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【今日は何の日】7月13日

7月13日、今日が歴史的にどんなことがあった日なのでしょうか?
何か行事のある日なのでしょうか?
小学生の家庭でのちょっとした会話のために、ぜひ使ってください。
1872年までの日本の出来事は旧暦を使用しています。


行事・記念日

① 盆迎え日

7月13日は盆迎え日です。
お盆は、ご先祖様の霊を自宅へ迎え、供養する日本の伝統行事です。地域によって時期は異なりますが、東京などでは7月13日から16日にかけて行われる「新盆(新暦盆)」が多く、西日本などでは8月13日から16日に行われる「月遅れ盆」が一般的です。

盆迎えの日には、玄関先で迎え火を焚き、ご先祖様が迷わず家へ帰ってこられるように祈ります。そして16日の送り火で再び送り出します。京都の大文字の、「五山送り火」は全国的にも有名ですね。
お盆の時期には、お墓参りをしたり、精霊馬(しょうりょううま)を飾ったりする地域もあります。キュウリで馬、ナスで牛を作る風習は、「馬で早く帰ってきて、牛でゆっくり帰ってください」という願いが込められています。

ナスの牛、キュウリの馬

② 日本標準時制定記念日

7月13日は日本標準時制定記念日です。
1886年7月13日、日本の標準時を東経135度に定めることが決まりました。現在でも日本全国で使われている「日本標準時(JST)」は、このとき定められたものです。
東経135度の子午線は兵庫県明石市を通っています。そのため明石市は「日本標準時のまち」として知られ、市内には子午線を示すモニュメントや明石市立天文科学館があります。
東経135度は、兵庫県以外にも、京都府・和歌山県を通過しています。

明石市の天文台

地球は24時間で1周360度回転するため、15度ごとに1時間の時差が生まれます。日本標準時は東経135度を基準としているため、イギリス・ロンドンを通る本初子午線(経度0度)との時差は9時間です。

③ 水上バイクの日

7月13日は水上バイクの日です。
水上バイクは正式には「パーソナルウォータークラフト(PWC)」と呼ばれ、海や湖、川などで楽しむマリンレジャーの一つです。夏になると各地の海水浴場や湖で見かける機会も増えます。
「な(7)み(3)」(波)の間に「/(1)」で「波を切る」にちなみ、波を切る爽快感にちなんで名づけられました。

何があった日

① 1110年7月13日 彗星の出現により天仁から天永へ改元

空に大き*彗星(すいせい)が現れたことなどを理由として、元号が天仁(てんにん)から天永(てんえい)へ改められました。

現在では元号は天皇の代替わりのときだけ変更されますが、この「一世一元の制」は明治時代に決められたもので、それ以前は慶事や凶事で改めていました。
大地震や疫病、戦乱、火災、天体異変など、不吉な出来事が起こると「災いを断ち切る」という意味を込めて改元が行われることがよくありました。これを災異改元といいます。
当時は彗星や日食、月食などの天体現象が政治にも大きな影響を与え、人々は「天が何らかの警告を発している」と考えていました。現代では彗星の正体が太陽の周りを回る天体であることが分かっていますが、平安時代には不吉な前兆として恐れられていたのです。

歴代の改元には、ほかにも724年の「白いカメが見つかった」、749年の「陸奥国で本格的に金が産出した」、650年の「白いキジが献上された」などがあります。疫病や戦乱で元号が変わることも多かったのです。江戸時代になると、将軍の代替わりに合わせて元号を変えさせ、幕府権力の強さを見せつけることもありました。

② 1221年7月13日 後鳥羽上皇が隠岐へ流される

承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が、現在の島根県にある隠岐へ流されました。
承久の乱は、朝廷と鎌倉幕府が正面から戦った大きな戦いです。源実朝が暗殺されて源氏将軍が途絶えたのを見て、後鳥羽上皇は幕府を倒そうとして兵を挙げましたが、北条政子の演説で一体化した御家人たちに敗れました。

後鳥羽上皇

承久の乱は、歴史上初めて、そして唯一、幕府が朝廷と全面戦争をして勝利した戦いです。
戦いのあと、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、朝廷の力は大きく弱まります。
一方で鎌倉幕府は全国支配をさらに強め、京都には六波羅探題を設置して朝廷を監視し、西日本にも目を光らせて政治を行うようになりました。

③ 1590年7月13日 豊臣秀吉が徳川家康に関東を与える

小田原征伐のあと、豊臣秀吉は徳川家康に関東八か国を与えました。
家康はそれまで三河・遠江・駿河など東海地方に加え、本能寺の変のあとに占領した甲斐・信濃を支配していましたが、それらの領地と引き換えに、武蔵・相模・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の関東八か国へ移されました。

徳川家康が領した関東地方

関東の領地は250万石あまり。これは、豊臣秀吉の直轄領よりも多いほどで、ほかのどの大名よりも広い領地でした。
一見すると領地は広くなりましたが、家康にとっては新しい土地を一から治めなければならず、大変な苦労がありました。関東は小田原の北条氏が100年ほど治めていた地です。北条氏は、税率を四公六民に固定し、善政を行ったため農民たちからも支持が厚かったのです。そこへ、先祖代々の東海から切り離された家康が入りました。

さらに、秀吉によって本拠地に指定された江戸城は小さな湿地帯の入り江にすぎず、城と言っても名ばかりだったようです。当時は利根川の本流が江戸湾(現在の東京湾)に注いでおり、江戸城が海に面している状態で、広い城下町を作るためには土地の改良が必要でした。

家康が江戸に入ったころの海岸線

しかし家康は江戸城を拠点に町づくりを進め、関東の支配を固めていきます。埋め立てを行って江戸湾沿いに平地を増やし、城下町や家来たちの屋敷にあてました。やがて、江戸時代前半までかけて、利根川じたいを工事して、河口を銚子へ移してしまいました
この江戸での基盤づくりが、1603年の江戸幕府成立へとつながります。もし家康が関東へ移されていなければ、日本の首都が江戸(東京)になることもなかったかもしれません。

④ 1930年7月13日 第1回ワールドカップがウルグアイで開幕

サッカーの第1回FIFAワールドカップが南米のウルグアイで開幕しました。

現在では世界最大級のスポーツ大会となっているワールドカップですが、その始まりはわずか13か国が参加する小さな大会でした。開催国のウルグアイは当時オリンピックで2連覇を達成していたサッカー強国であり、その実績が評価されて第1回大会の開催国に選ばれました。
決勝戦では開催国ウルグアイが隣国アルゼンチンを4対2で破り、記念すべき初代世界王者となりました。その後、大会は4年に一度開催されるようになり、世界中の国々が参加するスポーツの祭典へと発展していきます。

日本が第1回W杯に参加しなかった理由は諸説ありますが、同年1930年は5月に日本国内で極東選手権競技大会を開催していた直後なので船旅では間に合わなかったこと、世界恐慌のさなかで、南米までチームが渡航する費用も余裕もなかったこと、FIFAに参加していなかったので参加が難しかったことなどが言われています。

日本が初めてワールドカップ本大会に出場したのは1998年のフランス大会です。そして2002年には韓国との共催でアジア初のワールドカップを開催しました。2026年大会はアメリカ・カナダ・メキシコの3か国共催となり、参加国も48か国へ拡大されます。
ワールドカップの歴史はこちらの記事をご覧ください。

⑤ 1948年7月13日 優生保護法が公布される

優生保護法は、病気や障害のある人に対して不妊手術などを認める内容を含んでいました。当時は「優れた子どもを増やす」という考え方が世界各国で広がっていましたが、現在では一人ひとりの人権を侵害する法律だったと考えられています。
実際に日本では、およそ2万5千人が本人の十分な同意がないまま不妊手術を受けたとされています。その後、この法律は1996年に廃止され、母体保護法へと改められました。
当初の優生保護法については、2024年に最高裁判所が「違憲」判決を下し、現在は、当時の被害者への補償などが進められています。

旧優生保護法に関する裁判の流れ

同様に、あとから法律が違憲だったと診断されて撤回されたり、国が補償したりした例としては「黒い雨裁判」や「ハンセン病訴訟」などが挙げられます。

⑥ 2024年7月13日 トランプ前大統領暗殺未遂事件

アメリカ・ペンシルベニア州で演説を行っていたドナルド・トランプ前大統領が銃撃される事件が発生しました。トランプ大統領は2017年から2021年にアメリカ大統領を務めましたが、民主党のバイデンに敗れ、1期で大統領職から離れました。2024年当時は、再選を目指して選挙活動を行っていました。

銃弾はトランプ氏の耳をかすめ、命に別状はありませんでした。犯人はその場で警備当局によって射殺されました。

撃たれた直後、無事をアピールするトランプ前大統領

この事件は世界中に大きな衝撃を与えました。アメリカでは銃を持つ権利が認められているため、日本とは比べものにならないほど銃器が社会に普及しています。一方で、銃犯罪がたびたび発生していることも大きな社会問題となっています。日本でも2022年に安倍晋三元首相が銃撃される事件が発生しており、政治家の警備体制について改めて考えさせられる出来事となりました。
その後、2024年末の選挙で共和党のトランプが民主党のカマラ・ハリスを破って勝利し、2025年1月から再びアメリカ大統領となりました。

誕生日

① 紀元前100年7月13日 ユリウス・カエサル

カエサル(英語読みだとジュリアス・シーザー)は古代ローマ共和国末期に活躍し、世界史の流れを大きく変えた人物として知られています。ガリア地方(現在のフランス周辺)を征服し、ローマの領土を大きく広げました。また、内乱に勝利して終身独裁官となり、ローマの政治改革を進めました。

カエサル像

ルビコン川を越え、ローマに反逆するときに言った「賽は投げられた」や、裏切られて暗殺される際に言った「ブルータス、お前もか」という言葉はよく知られています。また、エジプトの女王クレオパトラと婚姻関係だったことも有名です。
カエサルの死後、養子のアウグストゥス(オクタヴィアヌス)が権力を握り、ローマ帝国へと続いていくのです。

カエサルは政治だけではなく、現在も使われているユリウス暦の制定にも大きく関わりました。現在の暦はこれを改良したグレゴリオ暦ですが、1年を365日とし、4年に1度うるう年を設ける考え方はユリウス暦から受け継がれています。
カエサルが帝王切開で生まれたという伝説があるため、今でも帝王切開のことをカイザーと呼んでいます。

② 1847年7月13日 森有礼(もりありのり)

森有礼は薩摩藩(現在の鹿児島県)の出身で、明治維新後は外交官としてアメリカやイギリスで活躍しました。その経験を生かし、日本の教育制度づくりに尽力した人物です。
1885年に初代文部大臣に就任すると、小学校・中学校・大学を体系的に整備する教育改革を進めました。現在の学校制度の土台は、この時代に形づくられたものが多くあります。また、師範学校を充実させ、教師の育成にも力を入れました。
一方で、教育に国家の考え方を強く反映させようとしたことから、賛否の分かれる人物でもあります。1889年、大日本帝国憲法発布式の日に襲撃され、その傷がもとで亡くなりました。

亡くなった日

① 1128年7月13日 藤原清衡

藤原清衡は奥州藤原氏の初代当主で、現在の岩手県平泉を中心に約100年続く奥州藤原氏の礎を築いた人物です。
前九年の役、後三年の役という長い戦乱を平定した源義家に協力したのが清原清衡でした。義家の撤退後、東北を任され、「藤原」と苗字を改めて、平泉を政治・経済・文化の中心地として発展させ、多くの寺院や文化財を築きました。

平泉の中尊寺金色堂(覆堂におおわれている、筆者撮影)

その代表が中尊寺金色堂です。金箔で覆われた豪華な建物で、現在は世界文化遺産「平泉」の中心的な文化財となっています。金色堂からは、清衡を含む藤原4代のミイラが見つかりました。
奥州藤原氏は、豊かな金の産出や北方との交易によって大きな富を築きました。しかし四代目の藤原泰衡の時代、源頼朝によって滅ぼされ、平泉の繁栄は終わりを迎えます。

② 1624年7月13日 福島正則

福島正則は豊臣秀吉の遠縁にあたり、秀吉の家来として行政・軍事の両方で活躍しました。若いころは賤ケ岳の戦いで活躍した「賤ヶ岳の七本槍」の一人として知られています。
しかし、秀吉死後は石田三成と対立し、関ヶ原の戦いでは東軍の徳川家康側につき、その功績によって広島城を中心とする大領を与えられます。

福島正則

しかし江戸時代に入ると、台風の被害にあった広島城を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反として罪に問われました。結果的に、幕府への反逆と疑われ、改易(領地を没収されること)となりました。

この出来事は、江戸幕府が大名を厳しく統制していたことを示す代表例です。徳川家康は武家諸法度や一国一城令などを定め、大名の力を弱める政策を次々と進めました。

江戸時代の外様大名には2種類います。毛利・上杉・島津のように関ケ原の戦いで徳川に逆らった元西軍の外様と、福島正則・加藤清正・伊達政宗のように、関ケ原の戦いで徳川の味方となった元東軍の外様です。

関ケ原の戦いの徳川の勝利は、この「元東軍」の外様大名の協力のおかげでした。そのため、家康は彼らに多くの土地を褒美として渡しています。一方で、大きな土地を得た豊臣系大名は家康にとって扱いづらく邪魔な存在であり、次々と理由をつけて改易されていったのです。
福島正則の改易も、その流れの中で起こった出来事です。

江戸時代初期に改易された主な元東軍の外様大名
小早川秀秋(備前岡山55万石)
 1602年に急死。嗣子がいなかったため小早川家は断絶・改易。
・中村一忠(中村一氏の子・伯耆米子17.5万石)
 1615年、嗣子なく死去したため中村家は断絶・改易。
福島正則(安芸・備後 約50万石)
 1619年改易。広島城を無断で修築したことが武家諸法度違反とされた。
・最上義俊(最上義光の孫・出羽山形57万石)
 1622年改易。家中騒動(最上騒動)を理由に領地を没収された。
・加藤忠広(加藤清正の子・肥後 約52万石)
 1632年改易。家臣団の対立や統治の乱れを理由に領地没収、庄内へ配流。
・蒲生忠知(蒲生氏郷の孫・伊勢松坂22万石)
 1634年に死去し嗣子がなかったため蒲生家は断絶・改易。
・堀尾忠晴(堀尾吉晴の孫・出雲松江24万石)
 1633年に死去し嗣子がなく、堀尾家は断絶・改易。
・加藤明成(加藤嘉明の子・陸奥会津 40万石)
 1643年、家臣との対立や悪政の末、自ら願い出る形で改易。


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