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漱石「こころ」考察69 Kは田川K太郎

夏目漱石の小説「彼岸過迄」、明治45年(1912年)連載。
夏目漱石の小説「こころ」、大正3年(1914年)連載。

前者「彼岸過迄」に出てくる、若いインテリ無職:須永市蔵は、「こころ」の「先生」に似ている。

2人の共通点を何度も指摘してきた。
今回で計12個になる。

共通点
1、大卒の高等遊民(お金に困ってない無職)
2、(実の)両親はともに病死
3、(今では)一人息子
4、身内に軍人がいる
5、叔父を異様に称賛 → 叔父を異様に呪詛
6、従妹との縁談話がある → 成立していない・させない。男側の乗り気でない理由も同じ
7、知人男性の頭部周辺を攻撃して殺害したい願望
8、知人男性が仲の良い女性とカルタを楽しむ
9、嫌悪したい女の「笑い」がある

今回はさらに3つ追加。

10:金や地位を目当てにされたら好きな女相手でもイヤ!
11:他の男と競わされたらイヤ・最初から俺だけを選べ!

そしてもう一つ、共通点

12:同じ大学の友人に、「



1、金も地位もない俺でも愛せ!

1(1)市蔵「俺に地位を求めずに愛せ!」

「彼岸過迄」の須永市蔵は、従妹(実は血のつながりはない):田口千代子にかなりの好意を抱き、千代子からも少なくともある程度は好かれていながら、嫁に貰う気はないと。
市蔵がその旨を友人:田川敬太郎に語る

 これほど好く思っている千代子を妻としてどこが不都合なのか。―(略)
 彼女は美くしい天賦の感情を、あるに任せて惜気もなく夫の上に注ぎ込む代りに、それを受け入れる夫が、彼女から精神上の営養を得て、大いに世の中に活躍するのを唯一の報酬として夫から予期するに違いない。(略)彼女は、頭と腕を挙げて実世間に打ち込んで肉眼で指す事のできる権力か財力を攫まなくっては男子でないと考えている

(「彼岸過迄」須永の話・十二)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

これ、一見冷静に「だから僕は彼女を嫁に貰おうとはしないのさ」と達観した立場から理屈を語っているようにはみえる。

だが私にはどうしてもこう本音が読めてしまう。

本音
ああ、千代子からこう言われたらいいのになあ
「わたし地位とか活躍とかどうでもよくってよ。とにかく市さんが好きだからあなたのお嫁にして」
とか、向こうから言ってくれたらなあ。そしたら喜んでOKするのに、、、
いやまあ、そこまで明確に公言までするのは非現実的としてもも、なんとなくそんな雰囲気を、もっと千代子が感じさせてくれたら、俺ももうちょっと自分から積極的に行動できるんだけどなあ、、、

結局そういうことではないだろうか。
引用の「十二」で、続けて須永市蔵は語る。

 僕は自分と千代子を比較するごとに、必ず恐れない女恐れる男という言葉をくり返したくなる。

(「彼岸過迄」須永の話・十二)

何故、女は「恐れない」のに、男は「恐れる」のか。
答えは簡単。力関係だ。
女は自分から飛び込んでさえいけばいつでも受け入れてもらえる。それを意識するまでもない当然の大前提として確信し切っている。だから恐れる必要はない。
しかし男は、大丈夫かもと信じて突き進んだ結果、あっさりかわされ、拒絶され、無視されスルーされ、ため息をつかれ、迷惑がられ、迷惑者として周囲に吹聴される危険がある。あるいはたとえOKされても困難な条件を付与されその実行を要求される危険もある。だから迷い、恐れないといけなくなる。あらかじめ確証が得られない限りは。
(むろん、この場合・漱石作品に描かれたケースの話ではである)


1(2)先生「俺を財産目当てでなく愛せ!」

「彼岸過迄」で、須永市蔵がだらだらと理屈を述べた二年後、「こころ」の先生も「金目当てならイヤ」と似たような話をのたまう。
長い長い手紙で「私(わたくし)」宛に。

私はどういう拍子かふと奥さんが、叔父と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと力めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾な策略家として私の眼に映じて来たのです。私は苦々しい唇を噛みました。(略)
 私の煩悶は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって堪らなくなるのです。

(「こころ」下 先生の遺書・十五)

何度も何度も言うが、先生はこんなことを手紙に記しながら直前の「十四」では自身のお嬢さんへの思いを「ほとんど信仰に近い愛」などとポエムを語っているのである。

私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。(略)お嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。

(「こころ」下 先生と遺書・十四)

なんだろう、司祭か審問官になりきって「神を疑うとはなんたる不敬じゃこの異端者め」とかツッコミたくなる。

繰り返していうが、先生は稀代のポエマーなのだ。そう描かれている。

そしてこの「十五」の描写も須永市蔵と同様、もしお嬢さんのほうから「あんまりだわ。あなたに財産がなくても心は一つになれますよ。あれ?なぜそんな顔をするの」とか言われたらすぐ先生は応じるだろう。


2、他の男と比較せず唯一無二の俺だけを愛せ!

2(1)市蔵「高木と比べずに俺だけを愛せ!」

須永市蔵は、先の引用と同様に自分が積極的に千代子をもらにいかない理由を語る。
わかりやすくモテそうな男:高木との対比で、友人:田川敬太郎に。

僕の高木に対して嫉妬を起した事はすでに明かに自白しておいた。(略)僕は断言する。もしその恋と同じ度合の劇烈な競争をあえてしなければ思う人が手に入らないなら、僕はどんな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄ててしまうつもりでいる。男らしくないとも勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したらどうにでも評されるだろう。けれどもそれほど切ない競争をしなければわがものにできにくいほど、どっちへ動いても好い女なら、それほど切ない競争に価しない女だとしか僕には認められないのである。

(「彼岸過迄」須永の話・二十三)

これも、小難しい理窟を述べているようで、要はこうでは。
「もっとわかりやすく、向こうから俺だけを愛してくれたらなあ、、、」


2(2)先生「Kではなく唯一無二の俺だけを愛せ!」

そして「こころ」の先生も同じ旨を手紙に記す。

もしかするとお嬢さんがKの方に意があるのではなかろうかという疑念が絶えず私を制するようになったのです。はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。恥を掻かせられるのが辛いなどというのとは少し訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。(略)つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠な愛の実際家だったのです。

(「こころ」下 先生と遺書・三十四)

ここでも先生は、「極めて」+「高尚な」愛の理論家だと自分で語り、ポエマーっぷりを示している。

そしてこれもどこかで指摘したがもう一つのポエム

・「もっとも迂遠な愛の実際家だったのです

→ いや、逆では?

先生の記述を換言すれば、「他の男ではなく、俺のことを好いていると確信できる女にだけアタックかけますよ」となるのでは。

この姿勢、「最も迂遠な実際家」ではなく、むしろ「最も手堅い実際家」とでもいうべきでは。
確実にOKされそうな女にだけ、接近しますというのだから。

こう考えれば先の須永市蔵の台詞も同じだ。

競争しなければわがものにできない女は、競争に価しない女

これも結局、「手堅くいきます」なのでは。


3、友人が「K」

そしてこれが一番言いたいことである。二人の共通項。

3(1)敬太郎もKも「けー」

・「こころ」の先生の友人は、

・「彼岸過迄」の須永市蔵の友人は
けいたろう」(田川敬太郎)

ここだけ取り出して見たらたまたまかもしれない。
しかし散々見て来たように、先生と須永市蔵とには、合計12個もの共通点があるのだ。

そんな二人の、友人がともに「けー」であるのは、夏目漱石がなにか意図を込めているのではないか。

実際、漱石の他作品の登場人物を見ても、「男性かつ、下の名前が『けー』」これを満たすのは、私の知る限りは田川敬太郎以外にあと二人ぐらいだ。
・「二百十日」の、「(けい)さん
・「道草」の主人公:健三

他の作品
・「虞美人草」甲野欽吾、宗近一、小野清三
・「三四郎」小川三四郎、佐々木与次郎、野々宮宗八、広田萇、里見恭助
・「それから」長井代助、平岡常次郎、長井誠吾、長井得(誠之進)
・「門」野中宗助、野中小六
・「行人」長野二郎、長野一郎、平吉
・「明暗」津田由雄、藤井真弓、藤井真事、堀庄太郎

一応イニシャルが「K」になる者としては、甲野欽吾、里見恭助、野中小六がいる。

しかし発音が「けー」になる者はかなり限られる。

そして書いたように「主人公的存在の友人」であるとともに、「帝大生・卒業生」との点でも、田川敬太郎とKは共通する。

3(2)四人組の構成

もう一つ、Kと敬太郎の共通点

・「①主人公的存在の若い男、②その友人男性「けー」、③若い女、④中年の女」←この4人の組み合わせで一つ屋根の下にいる・いた

これである。

「K」については説明不要であろう。未亡人の下宿内で、先生・K・お嬢さん(静)・未亡人の4人でいる場面は何度もある。

「彼岸過迄」の田川敬太郎も、須永市蔵の家でこの4人組になる場面がある。

①須永市蔵、②田川敬太郎、③田口千代子、④須永の(育ての)母

その日彼が久しぶりに須永を訪問したのも、実はその結婚問題について須永の考えを確かめるつもりであった。(略)
 その日は生憎千代子に妨たげられた上、しまいには須永の母さえ出て来たので、だいぶ長く坐っていたにもかかわらず、立ち入った話はいっさい持ち出す機会がなかった。ただ敬太郎は偶然にも自分の前に並んだ三人が、ありのままの今の姿で、現に似合わしい夫婦と姑になり終せているという事にふと思い及んだ時、彼らを世間並の形式で纏めるのは、最も容易い仕事のように考えて帰った。

(「彼岸過迄」須永の話・一、二)

そして「こころ」では実際に、4人のうち「三人が」「夫婦と姑になりおおせて」いる。


以上です。またどこかで、「こころ」のK=「彼岸過迄」の田川敬太郎 論を、再構成したい。


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