漱石「彼岸過迄」考察2 時系列
夏目漱石の小説「彼岸過迄」、明治45年(1912年)連載。
この小説は計6つの章からなり、途中で時系列が入れ替り、話の語り手も変わる。
かつ多くの描写は「登場人物が、他の登場人物に向けて語るところによれば」であり、作中世界の客観的事実であるか否かは、不明な点もある。
前回の記事であらすじをまとめたので、今回は時系列を。
以下、冒頭「風呂の後」で田川敬太郎が「今夜は少し癪も手伝って、飲みたくもない麦酒(ビール)をわざとポンポン抜いて」いた時(一)を、「物語開始」として起算点にします。
むろん正確な年数や前後関係は不明点多いので、幅を持たせて記載。
不明なところを不明点としてメモしておきたいのもある。
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
1、物語開始約28年~15年前
1(1)28年前?親世代の婚姻
おそらく約28年前
・松本長姉(須永母)、軍の会計官である須永父と婚姻
・それよりも後に、松本次姉、須永父のすすめでまだ金持ちではなかった田口要作と婚姻
まず千代子の生れない当時に溯る必要がある。その頃の田口はけっして今ほどの幅利きでも資産家でもなかった。ただ将来見込のある男だからと云うので、父が母の妹に当るあの叔母を嫁にやるように周旋したのである。田口は固より僕の父を先輩として仰いでいた。なにかにつけて相談もしたり、世話にもなった。
・(前後関係不明)松本恒三、御仙(おせん)と婚姻
・(前後関係不明)田川父と田川母、田舎で婚姻(どちらかあるいは双方が地主)。
1(2)25年前? 敬太郎ら出生など
約25年前
・(田舎で)田川敬太郎、出生
・須永父と小間使い「御弓」との間に、須永市蔵、出生。須永母が引き取る
・市蔵を出産後すぐ、御弓死去(死因不明)
彼の実の母は、彼を生むと間もなく死んでしまったのである。それは産後の肥立が悪かったせいだとも云い、または別の病だとも聞いているが、これも詳しい話をしてやるほどの材料に欠乏した僕の記憶では、とうてい餓えた彼の眼を静めるに足りなかった。
1(3)20年前? 妹世代の出生
約20年前?
・須永の妹、「妙(たえ)ちゃん」(須永妙子?)出生。
・(前後関係不明)田口千代子、出生。
→ 須永母、田口要作夫妻(妹夫妻)に対し、生まれたばかりの千代子を市蔵の嫁にと頼み、承諾される。
両家の間に新らしく成立したこの親しい関係が、月と共に加速度をもって円満に進行しつつある際に千代子が生れた。その時僕の母はどう思ったものか、大きくなったらこの子を市蔵の嫁にくれまいかと田口夫婦に頼んだのだそうである。母の語るところによると、彼らはその折快よく母の頼みを承諾したのだと云う。
(※ 気になる点 「妙ちゃん」の出生→死去と、須永母の縁談申し込みとの、前後関係が気になる。妙子が生まれたから、あるいは死んだからこそ、須永母は血のつながりのない息子と、自身の姪を婚姻させようとした?)
(※ 気になる点2 小間使いとの間の子の名が、「市蔵」。本妻との子の名が、「妙子」と。小間使いとの子のほうがちゃんとした名付けしてるような、、市蔵の母である「御弓」の意向?)
(※ 気になる点3 御弓の家族はどうしてるのか? 仮に市蔵を須永家で育てることを承知したとしても、市蔵とまったく無縁のまま生きているのか? もしかしたら作中のどこかに密かに御弓の父母(市蔵の母方の祖父母)が出てきているのでは、、)
1(4)18年前? 須永妹死去など
約18年前?
・「妙ちゃん」(須永妙子?)ジフテリアで死去。
・松本咲子(長女)出生
・(おそらくこの頃)田口百代子、出生
・(おそらくこの頃)田川敬太郎、馬から蹴られて土手から転がり落ちるも、無事
彼が小学校へ行く時分の事であったが(略)摘草に行った帰りに、馬に蹴られて土堤から下へ転がり落ちた事がある。不思議に怪我も何もしなかったのを、御祖母さんが大層喜んで、全く御地蔵様が御前の身代りに立って下さった御蔭だこれ御覧と云って、馬の繋いであった傍にある石地蔵の前に連れて行くと、石の首がぽくりと欠けて、涎掛けだけが残っていた。敬太郎の頭にはその時から怪しい色をした雲が少し流れ込んだ。
1(5)15年前? 須永父死去
約15年前?
・須永父死去。病死と思われるが病名は?
父は死ぬ二三日前僕を枕元に呼んで、「市蔵、おれが死ぬと御母さんの厄介にならなくっちゃならないぞ。知ってるか」と云った。僕は生れた時から母の厄介になっていたのだから、今更改ためて父からそれを聞かされるのを妙に思った。黙って坐っていると、父は骨ばかりになった顔の筋を無理に動かすようにして、「今のように腕白じゃ、御母さんも構ってくれないぞ。もう少しおとなしくしないと」と云った。
2、約5年前
約5年前と思われる出来事
・松本宵子(よいこ)、2歳で死去。原因よくわからない。
→ 火葬場には、松本御仙、須永市蔵、田口千代子、下女の「清」の四人で向かう
(※ 気になる点 漱石で「清」といえば、「坊っちゃん」、「門」、あと「明暗」の「清子」も、、)
・(おそらくこの頃)森本の子、死去
(※ 気になる点2 もしかして森本のいう「餓鬼(がき)が死んでくれたんで、まあ助かったようなもんでさあ」(「風呂の後」三))の子は、他の箇所で描かれた夭逝した子のだれかでは、、?
・(おそらくこの頃)須永母子が?鎌倉周辺に出掛けている。
僕はしばらく見ないうちに、急に新らしい家の多くなった砂道を通りながら、松の間から遠くに見える畠中の黄色い花を美くしく眺めた。
(略)
母は内気な癖にこういう陽気な席が好きなのである。彼女はその時偶然口に上った一塩にした小鰺の焼いたのを美味いと云ってしきりに賞めた。
「わたしもいつか大磯で誂えてわざわざ東京まで持って帰った事があるが、よっぽど気をつけないと途中でね」
3、物語開始1年~数か月前
3(1)物語開始約1年前・鎌倉の海
【須永市蔵が大学三年から四年になる前の夏休み】
・田口一家が鎌倉で避暑
→ そこに高木や須永母子を呼ぶ → 市蔵は一泊だけですぐに帰京
→ 市蔵、小間使いの「作」を気に入り出す → 千代子が須永母を連れて須永宅に
→ 千代子が市蔵に「あなたは卑怯だ」(「須永の話」三十四)
千代子は作が出て来ても、作でないほかの女が出て来たと同じように、なんにも気に留めなかった。作の方ではいったん起って梯子段の傍まで行って、もう降りようとする間際にきっと振り返って、千代子の後姿を見た。
(※ 気になる点 「作」といえば漱石の後の作品「こころ」で、「私」の父の旧友として見舞いにくる人物だ。もしかして「こころ」の作も女か?と思ったが「かかあ」とあるから、やはりおじいさんだな)
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨ましいね。己はもう駄目だ」
「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
(時期不明)市蔵も千代子も、この「卑怯」云々の口論を、松本に話している。
あの事件ならその当時僕も聞かされた。しかも両方から聞かされた。あれは誤解でも何でもない。両方でそう信じているので、そうしてその信じ方に両方とも無理がないのだから、極めてもっともな衝突と云わなければならない。
3(2)数か月前・市蔵の秘密
【須永市蔵の大学卒業試験ひと月半前】
・松本恒三、市蔵に小間使いとの子であること、産みの母は既に死去したこと等を告げる
【須永市蔵の大学卒業試験の直前】
・松本恒三、須永市蔵の近所の洋食屋で共に夕食を取る
【須永市蔵の大学卒業試験終了後】
・試験終了のすぐ翌日、市蔵が松本宅を来訪し旅行すると告げる
→ 市蔵は旅行先の京都や明石から松本に絵葉書・封書を送る
約束の音信は至る所からあった。勘定すると大抵日に一本ぐらいの割になっている。その代り多くは旅先の画端書に二三行の文句を書き込んだ簡略なものに過ぎなかった。僕はその端書が着くたびに、まず安心したという顔つきをして、妻からよく笑われた。
(気になる点 市蔵は大学卒業試験の2、3か月前に松本から出生の秘密を告げられ、さらに試験直前にも松本におせっかいのような念押しをされたが、無事に卒業したようである。実はかなり図太い?)
・田川敬太郎、大学を卒業(田口→松本の紹介状によれば、敬太郎も市蔵と同じく「法学士」(「報告」七))
4、物語開始と、それ以降
【田川敬太郎が就活に疲れている秋頃から】
4(1)物語開始~数週間
・田川敬太郎、風呂で森本と会う
→ 森本がステッキを置いて失踪 → 森本から敬太郎に手紙
【冬になり】
・敬太郎、田口要作から探偵を提案される → ステッキを手に松本恒三と田口千代子を観察 → 田口に報告 → 松本と対面
4(2)物語開始翌年の正月
・田川敬太郎、就職が決まった模様
・田川敬太郎、田口宅によく出入りするようになる
【年明けて正月半ば】
・田川敬太郎、田口宅で千代子や百代子とカルタで遊ぶ
正月半ばの歌留多会の折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分鈍いのねと云われた。百代子からは、あたしあなたと組むのは厭よ、負けるにきまってるからと怒られた。
4(3)物語開始翌年2月半ば
・田川敬太郎、田口宅で書生の佐伯から千代子の縁談話を聞く
・その2、3日後、敬太郎が須永宅を訪問。市蔵と千代子はステッキの話で楽し気にしている(そこに須永母も加わる)
→ 千代子、敬太郎に「雨の降る日」の話を聞かせる。
(気になる点 千代子が「雨の降る日」の話を敬太郎に聞かせている時、そこには市蔵もいたはず。その上で「じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持った覚えがあって」「あるかどうか僕は知らない。」/「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二つのような子を拵えてちょうだい。」等の話をしていたのか?)
(気になる点2 この時点で上記の鎌倉帰りの口論から、1年半は経過している。市蔵は京都や明石に旅行にもしている。この間、市蔵・千代子・作、ついでに百代子との関係や、須永母と千代子との関係にも、なんら変化はないということか? そもそも作はまだ須永家いるのか?)
・その翌週日曜日、ステッキを手にした敬太郎が須永から「須永の話」を聞く。須永父や妹の死、鎌倉・高木・「卑怯」の口論、さらには松本恒三に対する市蔵の批評も、敬太郎は市蔵から聞いている。
僕は松本の叔父を尊敬している。けれども露骨なことを云えば、あの叔父のようなのは偉く見える人、高く見せる人と評すればそれで足りていると思う。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物の名を加える非礼と僻見とを憚かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥しているのである。
・(この須永の松本評を聞いた上で)敬太郎、松本に市蔵のことを聞きに行く。
→ 松本は、約半年前であろう市蔵の旅行先からの手紙を敬太郎に見せる
思ったよりだいぶ長くなってしまった。
また特に気になるところをまとめたい。
