音までも雪に閉ざされる。セコイアの巨木が見下ろすその町は、時間が深く沈んだ泉のようで、誰かの記憶が静かに凍りついていくようだった。降るというより、ただ空気のなかに雪が浮かんでいる。肩に触れても、溶けることすら忘れたように。
その日の午後は、いつも通りのようで、視界に映る世界が、ほんの少し違って見えた。
パン屋のレミさんは、「なんだか若返った気がするのよ。おやつにパンはどうだい?」と笑っていた。目元には深い皺を刻んで。
トコさんは「ナオくん、大きくなったなぁ。今日は始業式じゃなかったかね?」と聞いたけれど、始業式は先週のはずだった。
スクールに着くと、奇妙な今日が、溢れている。背中の曲がった白髪混じりのフランくん。手元のテキストの焦点が交わらない老眼の僕の隣の女の子。
「眼鏡、鞄に忘れてきちゃった。あ、先生くる。あと18秒あればなぁ」
そして、僕の幼馴染のヨアケは、長い髪の毛を揺らしながらそっと言った。
「ナオ、大丈夫?ぼうっとしてるよ」
「あ、うん。眠かっただけ」
「ねぇ、ナオ。私、何か約束してなかったっけ?」
「え、何を?」
「ううん、なんでもない。忘れて。最近ずっとこんな感じで。頭がすっきりしないっていうのかなぁ」
彼女は少し微笑んだけれど、その表情はどこか、不思議と年上のように思えた。言葉の余韻が残る口もとが、僕の目に焼きついた。
休み時間、手に馴染んだ皮の鞄を探ると、指の先にかさりと見覚えのない本のページから破りとられた古い地図が入っていた。
“永遠の町クレーンフェルトへ続く道。”
「これ、朝の…」
そうつぶやきながら、テキストブックの上に皺を伸ばしてそっと広げた。擦り切れた紙の端っこには、”パーシの家へ”と、記されている。見覚えのある、僕の文字。
リーディングの授業では、先生が読んだ詩の一節が、時間と共に流れていく。いつしか胸の奥で反響しながら。
⸻
”時間は、進む。ゆっくりと。
心と共に、ゆっくりと。
あなたの時間は、本物ですか?
あなたの心は、体とつながっていますか?”
⸻
先生は、今日も悲しそうに読み上げる。終わることのない詩を朗読して。毎日の今日に、違和感を示すように。
授業は終わり、白い息を吐きながらスノウブーツに手を伸ばす。スクールの校門にはミーシャがポツンと一人で待っていた。彼女の瞳は、柔らかく僕を捉えた。ぐるぐる…と喉を鳴らして足元にしっぽを巻き付ける。
「ミーシャ、行こう。パーシの家に」
僕は、しゃがみこんで、あたたかくて、毛並みの割にやせ細ったミーシャをギュッと抱きしめた。そして、テキストブックの間からまた、あの地図を取り出した。
クレーンフェルトまでの道のりが描かれたその地図には、雪に埋もれる前のフィンロッホが刻まれていた。そして、僕が、僕に宛てたメッセージ。
昨日の僕に問いかけた。
パーシの家。
そこからすべてが始まる気がした。ミーシャは、すでに先を歩いている。小さな足跡が、僕を迷わず導いていく。ただ、ついていけばいい。そんな確信が、胸の奥に静かに芽生えていた。パーシ手紙の一文が、そうさせたのかもしれない。
冬が来ても、ときおり暖かい風が抜ける。そんな町だった。淡い記憶の断片が、どこかでそう囁いている。あの、既視感のある本と同じように。
陽が落ちていく。仄暗い闇が、雪道を静かに照らしはじめていた。
ミーシャと歩き続けてたどり着いたのは、灰色の石に包まれた小さな家。雪に沈むように佇むその扉は、ぴたりと閉じられ、どこかで世界の息を止めているようだった。
ミーシャが扉に前足をかけて、カリカリと音を鳴らしている。そっと息をつき、僕は一歩ずつ、雪の上に踏み出した。
いいなと思ったら応援しよう!
応援が物語のインクになります。
あなたにもそっと、届きますように。