漱石「こころ」考察22 Kは他殺?「たった一人で淋しい」は嘘
夏目漱石の有名作品「こころ」、大正三年(1914年)連載。
私は「こころ」におけるKの自殺は「Kが自殺を図ったが死に切れていなかったところを、先生がとどめをさして殺した」と考えている。
今回もそう考える理由の一つを語ります。
理由は「先生がKが自殺した理由をわざわざ後から作出している」こと。
1、急に自殺理由の追加
1(1)たった一人で淋しい
「こころ」の終盤に、急に先生はKの自殺理由を語り出している。
酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。私は妻から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。
同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄っとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
これは「下 先生と遺書」の全五十六章のうち五十三章である。物語の終盤だ。
Kが自殺したのは失恋だけではない、たった一人で淋しくって仕方がなくなったからではー。ここだけ見たらさほど不自然ではない。
しかし私が引っかかるのは「行人」で全く同じフレーズが登場するからである。
1(2)「行人」の精神病の娘さん
夏目漱石が「こころ」の2年前に書いた長編小説「行人」(こうじん)、大正元年(1912年)連載。
この「行人」にも、同じフレーズが出て来る。
「行人」の主人公兼語り手・長野二郎の友人である「三沢」が、ある回想を聞かせる。
今から五六年前彼の父がある知人の娘を同じくある知人の家に嫁らした事があった。不幸にもその娘さんはある纏綿した事情のために、一年経つか経ないうちに、夫の家を出る事になった。けれどもそこにもまた複雑な事情があって、すぐわが家に引取られて行く訳に行かなかった。それで三沢の父が仲人という義理合から当分この娘さんを預かる事になった。――三沢はいったん嫁いで出て来た女を娘さん娘さんと云った。
「その娘さんは余り心配したためだろう、少し精神に異状を呈していた。
(略)
「その娘さんがおかしな話をするようだけれども、僕が外出するときっと玄関まで送って出る。いくら隠れて出ようとしてもきっと送って出る。そうして必ず、早く帰って来てちょうだいねと云う。
(略)
「宅のものがその娘さんの精神に異状があるという事を明かに認め出してからはまだよかったが、知らないうちは今云った通り僕もその娘さんの露骨なのにずいぶん弱らせられた。父や母は苦い顔をする。台所のものはないしょでくすくす笑う。僕は仕方がないから、その娘さんが僕を送って玄関まで来た時、烈しく怒りつけてやろうかと思って、二三度後ろを振り返って見たが、顔を合わせるや否や、怒るどころか、邪慳な言葉などは可哀そうでとても口から出せなくなってしまった。その娘さんは蒼い色の美人だった。そうして黒い眉毛と黒い大きな眸をもっていた。その黒い眸は始終遠くの方の夢を眺めているように恍惚りと潤って、そこに何だか便りのなさそうな憐れを漂わせていた。僕が怒ろうと思ってふり向くと、その娘さんは玄関に膝を突いたなりあたかも自分の孤独を訴えるように、その黒い眸を僕に向けた。僕はそのたびに娘さんから、こうして活きていてもたった一人で淋しくってたまらないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた。――その眼がだよ。その黒い大きな眸が僕にそう訴えるのだよ」
ちなみにこの「精神病の娘さん」とKとの間には他にも共通点が多数ある。私は何度かふれた。
ちなみに私は最初に「行人」を読んだ学生時代、「蒼い色の美人」から「こうして活きていてもたった一人で淋しくってたまらないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋」られるとのフレーズを目にして、ああ美人にこんなふうにすがられたいとの思い(妄想)で頭がいっぱいになり、しばらく話が入ってこなかった。
このアホ話を無理に夏目漱石先生の話につなげる。
引用した「行人」の「たった一人で淋しくって~」との言葉は、「精神病の娘さん」が実際に発したものではない。
娘さんを好きになった三沢が、勝手な妄想で創り上げて、友人の長野二郎に語ったものである。
私がひたっていたように「自身に都合のいい妄想」として出て来たものが「たった一人で淋しくってたまらない」とのフレーズであることに注意が必要だ。
そして同様に「こころ」における「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのでは」というのも、当然だがK自身の言葉ではなく、先生の想像である。
1(3)あまりに共通項多い
もう一度、フレーズを対比してみよう。
「行人」の精神病の娘さん(への想像)
・たった一人で淋しくってたまらない
「こころ」のK(への想像)
・たった一人で淋しくって仕方がなくなった
また文言以外にも共通項がある。まず上でも見たように
・本人の言葉ではなく、本人の気持ちを他人が(勝手に)想像して創作したもの
これともう一つ
・本人は既に死んでいる
「それから。――その娘さんは」
「死んだ。病院へ入って」
さらにもう一つ共通項がある
・台詞を創作した人物が、本人と家族ではないがしばらく同居していた
(他にもKと娘さんには妙に多数の共通項があり、これについては上に引用の自分の記事であれこれ書きました。)
これだけ多数の共通項がすぐ前の作品においてある以上、これは作者である夏目漱石が「先生の「Kがたった一人で~」との想像を解釈するにあたっては、「行人」を参考にすること」と提示したとみるべきだ。
1(4)「行人」三沢の想像は怪しい
そして「行人」において、明記はされていないものの三沢の「その娘さんが僕にすがるように~」との想像は、かなり怪しいのだ。
「精神病の娘さん」の三回忌を、三沢が長野二郎に対して振り返る話
彼は一般の例に従って、法要の済んだ後、寺の近くにある或る料理屋へ招待された。その食事中に、彼女の父に当る人や、母に当る女が、彼に対して談をするうちに妙に引っ掛って来た。何の悪意もない彼には、最初いっこうその当こすりが通じなかったが、だんだん時間の進むに従って、彼らの本旨がようやく分って来た。
「馬鹿にもほどがあるね。露骨にいえばさ、あの娘さんを不幸にした原因は僕にある。精神病にしたのも僕だ、とこうなるんだね。そうして離別になった先の亭主は、まるで責任のないように思ってるらしいんだから失敬じゃないか」
「どうしてまたそう思うんだろう。そんなはずはないがね。君の誤解じゃないか」と自分が云った。
「誤解?」と彼は大きな声を出した。自分は仕方なしに黙った。
「娘さん」の「父に当る人」や「母に当る女」は、娘の精神病の原因は三沢だと、何故か確信している。
(※ この「母に当る女」との表記の不自然さや「娘さん」両親の考えの当否については「行人」に関する投稿で何度か書きました。)
この「娘さんの両親」の考えが正しいとすると、三沢の「その娘さんがたった一人で淋しくってたまらないから、どうぞ助けて下さいと袖に縋られるように感じた」というのは、完全に三沢側の勝手な思い込みとなる。実態とは逆の、いわば都合のいい妄想である。私がかつてひたっていたような。
そうであれば「こころ」の先生のKに対する「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのでは」というのも、都合のいい妄想、と解釈すべきとではなかろうか。
2、そもそも不自然
先生の深刻なトーンにつられて見逃しがちになるが、冒頭引用の「下・五十三」における先生の言い分はそもそも不自然なのである。理由は二つ
・先生はKとはかなり境遇が違う
・「たった一人」どころか崇拝者の「私」が来てから自殺を決意・遂行している
2(1)恵まれた先生
前者についてはいうまでもなく、先生は見事に美人のお嬢さん(静)と結婚できている。
さらにまたどこかで論じたいが、静とその母が有している(であろう)かなり多額の資産も、結婚により先生は事実上取得できているのだ。
先生は自身もあたかも「たった一人」であるとヒロインぶったような記載をしているが、その論拠は「世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していない」・「理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せない」というものである。
これただの自業自得ではないか。
先生が自身で勝手に静に秘密にしていることを話せば「理解」してもらえるのでは。そうであれば特段孤独でもない。
それとも、実は静に話したら絶対に理解されないような秘密ということか。
2(2)崇拝者が来たから自殺する先生
最初に引用した「下 先生と遺書・五十三」を見ると、あたかも先生が孤独を理由として自殺を決意したかのようにみえる。
しかし実際は、自分を崇拝してくれる若者、しかも優秀で金持ちの息子である「私」の登場で、自殺を決意し、遂行したはずである。
私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
つまり「たった一人で淋しくってー」とは、逆である。
「私」が登場し接近し、仲良くなり、どういう理由か「私」に血を浴びせたくなったから死ぬというのである。
このように孤独とは逆であるのに、冒頭引用の「下・五十三」においては、「俺ってほんと孤独だわー、この世界に一人きりだわー、しにたいなあー、、、ああ、Kもきっと俺のように思ったんじゃないかなー」と、わざわざ書いているのである。
つまり先生は、Kの自殺理由にも、そして自身の自殺理由にも、不自然な付け加えをわざわざしたのである。
何故そんなことをしたのか。
明記できない別の理由があるからだ、Kの死にも、自身の死にも。
つまり、Kは先生がやったのだ。
それが先生の一番の自殺理由なのだ。
