【今日は何の日】7月3日
7月3日、今日が歴史的にどんなことがあった日なのでしょうか?
何か行事のある日なのでしょうか?
小学生の家庭でのちょっとした会話のために、ぜひ使ってください。
※1872年までの日本の出来事は旧暦を使用しています。
行事・記念日
① ソフトクリームの日
1951年7月3日、東京・明治神宮外苑で開かれたアメリカ独立記念日の祝賀会で、一般向けにソフトクリームが販売されました。これが日本で初めて本格的にソフトクリームが販売された出来事とされ、「ソフトクリームの日」の由来となっています。
ちなみに、「アイスクリーム」が日本で初めて生まれたのは明治時代初頭の文明開化のころ、1869年の横浜で、当時は「あいすくりん」と呼ばれていました。
戦後の日本では、アメリカ文化が急速に広まりました。ハンバーガーやコーラと並び、ソフトクリームもその一つです。現在では全国各地の観光地でご当地ソフトクリームが販売されています。
② 通天閣の日
1912年7月3日、大阪・新世界に初代通天閣が完成しました。
「通天閣」とは、「天に通じる高い建物」という意味です。当時のパリで人気だったエッフェル塔を参考に造られ、高さは約64メートルありました。
しかし第二次世界大戦中に金属資源として解体され、現在の通天閣は1956年に再建された2代目です。大阪を代表する観光名所として知られ、展望台には「ビリケンさん」が置かれています。足の裏をなでると幸運が訪れるとされ、多くの観光客が訪れます。

③ 波の日
「な(7)み(3)」の語呂合わせから制定されました。
日本は四方を海に囲まれた島国であり、海とともに発展してきた国です。
何があった日
① 607年7月3日 小野妹子が遣隋使として出発
607年、小野妹子が遣隋使として中国・隋へ向けて出発しました。
遣隋使は、中国の進んだ政治制度や文化を学ぶために派遣された使節団です。聖徳太子は天皇中心の国づくりを進める中で、隋へ役人を派遣し、今でいう留学のような形で役人としての仕事を学ばせようとしていました。

近年の研究では、600年頃に第1回遣隋使を派遣しましたが、日本の朝廷の仕事ぶりが隋と比べて遅れていることを指摘され、それを直したうえで607年の派遣に至ったとされています。日本側の記録では、この607年の派遣が最初の遣隋使とされていますが、どうやらそうではなさそうなのです。
有名なのが、このとき、小野妹子が持参した隋の皇帝・煬帝への国書です。
「日出ずる処の天子、書を日沒する処の天子に致す。恙なきや」
日本を中国と対等な国家として表現したため、煬帝は怒ったとも伝えられています。中国には「華夷秩序」という考えがあり、中国皇帝が中心で、周りの国はその下である、と考えていました。つまり、日本が対等を名乗るのはおこがましいく、失礼であるというわけです。
しかし、結果的に返書を用意してくれたうえ、帰り道には隋からの使者である裴世清が同行しました。もっとも、小野妹子は帰り道に、この返書を紛失したとされています。
正式な書類をなくすとは考えづらいですから、聖徳太子に見せられないほど、日本に対して失礼な表現があったと推測されています。それほど、隋の皇帝を怒らせてしまったのでしょう。

とはいえ、建国されたばかりの隋では、黄河と長江を結ぶ大運河の建設、高句麗遠征の失敗などで費用がかさみ、早くも国家財政が傾いていましたので、日本のような周囲の国を従えて国の力を強くする必要がありました。
そして、618年には早くも隋が滅び、唐が成立します。日本は630年に初の遣唐使として、犬上御田鍬を唐へ派遣しました。
② 1549年7月3日 フランシスコ・ザビエルを乗せた船が鹿児島へ到着
カトリックのイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ到着しました。当時、ヨーロッパではルターの宗教改革が始まっており、すべての罪が許されるという贖宥状(免罪符)を販売して利益をあげていたカトリックは、ルターらプロテスタントに追及を受けて立場が危うくなっていました。
ザビエルらイエズス会は、カトリックの信者を一人でも増やすため、アジアへ布教しに来たのです。

ザビエルは、日本最南端の城下町だった鹿児島を訪れ、キリスト教を伝え、島津氏にキリスト教布教の許可を求めたのでした。
島津氏はいったん布教を許可したため、ザビエルは大分の大友氏、山口の大内氏と次々に布教の許可を求めていき、最終的には京都に入って将軍・足利義輝に会おうとしました。このとき、献上品の不足などから将軍には会えず、全国的な布教許可は得られませんでしたが、スペイン・ポルトガルとの南蛮貿易に期待した西日本の大名の中にはキリシタン大名になる者も多く、一定の成果をあげました。

ザビエルと接触したとされるキリシタン大名
豊後国 府内城主 大友宗麟
肥前国 大村城主 大村純忠
肥前国 日野江城主 有馬晴信
のち、3名が連名で天正遣欧使節を派遣することになります。
③ 1722年7月3日 徳川吉宗が上米の制を開始
享保の改革を進めていた徳川吉宗は、「上米の制」を始めました。
大名から石高に応じて米を納めてもらう代わりに、参勤交代の江戸滞在期間を短縮するという制度です。
大名に石高1万石につき100石の米を幕府へ献上させました。その見返りとして、参勤交代における大名の江戸滞在期間を「1年」から「半年」に短縮し、大名側の負担を減らすという政策が取られました。江戸滞在期間は大名にとっては旅行中のようなものですから、膨大な費用がかかっていたのです。これを減らすことで大名の負担を軽減するねらいがありました。
そもそも参勤交代は、大名から人質を取って反乱を防止することが主目的で、経済的に弱らせて破産させるつもりはなかったと近年言われています。
幕府財政を立て直すための政策でしたが、大名側にも負担が大きく、幕府のプライドも傷つくため、長く続く制度ではありませんでした。

④ 1775年7月3日 ジョージ・ワシントンが大陸軍総司令官に就任
1774年7月6日、アメリカはイギリスからの独立を宣言します。
そして翌年、アメリカ独立戦争の最中、ジョージ・ワシントンが大陸軍総司令官に就任しました。イギリスとの戦いを指揮し、独立を勝ち取った後、初代アメリカ大統領となります。1789年から2期8年務め、「アメリカ大統領は最長でも2期まで」という不文律の由来になりました。
「アメリカ建国の父」とも呼ばれる人物です。また、アメリカの首都ワシントンD.C.の地名の由来にもなりました。

⑤ 1947年7月3日 GHQが三井物産・三菱商事の解散を指令
戦後、日本ではGHQによる民主化政策が進められました。その五大改革のひとつが「経済の民主化」です。軍部に協力した大企業は独占的で自由な商売に反しているとして、マッカーサーの命令で解体されていきました。
これを財閥解体といいます。
特に、三井・三菱・住友・安田の四大財閥は、日本経済を支配しているとして分割されました。
現在も三井グループ、三菱グループという企業集団は残っていますが、戦前のような1つの会社ではなく、1つずつの細かな会社が集まったグループ企業となっています。
⑥ 1981年7月3日 エイズが初めて報道される
1981年7月3日、ニューヨーク・タイムズ紙は、原因不明の病気について報じました。これが後に「エイズ(AIDS)」と呼ばれる感染症です。
当初は原因が分からず世界中が混乱しましたが、その後HIVというウイルスが原因であることが判明しました。
エイズは、免疫力が低下しますが、現在では適切な治療をすれば症状をおさえて長寿を保つことができる病気です。感染する条件も限られており、正しく理解していれば無制限に広まったりはしません。病気をただ恐れ、患者を差別するのではなく、正しく理解して広まらないようにおさえることが大切です。
⑦ 2024年7月3日 新しい日本銀行券が発行される
日本銀行から、新しい紙幣が発行されました。
一万円札は渋沢栄一。裏は東京駅丸の内駅舎です。
五千円札は津田梅子。裏は藤の花です。
千円札は北里柴三郎。裏は富嶽三十六景(葛飾北斎作)です。

最新の3Dホログラム技術が採用され、偽造防止技術も大きく進歩しました。紙幣の種類ごとに大きさが違うなど、ユニバーサルデザインにも配慮しているのが特徴です。
紙幣は偽造防止のためにも、20年に一度デザインを一新しています。しかし、キャッシュレス決済が増えているため、さらに20年後に再び紙幣を改訂する必要があるのか、未来のことはまだ分かりません。
紙幣は日本銀行券なので日本銀行が発行しますが、貨幣は財務省の下にある造幣局が発行しています。なお、紙幣を実際に製造しているのは国立印刷局です。
誕生日
① 1709年7月3日 徳川家継
江戸幕府第7代将軍。わずか4歳で将軍となりましたが、8歳で病気で亡くなりました。幼少だったため、政治面は儒学者の新井白石が6代将軍・家宣の時代から引き続き支え、「正徳の治」と呼ばれました。
家継死後、御三家の当主が集まって話し合いが行われ、紀伊藩の藩主だった徳川吉宗が養子として入り、8代将軍になることが決まりました。


亡くなった日
① 1910年7月3日 徳川昭武
最後の水戸藩主として知られます。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の弟でもあり、御三卿のひとつ・清水徳川家を相続しました。
幕末には、将軍・慶喜の代理として1867年のパリ万国博覧会へ派遣され、西洋文化を学びました。まだ14歳(数え15歳)と年少でしたが、フランス皇帝ナポレオン3世の王子と年が近いことが見込まれたといいます。このとき、渋沢栄一が付き従って共にパリへ行ったことでも知られています。この万博には、幕府だけでなく薩摩藩と佐賀藩も独自に出展していたことが現地に着いてから明らかになり、幕府権力の低下が表面化しました。
しかも、薩摩藩は「琉球公国」を名乗ってフランス貴族に取り入って出展するという悪質な行動をとっていました。「日本は幕府の絶対王政ではなく、幕府・薩摩などの連邦制である」というイメージをヨーロッパにもたれてしまったのです。


パリ万博を訪れた幕府代表団は、フランスで大いに評判を呼びました。独特の髪型(ちょんまげ)に服装(羽織袴に帯刀)。大変物珍しいと思われたようです。特に日本の展示にあったのが江戸の「茶屋」をそのまま再現したもの。日本から芸者の女性を3人連れていき、日常生活を送る様子を見せたもので、大変好評を博したとされます。

一行がパリから帰国したときは大政奉還で幕府がなくなっており、昭武は、混乱していた水戸藩を相続しました。
明治時代になると再びフランスに留学し、ヨーロッパを外遊します。陸軍戸山学校の教師などを務めました。
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