「時間差(タイムラグ)」の許容と「時間制限(タイムリミット)」の解除
まちの研究室「ぷかぷか」内の小さな本屋「本と盃 初添-hatsuzoe」、今月は1日2日と13日~16日の6日間だけのオープンです。
先週、ツルハシブックスの時にも使っていた「本」看板をもらってきたので、車庫の奥のOPENの看板と一緒に飾りました。あとは入口の段差に置く階段ほしいな。


で、読書日記としてはこちら
『しあわせの哲学』(西研 NHK出版「学びのきほん」シリーズ)

この本から2つをピックアップしてご紹介します。(P76 第4章より)
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人が自由の感触を得る時
1 探索:新しい世界や興味ある世界を自分で確かめたい
2 創造:エネルギーを投入して何かをつくりだそうとする
3 成長:これまでできなかったことができるようになる
そしてこのような自由の感覚を発揮して生きているとき、おのずと、自分が自分の人生をコントロールしている主役であるという感覚がでてきます。
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なるほど。誰かが「学びのコントローラーを子どもが握ることが大事」って言ってたけど、あの話に近いですね。
そしてもうひとつ紹介したいのが自由と承認がどのようにつながればいいのか?というところ。著者はこれをイギリスの精神科医ジョン・ボウルビィが説いた「安全基地」という概念を使って説明します。
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〈存在の承認が安全基地をつくり出すことで、人は自由に活動できるようになる〉ということになります。反対に存在の承認がないために安心や援助が期待できないところでは、人は自由な活動を発展させることはできない、ということです。
会社でも、社員が安心して相談でき援助を期待できる環境があるならば、社員はいろいろな工夫と企画を発展させていくでしょう
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これ「会社」を「学校(教室)」「部活」「塾」「ユースセンター」に置き換えても同じことが言えるでしょうね。
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二つ目は〈自由な活動の結果がまわりからの評価的承認につながる〉というつながり方です。
自分の自発的な活動が、他者から評価されるだろうという期待があるとき、人は一生懸命いろいろなことに挑戦します。
こうしてみると、一つ目の「存在の承認(安全基地)⇒自由な活動」と二つ目の「自由な活動⇒評価的承認」は、一連のものとしてつながっていることがわかります。
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なるほど。「自由」を実現するのは、その前後に「承認」があることが前提なのだなあと。
「まちの研究室」での僕の研究テーマは、「遊び」と「学び(仕事)」のあいだの研究、なのだけど、問いとしては、人が「創造性」を発揮できる場(環境)づくりとは?っていうことなのかもしれないなあと。
その現時点でのキーワードが、「タイムラグ(時間差)」と「タイムリミット(時間制限)」
もっと言えば、タイムラグの許容と、タイムリミットの解除、かなあと。「遊び(創造的行為)」ってそういうことなのではないか?
本屋「初添」で表現したいのは「タイムラグ」。その名の通り、日本酒の三段仕込みの一段階目を「初添」と言い、酒母に麹、水、掛け米を足して混ぜ合わせる工程です。1日目「初添」2日目「踊り」(休み)3日目「仲添」4日目「留添」という三段階で仕込まれます。
本を読むってことは、日本酒を仕込む1日目のように、発酵のはじまりなのではないか、と考えたネーミングです。
もうひとつが「タイムリミット(時間制限)」僕は、この「時間」という感覚こそが、人から「遊び(創造性)」を奪っているのではないか、と感じるのです。
先日、友人と話していて思ったのは、物理的な制約条件がありながら、時間的制約がないところで人はもっとも創造的になるのではないか?という仮説です。
たとえば、田舎のばあちゃん家で過ごす夏休み。普段の友達はいない。遊び道具もない。テレビもたいして面白くない。ただ膨大な時間だけがある。そんなときに人はもっとも創造的に遊べるのではないか?
※僕の新潟のおばあちゃん家はお寺だったので、お堂(お葬式などをするところ)があって、そこにある大量の座布団で遊んでました。
ということは、学校の授業、たとえば高校の「総合的な探究の時間」は、創造性が発揮できる環境と逆のこと、つまり時間制限があるのに、あなたの自由にやれと言われるっていうのはなかなか酷だなあと。
その「創造性を発揮する」っていうのが、西研さんの言う「自由」つまり、僕の用語でいえば「遊び」なのではないかなと思うのです。
そしてその仮説を実践(実証)していく場が複数個あるなあと思えるのが今は楽しいです。
タイムラグの許容とタイムリミットの解除、一緒に研究したい人、いませんか?
今日も初添でお待ちしています(オープン時間:土日は13:00~18:00)

