『変態病院』episode8 はぬーん事変【創作大賞2025#お仕事小説部門】
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episode8 はぬーん事変。
カウントダウンの音がする。
時は、刻一刻と迫りくる。
私は、エレベーターが来るのを待ちながら、すでにボックスを踏み鳴らしていた。
当院には、「職員食堂」が設置されている。福利厚生の一環で職員も、温かい食事を食べることができるのだ。イメージとしては学校給食のビュッフェ版を想像して欲しい。
私は、このためだけに働いていると言っても過言では無い。単純に、美味しいのだ。ただ、朝食だけは食べる職員も少ないため、患者食と同じお膳をが提供される。
心が跳ねている。なんてったって、今日は大根の煮物だという情報を、すでに任侠栄養士から仕入れていたからだ。煮込み料理なんて一切しないズボラ干物ナースにとって、これは愛の結晶だ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、
05:30
キター!!!
夜勤史上最大の悦に入る。
溢れる喜びを隠し、私は食堂の片隅に静かに着座し、手を合わせる。「頂きます」は心の中で。イメージは武士である。ちょんまげの代わりは襟元のお団子頭である。
メインは、大根とはんぺんの煮物。
カニカマ入りポテトサラダ。
小松菜と、エリンギの味噌汁。
絶妙に変なメニューだ。
まぁ、良い。
私の食欲は、抑えられない。まずは、大根だ。煮物に刀をすっと抜いた。コロンコロンと乱切りされている大根のかけら二つを団子方式に貫いてゆく。口に放り込むと、だし汁がゆっくりと広がっていく…。
はぬーん。
ん…??
はぬーん。
口の中が、はぬーんとしている。
はぬーんの反芻だ。
だ、大根じゃない…
これは…トウガンだ!
してやられた。
はぬーんの謀反である。
私も一揆を起こすべく箸という刀を握りしめ、ワナワナと震えた。背筋に一粒の冷たい汗が流れた。私はトウガンが苦手なのである。
私はトボトボと病棟に戻った。落武者である。襟足のお団子は随分と崩れていたが、直すことはしなかった。仲間が欲しい。口の中は、まだ、はぬーんとしている。このエンドレス、はぬーん飽和状態を誰かと共有したい。私はすでに「はぬーん、ハイ」になっていた。
病棟ではすでに食事が配膳され始めていた。
「ね、この食事介助エリア、誰か回せる?」
介護士のサトウは、現場を仕切るDJである。ビートを刻みながらも素早く配膳をしていく様は小さなフェス会場さながらだ。
私はすっと挙手をした。
「モスキートにお任せを」
人には、適材適所というものがある。何を隠そう、私は朝食の献立を知り尽くした伝道師なのだから。
江口さんの隣に着席する。
このエリアには、嚥下状態の悪い10人ばかりのお年を召した患者様が食事をしている。この中には絶対にいる。
「トウガンはぬーん事変」に直面するひとが。
私は、江口さんに狙いを定めた。
江口さんは、円背の強い、食べながらうとうと寝てしまうお婆様だ。食べるのも遅く、残念ながら時間がかかる。江口さんは耳が遠い。野太く、低い声で耳元で話しかける。
「おはようございます」
「おはにょーん」
まずは、視覚に訴える。
「ご覧ください。これはなんの煮物でしょうか」
江口さんは答える。
「これは、大根とはんぺんだねぇ」
「ほほーん」
いざ、実食。答え合わせである。一口ゆっくりと差し出す。
江口さんは、目を瞑り、咀嚼している。その道の匠のような表情は、お代官様さながらだ。元々大学教授の肩書きのある彼女は、今日も出立が尊い。
「どうです?」
江口さんは、くっちゃくちゃくっちゃくっちゃと例のトウガンを噛み締めている。もう一度話しかけてみることにする。
「この『はぬーん』とする食べ物はなんですか?」
咀嚼音が鎮まるのを待つ。
「このはぬーんとしている、食べ物は、トウガンだねぇ」
『はぬーん』と、『トウガン』というアンサーを手に入れた。リーチだ。私は続ける。
「このはぬーんとした、トウガンはお好きですか?」
「いやぁ、このはぬーんとしたトウガンは、お好きじゃないねぇ」
ビンゴ!
高速ジャグラーが確かに揃う瞬間だった。
朝7時、私はついに仲間を手に入れた。15時間目の奇跡である。
DJサトウははぬーんはぬーんと、食器を下げている。一揆は過ぎ去った。はぬーん日和である。
日差しは静かに院内に降り注いでいる。
良い朝だ。おはにょーん。
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