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【静岡】224体の兵隊人形が並ぶ寺 | 兵隊寺 | 常昌院 | 静岡県藤枝市 | 2011年


200体以上の兵隊像が奉納されており「兵隊寺」とも呼ばれている寺。奉納されている人形は224体で、日露戦争で戦死したこの地方出身の兵隊達がモデルとなっている。
像は木製で、大きさはおよそ50センチほどに揃えられている。愛知県の中之院のコンクリート像のような写実性はないが、軍装をまとった姿で整然と並ぶ様子からは、遺族が「生きて帰ってきてほしかった」と願った気持ちや、当時の軍隊が持っていた規律の強さがそのまま形になったように見える。
また、一体一体に階級や氏名が記されており、ただの「戦没者像」としてまとめられているのではなく、それぞれが一人の人間として残されている。像が今も丁寧に守られているのは、地域の中で彼らが今なお「名前のある誰か」であり続けているからだろう。

日露戦争は、戦国時代や太平洋戦争に比べると地味な印象が強い。教科書でも「日本海海戦」や「ポーツマス条約」の数行で終わることが多い。
しかし、歴史の生々しさを感じるならこれほど面白い時期はない。各地に残る「要塞跡」や「砲台跡」の多くはこの時代に造られたものだ。強大なロシアを相手に、国をどう守るか必死に考えた形跡が今も残っている。

また、戦いの裏にあった外交の駆け引きも興味深い。現代の国際情勢にも通じるような、一歩も引けないギリギリの戦略ゲームが繰り広げられていた。
記号としての歴史ではなく、常昌院の像のような「個人の人生」や、重厚なコンクリートの「戦跡」からこの時代を見つめ直すと、当時の圧倒的な熱量が伝わってきて興味深い。


寺に続く道は結構狭い。
10トンダンプが愛車の人はちょっと苦労するかもしれない。


兵隊の人形が多数並ぶ寺というのでもう少しおどろおどろしい雰囲気を想像していたが、来てみると意外に普通。


本堂に入ると奥の棚にずらりと並んだ人形がすぐ目に入る。
昼だとそれほど怖くないが、夜来たら結構押し出し感強そうだ。


奉納されている人形のモデルとなった兵士達が所属していた静岡連隊について書かれたコピーが貼られているが、ちょっと読みにくい。


上下二段、ずらりと並んだ人形。
ぱっと見ると全部同じに見えるが、一人一人少しづつ顔つきが異なる。


何となく一度の戦闘で全員死んだように思えてしまうが、足掛け2年に渡る戦死者を弔ったもの。
展示してある資料からすると1904年8月の遼陽会戦で53名が戦死しているが、うち30-31日の首山堡の戦いだけで50名を占めている。その他、同年10月の沙河会戦、1905年奉天会戦等で10名以上の戦死者が出ている。


棚のほぼ中央、一段高い所に置かれているのは遼陽会戦で戦死した関谷銘次郎連隊長の木像。この戦闘では両軍合わせて40万近い兵力が激突し、日本軍は5,000人以上の戦死者を出している。

大半が無縁仏となりつつある、知多 中之院と違って、こちらは出身地と氏名が記されている。

何やら、すごく誇らしげで勇ましい
生前よっぽど色白だったのだろうか

大半の陸軍兵士の中に多分6名の海軍兵士がいる。

本人曰く、少数派で少し心細いとのこと

生前の写真をもとに制作された知多・中之院の軍人像と比べると、こちらは顔立ちの写実性が高いわけでもなく、姿勢もワンパターンなので、それほどおどろおどろしさは感じないが、それだけにかえって画一的で軍隊的な印象を受ける。
ただし、よく見ると服装の細部や勲章の配置などには少しずつ違いがあり、一体一体に微妙な個性も残されている。

頭が大きくデフォルメされており、失礼ながらかわいい

見上げると一人の兵士がこちらに顔を向けていた。
直立不動+無表情な人形がほとんどの中、この人形だけは腰に手をあて、何となく表情にも色がある。そういうポーズの写真とか元にして作った人形なのだろうか?


掌をこちらに向けている人形もちらほら見かける。このあたりよく分からない。

左:手のひら前向き  右:ふつうの気を付け

少ないが位牌や写真も並べられている。

日露戦争といえば既に100年以上前であり、従軍者は恐らく誰も残っていないはるか昔の戦争というイメージがある。
しかし自分が生まれた40年前(*)には少なからず出征者も存在していたことを考えると、たかだか40年といえども大きいものだと感じずにはいられない。
そして自分が寿命で死ぬ頃には太平洋戦争についても同じことになるのだろうなぁ…。
(*)2011年当時

遺影、位牌のほか、ぬいぐるみも置いてあった

軍馬の人形も一頭だけ置かれていた。


<おわり>



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