難病の私が輝けるまで第二話(創作大賞2025恋愛小説部門連作短編)
数日前、まきなのお見舞いにマンションにやってきた二宮 美咲は、頭の中で結婚生活をゆっくりと巻き戻していた。
大学時代に出会い、恋が始まった頃は、すべてが輝いていた。
ただ笑っているだけで、未来も幸福も、約束されたような気がした。
けれど、時が経つにつれて、小さなほころびが目に見えるようになる。
(恋愛を続けるには楽しいだけじゃ足りない)
そう気づいたのは、結婚を意識し始めた頃だった。
我慢の先にあるのが、結婚ーー
美咲は、そう思っていた。
結婚して、少しだけ安堵したその矢先、美咲の妊娠が判明した。
喜びと不安の入り混じる日々。
やがて生まれた子に、脳性麻痺があると分かった瞬間から、生活はまるで別のものに変わった。
夫も姑も、冷たかった。
責めるような目、押しつけられる正しさ。
「あなたの育て方のせいだ」
と夫や姑から責められる日々。
息のつまるような毎日の中で、愛情さえ疑いたくなる時があった。
美咲の居場所は、いつの間にか、家庭の中から消えていた。
※脳性麻痺とは、運動困難と筋肉のこわばり(けい縮)を特徴とする一群の病気のことです。 原因は、出生前の脳の発育過程で生じた脳の形成異常か、出生前、分娩中、または出生直後に起きた脳損傷です。 脳性麻痺の原因としては、酸素欠乏や感染によって生じる脳の損傷や、脳の形成異常などがあります。
(脳性麻痺 - 23. 小児の健康上の問題 - MSDマニュアル家庭版)
そんなある日、テーブルの上に一枚の紙が置かれていた。
離婚届。
夫は別の女を選び、何も言わず家を出て言った。
過去の苦い結婚生活が胸をよぎる。
その向こうで、顔を真っ赤にして悩む初々しいまきなを見て、美咲はふっと、小さく微笑んだ。
「同窓会、行こうかなって思ってたんです。でも、聖夜に会ったら、たぶん、心がぐちゃぐちゃになりそうで」
俯きながらまきなは言った。
「ぐちゃぐちゃでいいんじゃない?そういう時期だよ、まきなちゃんは。むしろ、何も感じなくなったら、それはちょっと寂しいかもね」
「でも、私、病気があるし、未来のこととか考えると、好きになるのが怖くて。迷惑をかけるだけかもって」
「まきなちゃん。未来を考えるのは大事。でもね、”今、誰を思ってるか”って気持ちを無視しないで。信じられないと、恋愛なんてできないよ」
「好きです。やっぱり、聖夜のことが」
まきなは、顔を赤くしながら小さな声で言う。
「だったら、もう自分に嘘つかないことだね」
窓から差し込む午後の日差しが、ふたりを静かに包む。
明日に備えて、今日は早めに寝ることにした。
お昼に食べたパンとシーザーサラダがまだお腹に残っている気がして、晩ごはんは抜いた。
お風呂を済ませ、目覚まし時計をセットして、アロマオイルで自分で作ったルームスプレーをベッドルームにひと拭き。
いつも通りの準備をして、ベッドに入る。
翌朝。目覚まし時計の音で目が覚めた。
不思議といつもより目が冴えている。
軽くシャワーを浴びて、さっぱりとした気分で朝ごはんを食べていると、美咲からLINEが届いた。
「今から迎えに行くよ、待っててね」
慌てて身支度を整えていると、インターホンが鳴る。
画面の向こうには、きちんとおしゃれした美咲が、にやっと変顔をして映っていた。
「おはよう、まきなちゃん。準備できた?」
インターホン越しに変顔していた美咲は、玄関先ではいつもの大人の表情に戻っていた。
グレーのジャケットにアイボリーのワイドパンツ。
さりげなく巻かれたスカーフがよく似合っていた。
「おはようございます。変顔。辞めてくださいよ」
照れくさそうに笑いながらも、まきなはどこかホッとする。
マンションのエントランスを出て、ふたりは駅まで続く道を歩き出す。
春の朝の空気は、ほんのりひんやりしているけれど、どこか清々しい。
「緊張してる?」と美咲が横目で聞いた。
「はい、正直ちょっと」
まきなはうつむきながら答える。
「大丈夫。焦らなくていい。私も最初は失敗ばかりだったよ」
美咲はそう言って笑う。
「それに、あんたはちゃんと自分でここまで来たんだもの。それだけで充分、すごいよ」
まきなはふと足を止め、澄んだ青空を見上げる。
「ありがとうございます」
心の中に、少しだけ温かい風が吹いた気がした。
そのままふたりは、駅に向かって歩き出す。
まきなの中にあった「不安」は、ほんの少しずつ、「前に進む力」に変わっていた。
その頃、海 聖夜は疲れはてていた。
海財閥の長男として生まれた宿命。
それは名誉と引き換えに、自由を奪われるような感覚でもあった。
聖夜は、父が率いるグループの中核企業に勤めていた。
期待される跡継ぎ、次期社長候補。
周囲の視線はいつも”背負うべきもの”を聖夜に突きつけてくる。
「週末は、ご令嬢とお見合い」
もはや恒例行事だった。
そんなある金曜の夜。仕事帰り、ふと見上げた夜空に、すっと流れる光。
「流れ星か……」
瞬間、胸の奥に浮かんだのは”まきな”の顔だった。
中学時代、保健室でしか話さなかったあの瞬間。
思えば、何も知らなかった。
ただ、まきなの静けさと、少し不器用な優しさだけが、胸に残っている。
迎えた土曜日。
今日のお見合い相手は氷室グループの令嬢、氷室 桐華。
会場は、都内の超一流ホテル。
黒のスーツに袖を通し、車に乗り込む。
自らハンドルを握り、ホテルへと向かう途中だった。
信号で止まった交差点。
ふと視線を横に流すと、歩道を歩くふたりの女性が目に入った。
ーーまきなだ。
杖を持ち、穏やかに笑いながら、隣の女性と話している。
どこか、嬉しそうに、前を向いて。
その光景に、時間が止まったような気がした。
高級ホテルのロビー、磨き抜かれた大理石の床の上で、聖夜はずっと考えていた。
ーーなぜ、あの笑顔が離れない?
会話も弾まず、形式ばかりのお見合い。
何を話しても心がついてこなかった。
「失礼します」
と頭を下げ、席を立つ。
ロビーを抜け、車に戻る途中でスマホを開く。
LINEのトーク画面に、”星まきな”の名前を探す。
指が迷いなく動いた。
「今日、車の中からまきなさんを見かけました。元気そうで。少し安心しました」
言葉にすれば簡単なはずなのに、心の奥で小さく震えていた。
その震えが、これまでの見合いのどれよりも真実に近い気がした。
お見合いの帰り道、ハンドルを握る聖夜の視線は前を向いていても、意識は別の場所にあった。
「跡継ぎなんて、興味ないよ、父さん」
口に出したことはなかった。
けれど、聖夜の心はとっくに決まっていた。
自分の人生を、自分の足で歩きたいだけだった。
家に帰り着くころ、スマホの通知が震える。
その頃、まきなは部屋のソファーで膝を抱えていた。
スマホの通知が鳴る。
画面には「海 聖夜」の名前。
指が止まる。
ー久しぶりー
震える手でトークを開く。
「今日、車の中からまきなさんを見かけました。元気そうで、少し安心しました」
その一文を見た瞬間、まきなの胸の奥に、温かくて切ないものが広がった。
「なにそれ。ずるい」
声に出してみると、涙がぽろぽろと頬を伝った。
聖夜がどんな気持ちでこの一文を送ってきたのか、本当の所は分からない。
でも、少なくとも”覚えてくれていた”という事実が、まきなの心を少しほどいた。
枕元にスマホを置いて、ゆっくり目を閉じた。
まきなはまだ、返事を打たなかった。
でもその返事は、夜が明けたらきっと、言葉になる気がしていた。
まきなは深く息を吸って、震える指でスマホに文字を打ち始めた。
画面の白いスペースに、想いをそっとのせる。
「気づいてくれてたんだね。ちょっとびっくりした。あの頃の話は、今よりずっと無口で臆病だったけど、今も、たぶんあまり変わってない。でも、元気そうって言葉、ありがとう。なんだか、救われた気がした」
少し間をおいて、続けた。
「聖夜くんは変わった?忙しそうだったね。あの日、車の中でどんな顔してたのかなって、ちょっと気になった」
送り終ると、心がふっと軽くなった。
言葉にすることで、自分の気持ちをやっと認められた気がした。
待ちに待った同窓会の日の土曜日の夕方。
空が少しだけ朱色に染まり始めたころ、まきなは玄関のチャイムの音に小さく肩を跳ねさせた。
ドアを開けると、杏奈が笑顔で立っていた。
「行こうか。姫。今日はあんたが主役みたいなもんだから」
少し照れながらも、まきなはうなずいた。
その足で向かったのは、美咲の友人・登 由香が経営する美容室Yukare。
「いらっしゃい。お久しぶり、まきなちゃん」
登 由香は気さくな笑顔で出迎えてくれた。
「今日は任せて、大人カワイイで仕上げてあげる。もちろん、サービスでね」
そう言って、まきなの頬を軽くつついた。
鏡の前に座ったまきなは、いつもより少しだけ背筋が伸びていた。
ファンデーションが肌に溶け込み、アイラインが目元を引き立て、ほんのり血色のリップが乗る。
ベリーショートの髪が軽やかに揺れ、大人っぽい中に少女の面影を残すその顔は、まぎれもなく”いま”を生きるまきなだった。
服は、杏奈と一緒に選んだオフホワイトのリブニットに、グレージュのサロペット。
派手すぎず、でもどこか品があって柔らかい雰囲気をまとっていた。
「うん、完璧」
杏奈が両手を合わせて言った。
そして、時計の針が19時を少し過ぎた頃、ふたりは同窓会の会場であるホテルの宴会場に到着した。
受付で名前を告げようとしたそのとき。
「まきな。来てたんだ」
後ろから、懐かしい声が聞こえる。
振り返ると、そこには黒のスーツに身を包んだ聖夜がいた。
変わらず端正な顔立ち。
けれど、あの頃とは違う落ち着いた眼差し。
「久しぶり。元気だった?」
「うん。そっちこそ、変わらないね。昔のまんま」
「いや、そっちは、すごく綺麗になってて、ちょっと驚いた」
まきなは恥ずかしさをごまかすように笑った。
その後、ふたりは自然と並び、会場の隅に移動して話し始めた。
保健室のこと、クラスでの出来事、文化祭での失敗談。
話せば話すほど、記憶が色鮮やかに蘇る。
まきなの胸の奥に、静かに、けれど確かにあたたかい灯がともっていった。
「まきな。今日、来てくれて本当にうれしいよ」
ふとした瞬間に聖夜がこぼしたその言葉に、まきなは気づかれないように深く息をついた
自分がここに来た意味。
会いたかった気持ち。
全部、間違ってなかった。そう思えたのだった。

まきなは、自分の足元に視線を落としたまま、そっと息を吐いた。
周囲の女性たちの視線が、肌を刺すように感じられる。
聖夜は、昔から注目の的だった。
そして今も変わらない。
黒のスーツに身を包み、スラリとした長身。
まっすぐな眼差し。
聖夜が自分の隣にいるだけで、空気が変わるのが分かった。
(なんで、私なんだろう…)
不安が胸をしめつける。
その場にいるのがつらくて、まきなはこっそり視線を泳がした。
そのときだった。
「まきな。大丈夫?」
聖夜の声。
気づけば聖夜は、まきなの表情を真剣に見つめていた。
「ちょっと、この空気、苦手だろ。抜けよ?」
まきなが戸惑っている間に、聖夜はさりげなく腕を差し出した。
ためらいながらも、その袖に手を添える。
「夜景見に行かない?君が笑える場所知ってるんだ」
まきなは何も言えなかった。
ただ「こくり」と小さくうなずいた。
その瞬間、会場の喧騒が遠のいた。
重たい視線も、ざわつく心も、聖夜の一言で、少しだけ軽くなった気がした。
会場の裏口から抜け出したふたりは、夜の風に吹かれながら静かな街の灯りに向かって歩き出した。
夜景を眺めた帰り道、車の窓に映る街の灯りがゆらゆらと揺れていた。
助手席のまきなは黙っていたけれど、その胸の内ではずっと、ことばが渦巻いていた。
(楽しかった。こんなふうに誰かと心が通じたの、いつぶりだろう?)
「着いたよ」
聖夜の穏やかな声に現実へ戻る。
マンションのエントランスが目の前にあった。
(このまま別れたら、また距離ができてしまう。もっと話したい。もう少し、この空気のままでいたい)
「あのさ…」
まきなは、シートベルトに手をかけたまま、ポツリとつぶやいた。
「うち、上がっていく?」
まきなは少し迷いながら言った。
声が震えてる。
思わず、目を逸らした。
こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
でも、もう引き返せなかった。
聖夜は驚いたようにまきなを見つめた後、少しだけ微笑んだ。
「いいの?」
その返事に、まきなは小さくうなずいた。
手が少し震えていたのは夜風のせいだけじゃなかった。
エントランスのオートロックが開く音がして、まきなは息をのんだ。
足音が、地下駐車場からエレベーターホールに向かってゆっくりと近づいてくる。
(来た…)
胸がギュッと締めつけられる。
自分から誘ったくせに、どこか逃げたしたいような気持ちになる。
それでも、もう戻れない。
扉が開く音がして、聖夜が現れた。
黒のスーツに身を包んだ彼はいつも通り穏やかな表情を浮かべていた。
「お邪魔します」
その言葉に、まきなは小さくうなずく。
何気ない一言なのに、胸が温かくなる。
聖夜の手が、そっとまきなの手に触れる。
「大丈夫。無理はしなくていいよ」
その一言に、体の力が抜けていくのを感じた。
エレベーターが静かに上昇する音だけが響く。
無言の時間。
けれど、それが不思議と苦ではなかった。
(何も言わなくても、この人は分かってくれるかもしれない)
ふたりの影が重なりながら、ゆっくりと4階へと上がっていく。
聖夜は一歩も急がず、まきなのペースに合わせて歩いてくれた。
その歩幅に、優しさと、確かな存在を感じていた。
不安と期待の間で揺れる気持ちを、そっと包んでくれるような静けさ。
扉の前に立ったとき、まきなは小さく息を吸って、鍵を回した。
緊張しまくって震えてなかなか鍵が開けられない。
「ちょっと待っててね。鍵開けるから」
聖夜はそれを見て、そっと後ろから言う。
「ゆっくりでいいよ」
聖夜の声は、まるで春の風みたいに柔らかい。
「…焦ってないし」
言いながら、明らかに焦っていた。
「うん。じゃあそのまま、落ち着いてな」
「ほんとに、落ち着いてるから」
鍵がようやく回ったとき、聖夜がほっと笑った。
その笑顔に、まきなの心が、またざわついた。
あんな風に優しくされると、余計に緊張する。
好きな人に、弱いところばかり見せてる。
それが、嬉しくて、悔しい。
半分涙目になりながら、まきなは玄関の鍵をそっと回した。
「少しだけ待ってて」
と小さく言い残し、聖夜を玄関に残して中に入る。
灯りをつけ、部屋を一通り確認する。
何もないことを確かめて、少しだけ深呼吸して玄関へ戻った。
「どうぞ」
と小さく声をかけ、目を合わせるのが少し恥ずかしくて視線を逸らしながらも、まきなはドアをあけ放つ。
ふたりはゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。
そこには、静かな夜と、少しだけ近づいた距離があった。
「コーヒー淹れるね」
慣れない手つきで、まきなはコーヒーメーカーのカップに手を伸ばす。
けれど、注いだ瞬間、指がかすかに震え、こぼれてしまった。
「あっ……」
熱くはなかったが、聖夜が着ているシャツの裾に数滴が跳ねた。
「ごめん……」
慌てるまきなを制して、聖夜が代わりにコーヒーメーカーのポットを持つ。
「俺がやるよ。カップ貸して」
柔らかくも確かな手つきで、聖夜はコーヒーをカップに注ぎ入れた。
その横顔に、まきなは言葉を失った。
「ありがとう」
「ううん。俺、こういうの得意だから」
ふたりの間に、コーヒーの香りがふわりと漂った。
甘くて、少し苦くて、夜の静けさにとけていく。
まきなは、テーブルの上のケースからミルクとシュガーを取り出し、たっぷりとカップに注いだ。
「入れすぎだろう」
と聖夜が穏やかに笑いながらツッコむ。
「このくらい入れないと苦くて飲めないのよ」
と、まきなも笑いながら返す。
にこやかな雰囲気の中で、まきなはふと中学時代の話を持ち出した。
「私、よく鼻血出してたよね。覚えてる?保健室で鼻血が止まらなくて困ってた時、聖夜がちり紙くれたの」
「あのさ、話変えていい?」
不意に、聖夜の顔が真剣になる。
まきなは少し驚きながらも、その視線を受け止める。
聖夜には、どうしても今、まきなに伝えたいことがあった。
聖夜は、まっすぐにまきなを見つめた。
「まきな、俺ずっと言いたかったんだ。ずっと忘れられなかった。まきなのこと全部好きだよ。今日、再会して気持ちがあふれて、抑えられなかった。今のまきなも、すごく綺麗だと思った」
まきなはゆっくりと顔を伏せた。
胸がギュッと締めつけられる。
「ありがとう。でも、時間がほしい」
小さな声でそう言って、指先でカップのふちをなぞった。
しばらく沈黙が流れる。
まきなは、心の中に重たい扉を一つ開けるように言葉を続けた。
「私、病気なの。脊髄小脳変性症って言う指定難病で。遺伝性で。もし、子どもができたら、その子にもって考えると怖くて」
まきなの声が震えていた。
「それに、毎日の体調や将来の不安でいっぱいいっぱいで、誰かを好きになる余裕なんて、ないって思ってた」
聖夜は何も言わず、じっとまきなの話を聞いていた。
まきなは、ほんの少しだけ聖夜の目を見る。
そこに、同情でも哀れみでもなく、ただ真っすぐなまなざしがあった。
「でも、そうやって自分に言い聞かせてただけなのかもしれない」
まきなはポツリとつぶやいた。
聖夜が、優しく問いかける。
「まきなは、本当は恋愛したいんだよな?」
まきなは言葉を返せなかった。
ただ、胸の奥で何かが静かに溶けていくのを感じた。
聖夜は続ける。
「俺さ、親の会社継げって言われてるけど.…正直、何がしたいかまだ分からなくて」
「まきなは、迷いながらでも前に進んでて、俺は.…ずっと立ち止まってる気がする」
聖夜の思いにまきなは心が熱くなるのを感じていた。
もし、私が普通に歩けて、将来に不安がなかったらーー
聖夜の隣に立つことを、こんなに怖がらずに済んだのかな。
でも現実は、階段一つで疲れて、ペンを持つ手さえ震える日がある。
そんな私が、御曹司の聖夜と釣り合うなんて、思えるはずないじゃない。
コーヒーの香りが薄れていく頃。
ソファーに並んで座ったふたりの間に、沈黙が流れた。
まきなは、両手でカップを抱えたまま、視線を下に落としていた。
聖夜は、少し体を傾けて、まきなを見つめた。
「まきな」
「うん?」
「俺、まきなが中学生の時からずっと好きだった」
まきなが目を見開く。
そのまま動けないでいると、聖夜は続けた。
聖夜はまきなに一目ぼれした中学時代を思い出していた。
中学のある日、保健室でベッドに横たわる少女に視線を奪われた。
どこかで見たことのあるような、と思った瞬間、気づいた。
(”推しに似てる)
聖夜が夢中になっていたアイドルグループのセンター、その子と重なる顔たちだった。
けれど、それだけじゃなかった。
まきなは、目立つ存在ではなかったが、いつも誰かのためにさりげなく動いていた。
誰かが困っていると、気づかれないように手を貸す姿。
先生に注意されても決していい訳をせず、うつむきながらも反省しているその背中。
聖夜はいつしか気づいてた。
「俺、あいつのこと、好きかもしれない」
アイドルの”推し”に似ていたからという軽い理由は、今ではすっかり霞んでいた。
まきなの不器用だけど真っすぐな優しさ、言葉少なに誰かを思いやる姿勢、そういうすべてが、聖夜の心に深く刺さった。
「まきなが、誰かと笑ってるの見るだけで、胸がざわつくんだ」
「でも、」まきなが、か細くつぶやいた。
「私、自分に自信ないの。聖夜は全部持ってる。私は、いずれ歩けなくなるかもしれない身体で、思うように動けなくなることもあって.…」
聖夜は立ち上がり、まきなの前に膝をつく。
まきなの頬にそっと指を添えた。
「どれだけ不安でも、それをひとりで抱かかえこまないで。俺を、君の中に入れてほしい」
まきなは目を伏せたまま、唇をかむ。
揺れるまつげの奥で、涙がこぼれそうに震えていた。
「ごめん。もう少しだけ、時間が欲しい」はっきりと、でも声は震えていた。
聖夜は、その言葉をしっかりと受け止めるようにうなずいた。
「わかった。まきなが『いい』って言うまで、何も望まない」
時計の針は、いつのまにか深夜をさしていた。
「もう、遅いね」 まきなは、しばらく黙った後、ぽつりと言う。
「泊っていいよ。ソファーでだけど」
「ありがとう」
「男物の洋服がないけどどうしよう?」
まきなは、目を伏せたまま小さくつぶやいた。
自分の部屋に男の人を迎え入れるなんて始めてで、ましてや泊っていくことになるなんて、心の準備なんて到底できていない。
それでも、どこかでほんの少しだけ、聖夜にいてほしいと思っている自分がいた。
聖夜はちらりと部屋の中を見渡し、すぐに「ああ、近くにコンビニあったよな」とつぶやいた。
さっと立ち上がり、靴を履く準備を始める。
「下着とパジャマ、買ってくるよ」
と言いながら、まきなの前に立ち止まる。
そして、そっと、何気ない仕草のようにまきなの髪に指を通した。
温かな掌がまきなの髪を優しくなでる。
その一瞬、まきなの鼓動が跳ね上がった。
触れた場所がじんわり熱を浴びる。
驚きと戸惑い、それでもどこかで安心する気持ちが入り混じる。
目が合うのが怖くて、まきなは視線をそらした。
「ありがとう…」
震える声でそう言ったまきなに、聖夜は微笑んだ。
言葉は交わさなかったけれど、その静かな笑みに、まきなは少しだけ肩の力を抜いた。
聖夜がドアを開けて出ていくと、まきなはそっと胸に手を当てた。
心臓の高鳴りは、まだ止まりそうになかった。
聖夜が戻ってきて、まきなの部屋の前で「おやすみ」と告げる。
「まきな」
「なに?」
「いてくれて、ありがとう」
その一言で、心の奥が温かくなった。
眠る前、互いの姿は見えなかったけど、鼓動だけが、夜の静けさの中で、静かに響いていた。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光が、白い壁に優しく反射していた。
まきなは、ベッドの上でゆっくりとまばたきをした。
まだ、夢の中にいるような静けさ。
けれど、確かにとなりの部屋には聖夜がいた。
(本当に泊まってたんだ)
昨夜の会話が、胸の奥でまだじんわりと熱い。
(私に”全部好きだよって”あんなまっすぐに言われたの、初めてだった)
立ち上がってリビングへ行くと、ソファーで寝ていたはずの聖夜がキッチンに立っていた。
パジャマの袖をラフにまくり、淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。
「おはよう」
「お、おはよう…どうして起きてるの?」
「なんかまきなが使ってたマグカップ見てたら淹れたくなった。ほら、これ」
差し出されたマグは、昨夜、彼が注いでくれたのと同じもの。
まきなはそれを両手で受け取った。
「ありがとう」
(私、何をそんなに怖がってたんだろう)
(聖夜は”特別な誰か”なんかじゃなくて、私のことをちゃんと”人として”見てくれてる)
(なのに私は、自分の病気も過去も全部隠したがってた)
「今日は、どこか行こうか?」
と聖夜が優しくまきなに尋ねる。
「時間がほしいって言ってたけど、それでもまきなのそばにいたいんだ。だから、気分転換がてら、外で風に当たるだけでも」
