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トライアル① 罪人A

とらのすけさんの罪人Aの続きを書いてみました。
難しかったですが貴重な体験をさせていただきました。
ありがとうございますm(_ _)m

 十二月の校舎は鉄の箱のようだ。雨風を防ぐ代わりに、それ自体が保冷材のように冷気を帯びている。
 足元から、壁の芯から、僕の真ん中の熱まで奪おうと手を伸ばしてくる。
 無数の冷たい手から逃れるため、僕はできるだけ廊下の中心を歩いて部室へ向かった。

 この季節、入口の扉が閉まっていると身構えてしまう。部室の金属製のドアノブは、人の手による干渉を火花と破裂音で拒む。
 誰か来やしないかと振り返るが、灰色に染まった通路には猫さえ見当たらない。

 意を決して火花を喰らおうとしていたときだった。

「川島くん」

 背中から、鈴森春子の声がした。

 ――が、冷たい廊下には、僕と、僕を呼ぶ声しか存在していない。

 首を傾げる僕に、その声は続ける。

「あ、ごめん。私、朝起きたら透明になってて」

「……は?」

 間抜けな声が出た。

「いや、私も最初はびっくりしたんだけど」

 声はいつもの鈴森だった。少し眠たそうで、抑揚が薄くて、でもどこか柔らかい。

「案外、慣れるね」

「どこにいる」

「川島くんの左」

 反射的に飛び退く。

「あはは、ひど」

 見えない笑い声が、冬の廊下に白く響いた。

 そのとき、不意に部室の扉が開いた。

「うおっ、寒っ」

 顔を出したのは美術部の吉岡だった。僕を見るなり眉をひそめる。

「なに廊下で一人で喋ってんの?」

「いや……」

 言葉に詰まる。

 吉岡はそれ以上気にした様子もなく、肩をすくめて通り過ぎていった。

「ね?」

 すぐ耳元で鈴森が囁いた。

「誰にも見えてない」

 僕は乾いた唾を飲み込む。

 吉岡は、鈴森の声にも反応しなかった。

 部室へ入ると、ストーブはまだ点いていなかった。冷え切った空気の中、美術用の石膏像だけが青白く浮いている。

「川島くん、ストーブお願い」

「……自分でやれよ」

「透明だから面倒なの」

 そう言って笑う。

 数秒後、がこん、とストーブのスイッチが押された。

 赤い火がゆっくり灯り始める。

「できるじゃん」

「見えないと、距離感バグるんだって」

 僕は椅子に腰を下ろした。

 鈴森は見えない。

 なのに確かにそこにいる。

 椅子が軋み、机に肘をつく音がする。甘いシャンプーの匂いまで漂ってくる。

「ねえ川島くん」

「ん?」

「透明って、思ったより快適だよ」

 石膏像の鼻先を眺めながら、鈴森は言った。

「誰にも見られないって楽」

「……そうか?」

「うん。視線って疲れるんだね」

 少しだけ沈黙が落ちる。

 ストーブの火が金網の向こうで鳴っていた。

「あとさ」

 鈴森の声が少し近付く。

「川島くん、私のこと見えてなくても普通に話してくれるし」

「いや、声聞こえるし」

「優しいね」

 僕は返事をしなかった。

 その代わり、ストーブに手をかざす。

 冷えた指先は、なかなか熱を思い出さなかった。

 それから数日、鈴森は“透明なまま”学校へ来ていた。

 何事もないみたいに授業を受け、昼休みには購買へ行き、放課後になると部室へ来た。

 廊下ですれ違う生徒を避けもせず歩く。

「見えてないから平気平気」

 そう言って笑う。

 けれど時々、誰かが不自然に鈴森を避ける瞬間があった。

 ぶつかりそうになった女子が顔をしかめたり、男子が小さく舌打ちしたり。

 鈴森は、そのたび小さく笑った。

「ほらね」

「透明って便利だよ」

 放課後の部室で、鈴森は楽しそうに言った。

「今日コンビニ寄ったけど、店員さん一回も私のこと見なかった」

「……」

「存在感ない私にぴったりかも」

 冗談っぽく笑う。

 僕は笑えなかった。

 けれど、否定する気にもなれなかった。

「ねえ」

 その日、部室には僕らしかいなかった。

 窓の外では、重たい雪が降り始めている。

「川島くんって、私のこと好き?」

 不意打ちみたいに鈴森が言った。

「……なんだよ急に」

「いや、透明になってから、なんとなく分かるんだよね」

 椅子が軋む音。

 鈴森が立ち上がった気配がした。

「見えないって、相手の視線ばっか感じるから」

「鈴森」

「私もね、川島くんが好き」

 胸の奥が小さく揺れる。

 返事を探している間に、衣擦れの音がした。

「……おい」

「ん?」

「何してる」

「え?」

 鈴森は本気で不思議そうな声を出した。

「いや、だって透明だし」

「待て待て待て」

 僕は立ち上がる。

 見えない誰かが、制服のボタンを外している音がする。

「鈴森!」

「あはは、そんな慌てなくても」

「見えてるから!」

 その言葉が、部室の冷たい空気に硬く落ちた。

 しばらく、沈黙があった。

 雪だけが窓を叩いている。

「……え?」

 鈴森の声が、かすかに震えた。

「見えてるって、なに」

 僕は何も言えなかった。

 見えていた。

 最初からずっと。

 ただ、傷付けたくなかっただけだ。

 その優しさが何だったのか、もう分からなかった。


「高校では落ち着いてたんですけどね」

 面会室で、春子の母親は静かに笑った。

「久しぶりだったんです。ああいうの」

 紙コップの湯気はもう消えている。

 窓の向こうには、白い中庭が広がっていた。

「昔から時々、自分の姿が見えなくなるみたいで」

「でも今回は、楽しそうだったんです」

 母親は少しだけ泣きそうな顔をして言った。

「学校にも行けてたから」

 遠くで、ナースコールが鳴る。

 僕は立ち上がり、面会室のドアノブに手をかけた。

 ぱち、と小さな火花が散る。

 思わず手を引っ込める。

 あの日、部室で鈴森が服に指をかけた瞬間のことを、不意に思い出した。

 曇った窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく青白かった。

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