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『白竜の翼と青き記憶 —三十メートルが歩けなかった、最強魔導士の空白の三年間—』第7話「天を焦がす最強の誤算」

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完璧な計算——光の誕生


 杖の布が、音もなく地面に落ちた。

 ルナの右手の中に、百五十年の相棒が収まっていた。
 葡萄の枝と青竜木を編み合わせた、細く、見た目の貧弱なそれ。しかしその重さが、ルナの掌に馴染んで帰ってくるまでに、一秒もかからなかった。

 脳が、すでに計算を終えていた。

 赤龍の胸腔に溜まる熱が七割を超えた次の瞬間——あと二秒か、三秒で臨界に達する。
 この高台から赤龍までの距離は二百八十メートル。
 広域殲滅魔法の射出から着弾まで、計算上のずれは約三秒。
 白竜騎士団が散開している現在の立ち位置は、着弾範囲の外縁から十五メートルの余裕がある。

 全員、助かる。

 (……やれる。今しかない。)

 崖の転落も。布に巻いた決意も。石畳で鍛えた膝も。
 この瞬間、ルナの脳の中でそれらは音もなく黒板から消え、百五十年の青魔導士だけが残った。

 杖の先端に、蒼い光が宿る。

 (計算、完了。——放つ。)

 光が、走った。


三秒の断層——空白という名の呪い

 射出の瞬間、アオ・コクガの叫び声が届いた。

 「——引け! 全員引けえええ!!」

 それは、戦況の急変に対する団長の退避命令だった。
 赤龍の動きに変化があった。胸腔の向きが変わったか、あるいは何か別の危機を察知したか——ルナの射出とは無関係に、アオは騎士団を引き上げさせようとしていた。

 白竜たちが、翼を返した。

 三秒。

 ルナの魔法が大気を切り裂いて飛ぶ間の、たった三秒。
 白竜たちはその三秒の間に、退避命令に従い、エネルギーの余波を最小にするために高度を上げていた——つまり、ルナが「着弾範囲の外縁から十五メートル」と計算した位置から、真上へ向けて移動し始めていた。

 上昇する白竜と、下降する蒼い光が、交差する——

 音が消えた。

 世界が、白くなった。


燃え尽きた空——白い翼の不在

 光が収まった後、しばらくの間、ルナは何が起きたのかわからなかった。

 煙が、あった。
 赤龍がいたあたりの、空と地面の中間あたりに、どんよりとした焼け空気の塊が漂っていた。

 白竜の影が、見えなかった。

 (……?)

 いや——あの七騎は、光が収まった後どこへ行った。
 あれほど眩い白が、なぜ今、空のどこにも見えない。

 煙が風に流れた。

 広大な空が、剥き出しになった。

 そこに、白い翼は、なかった。
 どこにも。一騎も。

 (……え?)

 ルナは最初、目の錯覚だと思った。
 次の息を吸う間に、視界を走査した。あの高度、あの散開位置、退避していたなら北西か東北東——

 いない。
 煙が薄れるほどに、その空の空白が、取り返しのつかない確かさで現実になっていく。


 地上では、炎の残り火が赤龍の骸を包んでいた。
 赤龍はいた——死骸として。ルナの魔法は、赤龍を正確に無力化していた。計算通りに。完璧に。

 その周辺の地面に、一つの影が、蹲っていた。

 翼が、奇妙な形にねじれていた。
 飛ぶことのできない、生まれついての欠陥を持つその翼は、だからこそ今この瞬間、地上に押し留めていた。

 仔竜が一頭、炭になった地面の上で喘いでいた。

 (……あの子だけ。飛べなかった、あの子だけが。)

 その認識が、ルナの脳を、硬直させた。


 「——っ、オリアス! オリアスッ!!」

 遠く、アオの声がした。

 白竜の名前を呼んでいる。
 続いて、バルグの地を揺るがすような叫び声。エルシアの名を探す言葉。グレンの、感情を消そうとして消えきらない短い嗚咽。

 生き残った地上の騎士たちが、燃え尽きた空に向かって呼んでいる。
 返答は、なかった。

 ルナは、高台の端に立ったまま、一歩も動けなかった。

 右手に、まだ杖がある。
 蒼い光を放った杖が、まだ手の中にある。熱はもう冷めていて、青竜木の感触だけが、手のひらに正直に残っている。

 (……私が、放った。)

 赤龍は仕留めた。
 白竜たちは——していない。

 その事実が、脳の中で静かに像を結んでいく。形を持ちはじめる。
 三秒の空白。退避命令。上昇した白竜たちの、変わった軌道。

 自分が放ったものが、何と交差したのかを。

 「……私が」

 声にならない声が、唇を割った。

 「……私が、殺した。」

 何も移動していない。何も変化していない。
 ただ、世界の色が一段、薄まったような気がした。


 アオが、炭の地面に膝をついた。
 彼女の白竜——オリアスは、光が来る刹那に一度だけ翼を大きく内側に畳み、低空に差し掛かっていたアオを地面へと放り投げていた。主を地に捨て、自らは光の中へ飛び込んで消えた。
 アオは岩盤に叩きつけられ、鎖帷子の右肩が深く抉れたはずだ。しかし今、彼女の背筋は一切揺れていなかった。白の竜に捨てられた女の背中は、縮むことも折れることも拒んでいた。
 彼女は天を仰がず、地を見て、長い間、黙っていた。

 「……退避が、遅かった」

 誰に向けてでもなく呟いた。
 それは、団長としての自省だった。自分の判断が一秒早ければ、全滅は防げた——そう、背負っていた。

 ルナのことを、見ていない。
 高台に立つルナの存在に、気づいていない。

 その「気づかれていない」という事実が。
 ルナにとって、赦しよりも残酷だった。

 (……誰も、知らない。)

 知られれば、憎まれる。恐らくそれで正しい。
 知られなければ——この一生を、この罪を独りで運ぶ。

 どちらも、受け取れなかった。

 杖を荷物の底に押し込み、布を巻き直す。指先が震えて、うまく巻けなかった。
 それでも、何度も、何度も布を引いて、できる限りきつく縛った。二度と引き抜けないように。自分の意志が崩れた時に、一秒でも抵抗できるように。

 煙が残る空に、白い翼はついに戻ってこなかった。

 飛べなかった仔竜だけが、地面で、小さく、震えていた。


第7話「天を焦がす最強の誤算」完


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