わたしのロツレチハヒ【第11話 エピローグ】
わたしが庭の手入れをしていると祖母が手伝ってくれるようになった。父がホームセンターで見つけて買った腰掛けて移動しながら土いじりができる車輪つきの草取りイス。祖母はそれを使ってご機嫌だ。
日曜日の昼下がり、両親は珍しく二人で映画を見に行くという。わたしは特に用事もないからポカポカした陽差しに誘われて庭の草むしりをすることにしよう。すると祖母も草取りイスを持ち出してきた。
「いやーん」
「どうしたのおばあちゃん。乙女みたいな声をあげて」
「毛虫だよ毛虫!大嫌いなんだよ毛虫が」
年甲斐もなく……という表現が適当かはともかく、よほど苦手らしい。
わたしは一方的に嫌われる毛虫がかわいそうになって擁護を試みる。
「ああそれでしょ。ツマグロヒョウモンっていうチョウチョの幼虫だから大丈夫よ」
「大丈夫じゃないよ。毛虫は毛虫だろう。だめなんだよ。しっしっ。あっちいって!」
「あっちいってって、毛虫には聞こえないと思うけど」
適当に受け答えしながらも、自分の毛虫嫌いはもしかして遺伝なのかと考えた。
「わたしも毛虫が大嫌いだったのよ。血は争えないね。でもわたしは苦手を克服したから、おばあちゃんも頑張って」
「嫌だよ。もうこの歳になって毛虫を好きになろうとは思わないねぇ」
そんな他愛もないおしゃべりをしていると、誰かが道端からフェンス越しに声をかけた。
「やあ。こんにちは。楽しそうだね」
「あれっ、じんさん。こんにちは。どうしたんですか」
「あら、かなえのおともだちの。ワンちゃんも一緒に」
「お銀さん、お久しぶりです。ダダを散歩させていたら近くまで来たものだから」
祖母が道に迷ってしまったとき、水辺公園でじんさんが見つけて家まで送ってくれた。あれから一か月は経つ。まさかまた来てくれるなんて。わたしは嬉しくもあったが、どのように応じたものかわからず焦った。
「日色さん、よかったらその辺を散歩しながら話せないかな」
「あ、はい。いいですけど。ちょっと手を洗ってきますね」
「おやおや。いいねぇ、若いって。どれわたしも片付けて一休みしようかね」
「お銀さん、すみません。かなえさんと楽しんでいたところをじゃましたみたいで」
「いいんだよ。わたしもかなえのボーイフレンドに会えて嬉しいんだから」
「もう。おばあちゃん、余計なこと言わないのっ」
まったく油断も隙も無いとはこのことだ。喜寿だからと甘くみていたら何を言い出すかわからない。
じんさんとわたしはダダを散歩させながら水辺公園の方に向かった。
「実はこの前の講義で十二律について話しきれなかったことがあるんだ」
「え?十二律・・・ですか・・・」
迂闊だった。わたしは多少なりとも胸をときめかせた自分を呪った。彼はまごう事なき「邦楽バカ」であり「真面目でクソ正直」なのだ。
「そう。十二律でロは『壱越』って話したよね」
「はい。素敵ですよね『壱越』という呼び方。他の音名もそれぞれ味わいがあるけど、わたしは『壱越』の響きが好きです」
「だよね。ボクも『壱越』が一番好きなんだよ。でさぁ、乙(おつ)のロツレチハと吹いてオクターブ上になると、次は甲(かん)のロを出すだろ」
「はあ、そうですね。あれって不思議なもので乙のハからロを押さえると甲のロになりますよね」
「うん。さすが目のつけどころがいいね。話が進めやすいよ」
「はあ、そうなんですか」
じんさんのテンションは上がっているようだが、わたしはまだなんのことやらわかっていない。
「甲のロと同じ音程にヒがあるよな。ロとヒは指の押さえは違うけど、音の高さはだいたい同じだ」
「もちろんヒを出すこともあります。でも、乙から甲にオクターブ上げるときはロツレチハロが多いですね。ロツレチハヒって押さえることは少ないかも」
「だよな。曲によってヒを出すこともあるけど、普段はあまりヒを押さえない。でもね。十二律ではヒも『壱越』なんだよ」
「ヒも『壱越』」
「そう。ヒも『壱越』」
「ボクはねぇ、ヒの音が好きなんだ。ロの『壱越』は王道と言える。ほとんどの曲で聞かせどころに『壱越』が出てくる。でもね、ボクは霞がかかったようにぼやけてるけど実は芯があるヒの『壱越』が好きなんだ」
「じんさんが言われることはわかるような気がします。ヒの音って独特な雰囲気がありますよね」
「だよな。よかったわかってもらえて。君にだけは少しでも早く話しておきたかったんだよ。ヒも『壱越』だということを」
「え、わたしにだけ」
先ほど遠くに飛び去っていったはずの胸のときめきが戻ってきた。
「音出しを聴いていて気づいたんだ。君が出すヒの音はとても魅力的だということを。でもまさか皆の前で話せないだろう」
「それで、わざわざ家に寄ってまで」
「うん。覚えといてくれ。日色さん。君のヒは特別なんだ。十二律はどれも心を込めなければならないけど、特にヒは大事にしてほしい」
「わ、わかりました。なんか嬉しいです」
そんな気持ちが伝わるのか、ダダがわたしの足にじゃれついてきた。
「ダダ、まだ一緒に散歩したいだろうけど、そろそろ時間かな」
「じゃあここで。どうもありがとうございました」
「じゃあね」
じんさんは軽く手を振るとダダを連れて帰っていく。
この春からわたしは二年生になる。尺八のパートリーダーになるかはまだわからない。
いずれにしても新入生には教えてあげたい。
座奏の意義と十二律の素晴らしさを。
そして聴かせてあげるのだ。わたしのロツレチハヒを。
ー了ー
『わたしのロツレチハヒ』全話収録
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