自分の身の丈にあった少しの灯が誰かに見えるといいなぁって思います。
月盛です。
(今回はギネスリレーのバトンを頂いての投稿です)
チャリティという言葉に違和感を覚えたのはいつだったか・・・忘れたくらい随分前です。
それまではむしろ積極的に参加する方だったと思います。
募金箱を持って武道館にも行きましたし(笑)
そうした小さな気持ちが集まって大きな可能性を生んでいると今でも思っています。
大きな力を持たない私はそんな機会に賛同することで小さな小さな責任を果たしていると感じていたのです。
あの頃、街中の喫茶店や飲食店にも独自の募金箱がたくさんありました。
まだスマホもカード決済も無い時期で、お会計の時に10円玉が出るとレジ横の募金箱に入れるのが習慣になっていました。
ある日、焼き肉店で何人かで食べてレジ前で前の人達の清算を待っている時に、どうも釣銭が無いらしく店員さんが店の奥に「釣銭が無くって・・」と声をかけると「募金箱にあるやろ・・」と答えが返って来て、店員さんはガラス瓶をさかさまにしていくばかりかの小銭を取り出していました。
それを見て私はかなりショックを受けました。
そうか、この募金箱のお金をどうやって寄付に持っていくかはまだお店
の考え方の手の中にあるのだ、それまでの私はそんなことを想像すらしていませんでした。
そこから私の考え方が変わっていきました。
不信感があったからと自分の中の誰かの為にの気持ちは消えてしまったのか?
気持ちが変わっていないのなら、自分の気持ちに合った方法を探していこう。
目標がはっきりとして必ずそれに使われると結果の見えるものに私の意志を出して行こう。
ほどなくして海外の子供たちの支援をしている方とお話をする機会があり、私も協力することになりました。
それは親が貧しくて働くことを余儀なくされている子供たちへの学校へ行くための支援でした。
地元の教会の神父さんが親を説得して小学校へ行かせるのですが、働いて得るだろうと思われる額と教科書代を支払い、ちゃんと学校に行っているか見て貰います。
(当時は年間1万5000円ぐらいの金額でした)
ひとりでひとりの子供を確実に支援するような里親制度で、私の最初の担当は小さな男の子ペルノボ君でした。
それから支援と文通が始まりました。(神父さんがまとめて送ってくださいます)
ペルノボ君はお母さんが障害を持ち働くことができませんでした。
必ず勉強して大学にも行きたい、働いて家を建てたいと希望を話してくれました。
私も辞書を片手に英語で手紙を書きました。
「台風で水が増してボートで学校に行きました」
「成績が上がって廊下に張り出されたよ、マムも喜んでね」
「マム、試験に受かったよ、僕の妹にも自慢して」
娘も時々私の手紙に参加するようになり、年に一度行く事務局の方がペルノボ君のはにかんだ笑顔を撮って来てくれました。
彼の支援は小学校から高校で終わりましたが、その後を引き継いでくれた方によって大学も無事卒業して今では会社を作り親孝行しているようです。
誰かの役に立ちたい、自分のなかにある気持ちで何かできないだろうか。
そうやって何人かの子供たちの里親になりました。
自分の身の丈にあった少しの灯が誰かに見えるといいなぁって思います。
◾️こちらが企画のご紹介です。
◾️こちらは、jオヤジさんの企画に対する記事のご案内です。
個人的な思いで書かせていただきました。
jオヤジ様に最初のご案内を頂いた時に、誰にも話した事の無い焼き肉店での出来事が頭に浮かんで、私の中のチャリティという言葉にあるアレルギーを話をしていいものかどうか少し迷いました。
人それぞれの心の中の善意を信じていきたいと思うので、それをお伝えしたいと思いました。
バトンを頂きました♡
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