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【愛知】コンクリートの軍人像 中之院 | 愛知県南知多町


知多半島の先、南知多町にある中之院。通称「たぬき寺」の名で親しまれるこの寺の境内には、多くのユーモラスなタヌキ像が並べられ、参拝者の目を楽しませている。
しかし、さらに奥へと足を踏み入れると、そのおどけた雰囲気は一変する。そこには、愛嬌のあるタヌキたちとは対照的な、写実的な兵士の像が整然と並んでいるのである。

激戦と建立の経緯

1937年8月、名古屋城に兵営を置いた歩兵第六連隊は、第二次上海事変における敵前上陸で作戦を遂行。半月で部隊機能が消失するほどの激戦となり、遺骨の帰還は絶望的であった。遺族は支給された一時金を用い、故人の面影を遺すため、写真をもとに軍人像を建立した。

制作と戦後の守護

制作は1937年から1943年まで、資材不足の戦時下でも継続された。当初は名古屋市千種区月が丘(城山周辺)に安置されていたが、終戦後、進駐軍による破壊命令が下る。これに対し、当時の僧侶が命を賭して抵抗し、像は破却を免れた。

中之院への移設

戦後の都市化と管理上の問題により、元の寺院での安置が困難となった。1995年11月、縁のあった知多郡南知多町の中之院へ全100体近くの像が移設され、現在に至っている。

浅野祥雲による製作

これらの像の多くは、愛知県内を中心に活動した塑像家・浅野祥雲の手によるものである。祥雲の制作手法はコンクリートを用いた写実的な塑像であり、その独特な作風は「五色園」や「桃太郎神社」の像などとともに、現在も熱心な愛好家の間で高く評価されている。



知多半島といえば、まずは海のイメージを持つ人も多いだろうが、このあたりは半島の背骨部分にあたり、低い山々に囲まれた静かな地である。

中之院本堂
参拝客も日頃はそれほど多くないようだ
鐘楼

軍人像説明板

-説明板文章-

ここの軍人像のほとんどは昭和十二年上海上陸作戦における呉淞(ウースン)の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。
緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間十三キロの徒歩行軍の後、艀(はしけ)で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗りこみ、わずか二十六時間で揚子江河口付近に到着。後の昭和十二年八月二十三日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
軍人像そのものは、めいめいの遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和十二年から十八年のことと言います。
また戦後、進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が「国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない。あれを日本人の手で壊すことはできない。どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上で、あなた方が行って壊せばいいだろう」と頑張った。おかげで像は壊されずに済んだということです。
建立当時より名古屋市千種区月が丘にあったもので、当山には御縁により平成七年十一月にお移しし、この地で安住いただいております。
現在もよくご遺族、ご縁者の方々が御参りにいらっしゃっています。
天台宗 大慈山 中之院


英霊に捧げる詩

-石板文章-

きようもさむい 雪がふる
われらは無言でたつている
花はさけども ぼちはさかず
きようもあつい みずはなし
かぜがつよい かれはがおちる
またふゆがくる やどはなし
よろこびも  かなしみも
昭和六十二年五月   亀井藤銉   妻 志なゑ 謹


コンクリートで固められた斜面をバックに立つ軍人像。
ほぼ中央の祠を挟んで右側には台座が有る像左側には無い像が並ぶ。


多くの像の中でも大きめで、写実度も高い像。右手には銃剣を持っていたようだが、残念ながら現在は喪失しており、あたかも缶ビールでも持っているようにも見える。

写真を元に作成された像だけあって非常にリアルであるが、写真だけからよくここまで立体的に似せられるものだと思う。

銃より缶ビールの方が平和

この寺を紹介しているサイトで、必ずといっていいほど掲載されている犬と兵士の像。人間のリアルさと比較すると、犬はちょっと手抜き気味。


境内で1,2を争う大きさの像。
勲章の数も多く、高い階級だったと思われる。穏やかな顔が印象的だ。


こちらも高い階級だったと思われる像。これら3体だけは足首から下を埋められた状態で安置されている。
当初からの意匠とは考えにくく、移設時の破損、あるいは補修によるものだろう。

他の像より少し赤胴色。
双眼鏡を構え、勇ましいポーズ。

像の精密度には明らかな個体差が見て取れる。最前列左手の兵士の服装は、表面に筋を刻んだのみで平面的な造形であるが、隣列の兵士にはポケットやボタンの厚みまで再現した立体的な造形が施されている。

これらの個体差は、予算の多寡、製作時期の違い、浅野祥雲の職人の分業といった理由が考えられる。
その造形に統一性がないということは、国家による「記念碑」ではなく、遺族一人ひとりの切実な想いによる供養像であることを物語っている。

手前数体は胸像となっている。
陸軍の人達だと思っていたのだが。一人だけセーラー服の像。

少し中腰になって正面から目線を合わせると思わず視線を外してしまうほどの圧力。

勲章の数や服装、姿勢、表情などそれぞれ特徴があり、じっと眺めていて、この人はこうだったんだ、あのひとはああだったんだと、自然と色々なイメージが浮かんでくる。


とても表情豊かでリアルな表情の像。

元中日ドラゴンズ監督似の像

手前二人は他の像より少し背を丸め気味。勲章がなく、顔も幼げ。


手前のリラックスしたポーズの像はとてもリアルで造形も丁寧であるが、体型的には少々デフォルメしているようだ。その背後も同様、ただし顔は詳細で、服装は簡易的。


祠に向かって左側の台座がある像群。台座には氏名などが刻まれている。
台座がない祠の右側にある像と比較すると、台座があるだけ高級そうだが、像自体は少し小さめなものが多い。

 現在においても台座の記載で身元がわかる

境内の石碑には、戦後40年が経過した昭和62年、一人の戦没者の妻によって詩が刻まれている。

碑文には「きようもさむい」「やどはなし」と、野ざらしで立ち続ける像の過酷な境遇が綴られている。

かつては名古屋の地で荒廃の危機に晒された像群であるが、現在はここ中之院を「永住の地」として、遺族の悲哀を包み込むように静かに安置されている。

<おわり>


同じく戦死した兵士の像を安置している静岡県常昌院
こちらは日露戦争の戦死者


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