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なぜ24時間走るのか?《夏の終わりについての話》

「うた」は共同性

これ、学生時代学んだことの一つです。歌は共同性を確認するためのもので、だからこそ学校があれば校歌があり、国があれば国歌があるんだそうです。なるほど。
一方、「詩」は「私」であり、個人が言語と向き合い個性を発揮するものなのだ、とまあそんな感じだったと思います。


なぜ24時間テレビには24時間マラソンがあるのか

あのチャリティーマラソンって、だいたい80〜100キロくらい走るんですよ。休みをいっさい考えず、平均すると時速4キロ程度。1キロ15分ペースなので、ずっと歩いていれば余裕でゴールです。でも、長距離走の専門家に聞いたら、24時間で100キロ走るのはかなり身体にダメージを与えるハードな取組らしく、途中で足が限界に達するのが普通だそうです。なのにこれまでほとんどの方がゴールしてますから、やはり芸能界で生き残る人々の精神力はハンパじゃないんでしょう。尊敬します。

ところで、24時間テレビって、いつのころからか、半分歌番組になってますよね。関係性のよくわからない有名人がステージに集まって、たくさんの歌を歌っています。もちろんそれ以外にもいろんな企画があるんですが、その隙間を埋めるように名曲が歌われます。
あれはまさに「共同性」の確認なんだと私は思っています。感動的なビデオやライブチャレンジの後に、有名な曲で共感を作り上げる、そんな構造になっているわけです。
「愛は地球を救う」を標榜するチャリティー番組です。困っている人・頑張っている人の姿に触れて、歌で「その人たち寄り添う気持ち」に共感して、そして感動したまま気づけば募金している、という流れは完璧です。

その理論でマラソンを見たとき、これも歌と同じで、共感の増幅装置だと考えられるのです。番組の中で紹介される、さまざまな困難と向き合う人たちの代表として、見慣れた好感度の高い有名人が走るんです。それも、番組を貫くかたちで、24時間を通して。すると、それを見た人たちは、その苦しそうな姿に感動し、応援(募金)したくなります。「〇〇さんがあきらめず走り続ける姿を見て、私も受験勉強頑張ろうと思いました。〇〇さんありがとう!がんばれ!」なんていう中学3年生のメールが紹介されたりするのは、まさにその構図を示しています。

あの番組は、毎年夏休みの終わり際に放送されています。楽しかった夏(もしくは夏休み)が終わるというのは、どこか寂しいものです。その寂しさを共感し合いながら、困難と向き合う人に涙し、募金しながら「自分も頑張ろう」と勇気を振り絞る、そんな機能を果たしているのがあの番組なのではないでしょうか。

地上波という、旧来の「超マス」メディアらしい、共感の押し売り的な手法に、私のような古い昭和世代は、心をつかまれてしまうのでした。


でも、それでいいのか?という視点

考えてみれば、テレビなんて多様性と真逆な「最大多数の最大幸福」的な存在です。もちろん今の時代でも、テレビ的な王道エンタメに楽しさを感じられる人が多数派だろうとは思います。でも、そういうのに違和感しか感じない人もいっぱいいるはずなんです。そういう人にとっては、「愛は地球を救う」なんていうコピーも、実に気味悪く思えるのでしょうね。

有名番組に関する話だったはずなんですが、なんだか学校もそれに近い存在だったりするのかな、と少し思ってしまいました。
「個別最適の学び」とか言ってはいますが、結局は「最大多数の最大幸福」から脱出できてなくて、ついつい「こうあるべき」というひとつの理想を押しつけてしまいがちですから。

「夏の終わりに、あの番組で共同性を確認し合うような、旧来の日本的な姿」が好きになれないという純粋な人たちには、まだまだ生きにくい社会なのかも知れませんね、この国は。

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