見出し画像

なぜ、僕たちUELは、都市性に着目するのか(都市性生成研究所とは何かVol.2)

都市性生成研究所という名前を掲げるとき、まず問われるのは「都市性とは何か」ということかもしれない。

けれど、ここで考えたいのは、都市性という言葉の厳密な定義そのものではない。むしろ、なぜ僕たちが「まちづくり」や「公共」ではなく、あえて「都市性」という言葉に着目しているのか、ということを書いておきたい。

都市性という言葉は、ともすると「都市っぽさ」や「賑わい」や「おしゃれな場所性」のように受け取られる。
もちろん、それらも都市性の一部ではあるのかもしれない。

でも、僕たちが見たい都市性は、もう少し手前にある。

都市性とは、単なる都市っぽい雰囲気ではない。
それは、まちづくりが本当に“まち”に届いているかを測るための感覚器である、と考えている。

もっとくだけて言えば、都市性を見るということは、こう問うことだ。

「それはほんとうに、まちの誰かの次の行為を生んでいるのか。」

誰かが店を開く。
誰かが空き家を使い始める。
誰かが道端に椅子を出す。

それらは、最初は個人の行為である。思いつきかもしれないし、商売かもしれないし、必要に迫られて始めたことかもしれない。

しかし、その行為が個人の中に閉じず、場所を介して他者に触れ始めることがある。

誰かがそれを見て立ち寄る。
誰かが真似をする。
誰かが「自分も何かできるかもしれない」と感じる。
その場所に、次の行為が生まれる。

このとき、個人の行為は、少しずつ個人だけのものではなくなっていく。

それは、誰かひとりが完全に計画して生み出したものではない。
かといって、ただ自然発生しただけでもない。

人の行為があり、場所の条件があり、他者の反応があり、偶然の反復がある。それらが重なり合う中で、いつの間にか「場の営み」として立ち上がっていく。

僕たちは、この状態こそを、都市性と呼びたい。

都市性は、完全に「つくる」ものではない。
もちろん、場所をつくる人はいる。企画する人もいる。制度を整える人もいる。空間を設計する人もいる。

しかし、それだけで都市性が生まれるわけではない。

都市性は、「つくる」ものというより、「立ち上がってしまう」ものに近い。

人が場をつくると同時に、場もまた人の行為を誘発する。
人が場所を使うと同時に、場所もまた人を使わせる。
誰かが始めた行為が、他者に渡り、場に残り、また次の行為を呼び込む。

都市性は、そのような中動態的な生成の中にある。


だからこそ、都市性は一人の意図に還元できない。特定の主体の成果としても説明しきれない。制度や計画だけでも説明できない。

都市性とは、人・場所・行為・他者・時間が絡み合う中で、個別行為を超えた共同性が立ち上がっていく状態なのだと思う。

一方で、「まちづくり」という言葉はとても便利である。けれど、あまりにも広い。

イベントをすれば、まちづくり。
空き家を使えば、まちづくり。
ワークショップを開けば、まちづくり。
公共空間を整備すれば、まちづくり。

もちろん、それらはすべて、まちづくりと呼びうる。

けれど、そのすべてが本当に“まち”に届いているとは限らない。

一回限りのイベントで終わるものもある。
施設はできたが、次の営みが生まれないものもある。
合意形成はしたが、誰の行為も変わっていないものもある。
賑わいは演出されたが、日常には残らないものもある。

だからこそ、僕たちは「都市性」という見方を必要としている。

これは、「それがまちづくりかどうか」を、名称や形式で判断しないための視点だと思うから。

それは本当に、誰かの次の行為を生んでいるか。
それは本当に、他者が関われる余白を生んでいるか。
それは本当に、場所に新しい意味を残しているか。
それは本当に、個人の行為を超えて、場の営みになり始めているか。

都市性を見るとは、完成物だけを見ないということでもある。

建物ができたか。広場が整備されたか。イベントに何人集まったか。計画書ができたか。

もちろん、それらも大事である。しかし、それだけでは都市性は見えない。

都市性を見るとは、その後に何が起きたかを見ることである。誰かがまた来たか。誰かが使い方を変えたか。誰かが関わり始めたか。その場所が、次の行為の理由になったか。

都市性は、成果物の中にあるというより、成果物のあとに生まれる行為の連鎖の中にある。

都市性は、公共そのものではない。制度でもない。合意でもない。計画でもない。

都市性は、それらの少し手前にある。

誰かの行為が他者に開かれ、場所に痕跡を残し、反復され、次の行為を誘発し始める。

そのとき、まだ公共とは呼べないが、公共になりうる何かが生まれている。

都市性とは、公共になる前の営みの気配である。

だから、都市性を観測することは、公共の芽を見つけることでもある。

ただし、それをすぐ制度化すればよいわけではない。早く固定しすぎれば、せっかくの営みは壊れてしまうかもしれない。一方で、放っておけば、偶然のまま消えてしまうかもしれない。

ここに、まちづくりの実践がある。

まちづくりとは、都市性をすぐに制度へ閉じ込めることではない。
しかし、偶然の活動として見過ごすことでもない。

個人の行為が場の営みへ変わり始めたとき、その変化を観測し、必要に応じて支え、壊さず、次の段階へ接続すること。

それが、都市性に着目するまちづくりの態度である。

都市性生成研究所が見たいのは、完成された都市だけではない。制度化された公共だけでもない。すでに評価された成功事例だけでもない。

むしろ見たいのは、その手前である。

まだ名づけられていない行為。
まだ公共とは呼ばれていない営み。
まだ計画にも事業にもなっていない場所の変化。

けれど、そこに誰かの次の行為を生み出す力があるもの。
僕たちは、それを都市性と呼ぶ。

都市性に着目するということは、まちの中にある小さな行為を、単なる個人の行為として片づけないことである。同時に、それをすぐに公共や制度として持ち上げすぎないことでもある。

個人の営みが、他者に開かれ、場の営みに変わっていく。
その過程を丁寧に観測する。そこに、まちが生成していく瞬間がある。

UELは、その瞬間を見逃さないための実験室であり、観測所であり、編集室でありたい。

まちづくりが本当に“まち”に届いているか。

その問いを持ち続けるために、僕たちは都市性に着目している。

Urbanity emerges in the middle voice.


いいなと思ったら応援しよう!

都市性生成研究所-Urbanity Emergence Lab- この活動は、まだ制度化されていない都市の判断を扱っています。応援いただけると、もう少し先まで観測できます。