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【香川】丸亀城(1回/全3回) | 現存天守 | 香川県丸亀市 | 2005年アーカイブ


丸亀城のある亀山には、古くから宇多津城主・奈良氏が城砦を構えていたと伝えられている。丸亀市の年表でも、天文年間(1532~1555)には丸亀山が奈良氏の支配下にあったとされている。

その後、讃岐は戦国の争乱を経て、天正15年(1587)に生駒親正が讃岐国に封ぜられた。親正は子の一正とともに、慶長2年(1597)から亀山に丸亀城の築城を始める。自然の小山を利用した平山城で、山上に本丸、二の丸、三の丸を配し、山腹をめぐる曲輪石垣によって守りを固めた城であった。

慶長7年(1602)、生駒一正丸亀城から高松城へ移り、丸亀城には城代が置かれた。以後、丸亀城は西讃岐を押さえる支城としての性格を持つことになる。しかし元和元年(1615)、一国一城令により、丸亀城は廃城となった。

寛永17年(1640)、生駒氏「生駒騒動」と呼ばれる御家騒動により所領を没収され、出羽国由利郡矢島へ転封となる。その後、讃岐は東西に分けられ、東讃には松平頼重が、西讃には山崎家治が入った。松平頼重は、水戸黄門として知られる徳川光圀の兄にあたる人物である。

寛永18年(1641)、山崎家治は西讃岐5万石余の藩主となり、翌年には生駒氏時代の城跡地を城地と定めた。そして寛永20年(1643)、廃城となっていた丸亀城の再築に着手する。5万石余の小大名が城を維持するのは容易ではなかったはずだが、家治は丸亀城の再建を決断した。現在見られる山上部の縄張りはこの時期にほぼ整えられ、丸亀城を象徴する「扇の勾配」高石垣も、山崎氏の時代に築かれたものである。

やがて山崎家は継嗣なく断絶し、万治元年(1658)、播磨龍野から京極高和が丸亀藩主として入る。京極家山崎氏の時代から続いた城郭整備を引き継ぎ、万治3年(1660)に天守を完成させた。さらに寛文10年(1670)には、大手を北側の現在地に整備している。
以後、京極家は七代にわたり丸亀を治め、明治維新を迎えた。

明治以降、城内の多聞など多くの建造物は火災や取り壊しによって失われているが、天守大手門は旧臣らの保存運動などによって取り壊しを免れ、現存している。

丸亀城は、現存十二天守の一つであるが、それ以上に強く印象に残るのは石垣である。高く、美しく、反り上がるような曲線を描く石垣は、まさに「石垣の名城」と呼ぶにふさわしい。天守の規模は大きくないが、その小さな天守を圧倒的な石垣が支えている。
ぜひ城の麓に立ち、石垣を見上げることをお勧めしたい城である。


頑張って書いた内濠以内の縄張図。
この城の見所はなんと言っても石垣大手門


西方から高石垣、天守を撮影。
城の麓に立ち、北面の高さ56.1m、日本一と言われるその石垣を遠望した瞬間、ハートを鷲掴みされる。

要塞感がムンムン、ずっと眺めていられる気がする。


もう少し近づいて撮影。
手前に見えるのが内濠。左側に大手二の門、右側に大手一の門が見える。


大手二の門から、高石垣、天守を臨む。
天守が小さいので、なにか普通の一軒家でも建ってるように見える。
…と思ったが、やっぱり家ではないな。


大手二ノ門前から右手、南西方向を望む。
奥には、横矢をかける(敵を側面から攻撃する)ための出角が設けられている。


三ノ丸南西から撮影。
写真左側がニノ丸、天守より右が本丸となる。


丸亀城の大手口に残る枡形虎口。
写真右の小さい高麗門大手二の門、左の櫓門大手一の門
手前の大手二ノ門を抜けても、正面には大手一ノ門が立ちはだかり、すぐに城内へ進むことはできない。攻め手はこの枡形内で足を止められ、三方から横矢を受ける構造になっている。
二つの門と周囲の石垣・塀を組み合わせることで、入口そのものを防御の仕掛けとしている。


重文指定大手二の門
大手口の外側に設けられた高麗門で、城内へ入る最初の関門となる。門そのものは一ノ門に比べて簡素に見えるが、敵を枡形内へ導き入れる役割を持つ。二ノ門を越えた攻め手は、正面の一ノ門に進路を阻まれ、周囲から攻撃を受けることになる。


同じく重文指定大手一ノ門
大手口の奥側に構えられた櫓門で、大手二ノ門を突破した敵の前に立ちはだかる。門の上に櫓を載せた重厚な形式で、枡形虎口の主防御線となる門である。正面から進もうとする敵をここで止め、周囲からの横矢と組み合わせて防御力を高めている。

また、階上に置かれていた時を知らせる太鼓から太鼓門とも呼ばれた。


大手一の門を東側からアップ。
入母屋の屋根は迫力があった。


城の南側、京極氏時代に築かれた薬医門形式(四本の柱に梁を渡し、入母屋・切妻屋根を載せた門)の藩主玄関先御門
寺などでよく見る形式だが、城では結構珍しい。
居館は焼失してしまったが、門は奇跡的に焼け残った。


玄関先御門そばの案内標識。
おそらくトイレだと思うが、女性はトイレ探しが大変そうだ。


大手門内の切込ハギで組まれた石垣。
中央付近には大型の鏡石が据えられている。鏡石は門まわりなど目立つ場所に配置されることが多く、実用的な石垣であると同時に、城の権威や石工技術を示す見せ場でもあった。

切込ハギを見ると、ジグソーパズルみたいですごいなといつも思う

大手門左右の内濠の折窪んでいる箇所。舟溜まりと思っていたが、丸亀市に確認したところお答えを頂いた。それによるとこの窪みは舟溜まりではなく、内濠の延長部分との事だった。以下メール転載。

本来山際まで迫り、この両側の濠をもって北面の曲輪を構成していました。この濠は防御と山からの雨水処理を兼ねたものと思われます。西側の濠は途中に石垣を築いて土塀を作ったので分断され内側は池として残りました。ただし内濠と繋がっており、内濠に排水できるようになっています。


船溜り及び船入りのことですが、外濠は海と繋がっており船が入航できました。特に、東側の外濠外濠部分の大手門付近(現在の市役所北東隅側)まで船が入ることができたようで、元文年間の丸亀城絵図にはこの部分が船入と記入されています。

写真は大手門向かって左側の窪み部分。


重文指定の現存天守。
三層三階独立式天守で、現存十二天守の中では最も小さい天守とされる。本丸北東側、外側に面した部分には下見板張唐破風石落とし狭間などが備えられているが、写真の南東側は比較的おとなしい姿で、二重目に千鳥破風が見える程度である。

近くで見ると本当に小さな天守だが、高石垣の上に建てられていることに加え、各層を上に行くほど大きく小さくする(逓減)ことで、下から見上げた際には実際以上に高く、堂々と見えるよう工夫されている。


最上階入母屋の破風部分は通常、短辺にかけられるのだが、この城は下から見上げた時の容姿が考慮されて、長辺にかけられている。


三ノ丸から撮影した北東面の天守下見板張石落とし唐破風が備えられた豪華な面。南東面の写真と見比べると、長辺に入母屋の破風がかけられているのが分かるかも。
正直貧弱に見える南東面に比べるとはるかに迫力がある。

ちょっと唐破風がちゃっちい気はするが…

<つづく>


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