パスカル博士 2 エミール・ゾラ
翌朝クロチルドは六時に目を覚ました。パスカルに腹を立てたまま床につき、まだ互いに口をきかずにいたままだった。目覚めた時の気持ちは不快と鈍い悲しみ、そしてすぐに和解したいという衝動だった。心に重いものを抱えたままにしておきたくはなかった。
彼女はベッドから跳ね起きると二つの窓の鎧戸を半分ずつだけ開けた。陽はすでに高く、室内に二筋の金色の光が差し込んだ。若さの甘い香り漂う眠たげな部屋へ明るい朝が清々しい息吹を運んできた。若い娘はベッドの縁に座り、もの思いに沈んだ。薄手の寝間着姿の彼女はいっそう細身に見えた。伸びやかな脚とほっそりと引き締まった胴、丸みを帯びた胸と首筋、柔らかな腕。そのうなじと愛らしい肩はミルクのように白く絹のように滑らかだった。十二歳から十八歳までの垢抜けない年頃、彼女は変に背が高く木登りでもしそうな少年のようだった。そのかつての男女の判別もつかない子どもから愛と魅力に満ちた繊細な女性が姿を現したのだった。
彼女はぼんやりと部屋の壁を見つめて座っていた。ラ・スレヤードは前世紀の建物だったが、第一帝政期に家具を入れ直したらしかった。壁飾りに掛けられたインド風の古い更紗は、絡まる樫の葉の冠とスフィンクスの胸像の意匠だった。元々鮮やかな赤だったその布はオレンジがかった桃色に褪せていた。二つの窓とベッドのカーテンは元のままだったが、やはり洗濯のために色褪せてしまっていた。そしてその曙のような紫の色合いはとても繊細で優しく、得も言われぬほど美しかった。ベッドは同じ布で覆われていたが、あまりにも古びていたため隣の部屋にあった別のベッドと入れ替えられていた。帝政様式のベッドは低く、広く、重厚なマホガニー製だった。真鍮の装飾が施され、四隅の柱には壁と同じくスフィンクスの胸像が飾られていた。他の家具も同じ様式で揃えられていた。柱付きの大きな洋服箪笥、白い大理石に縁飾りを施したチェスト、背の高い堂々とした姿見、頑丈な脚の重厚な長椅子、そして竪琴型の背もたれの椅子。しかし、ルイ十五世時代の絹のスカートから仕立てられたカバーが壁際の重々しいベッドに軽やかな彩りを添えていた。長椅子も、積まれたクッションの山に厳めしさを和らげられ、二つの棚と一つのテーブルもまた、戸棚の奥から見つかった花柄の古い絹織物で飾られていた。
クロチルドはようやく靴下を履き、白いピケのガウンを羽織り、スリッパに足を差し込むと家の裏手に面した化粧室へ駆けて行った。その部屋は青い縞の木綿の布で簡素に飾られていた。家具はニス仕上げのモミ材の化粧台と二つの戸棚、そして二脚の椅子だけだった。それでもそこには自然で繊細なとても女性的な魅力が漂っていた。これは彼女の美しさと共に育まれてきたものだった。時に頑固で少年のようであったりしながらも、彼女は今や従順で優しく、愛されることを望む女性となっていた。実のところ彼女は自由に育ち、読み書き以外の教育は受けていなかった。後になって伯父の手伝いをするうちに自分で幅広い教養を身につけていったのだった。二人の間にはとくに決まった考えがあったわけではなかった。彼女はただ博物学に興味を持ち、それを通じて人間と男女についてのすべてを知るようになった。彼女は誰の手にも触れられていない果実のように処女の慎みを守っていた。それはおそらく彼女自身も知らないうちに理想の愛の到来を待ち望んでいたからだった。その女性的な深い感情が、愛する人にすべてを捧げ自己を消し去ることを未来のために取り置いていたのだった。
彼女は髪をかき上げ、たっぷりの水で顔を洗った。そして待ちきれずにそっと寝室の扉を開け、音を立てないようつま先立ちで仕事部屋の広間を横切って行った。鎧戸は閉じられていたが、家具にぶつからずに歩けるくらいには明るかった。反対側の博士の部屋の前まで来ると身をかがめ息を殺した。もう起きているのだろうか。何をしているのだろうか。小さな足音がはっきりと聞こえた。きっと身支度をしているのだろう。しかし彼女がその部屋に入ることはなかった。彼が仕事を隠すために好んだその場所は、聖櫃のように閉ざされたままだった。もし今彼が扉を開ければ見つかってしまう。反抗的なプライドと従順さを示したい気持ちとの間で心が揺れていた。一瞬和解への欲求が勝り扉を叩く寸前まで来たが、足音が近づくと慌てて逃げ出した。
八時になるまでクロチルドは募る焦燥に落ち着かないでいた。暖炉の上の時計を一分ごとに確認していた。時計は帝政様式の小さな碑のような金メッキのブロンズ製で、微笑む愛の女神の像が眠れる時を見守っていた。八時は通常、博士と朝食をとるために食堂へ降りる時間だった。待っている間に彼女は丁寧に身づくろいをした。髪を結い、靴を履き、白地に赤い水玉模様のモスリンのドレスに着替えた。それからまだ十五分ほど時間があったので以前から考えていたことを実行することにした。彼女は黒い作業用ブラウスに細いレースを縫い付け始めた。最近そのブラウスが女性らしさに欠けると感じていたのだった。しかし八時の鐘が鳴ると仕事をやめ、急いで階下へ降りて行った。
「朝食はお嬢様お一人です」食堂に入るとマルティーヌが静かに言った。
「どういうこと?」
「はい、先生に呼ばれてゆで卵を扉の隙間からお渡ししました。また乳鉢と濾過器に向かっていらっしゃいます。正午まではお目にかかれないでしょう」
クロチルドは青ざめて呆然と立ち尽くした。彼女は立ったままミルクを飲み、小さなパンを手に取ると女中のあとについて台所の奥へ向かった。一階には台所と食堂のほかにジャガイモの貯蔵庫になっている使われていない部屋があった。そこはかつて診療室だったが、書き物机と肘掛け椅子は何年も前に博士の寝室へ運ばれていた。もう一つ台所に面した小さな部屋があり、それは老女中の部屋だった。隅々まで清潔に保たれ、クルミ材の整理箪笥と修道女のもののような白いカーテン付きのベッドが置かれていた。
「先生はまたお酒を作り始めたと思う?」とクロチルドは訊いた。
「ええ、それしか考えられません。あれに取り憑かれると食べることも飲むことも忘れておしまいになるから。お嬢様もご存知でしょう」
すると若い娘の苛立ちが低く押し殺した嘆きとなって漏れ出た。
「ああ、神さま、神さま……」
そしてマルティーヌが部屋を整えに上がっているあいだ、彼女は玄関の傘立てから日傘を取り、絶望の面持ちでパンを手に外へ出た。正午までどう過ごせばいいのか分からなかった。
パスカルが新市街の小さな家を離れ二万フランでラ・スレヤードを購入してから十七年近くが経っていた。彼の望みは世間から身を引いて静かに暮らすこと、そして弟がパリから送ってきた少女にもっと広い場所と楽しみを与えることだった。ラ・スレヤードは町の入口、平野を見下ろす高台に位置していた。かつては広大な領地だったが、度重なる売却により敷地は二ヘクタールにも満たないほどに縮小されていた。さらに鉄道の敷設によって最後の耕作地までも失われていた。家そのものは火災で半壊し、二棟あった建物のうち残ったのは一棟だけだった。それはプロヴァンス地方で「四つ面」と呼ばれる四角い翼棟で、正面には五つの窓が並び屋根は大きな桃色の瓦で葺かれていた。この家を家具ごと買った博士は、家で落ち着いて過ごすために囲いの壁を修理し補強するだけで満足していた。
クロチルドはこの庭の孤独を心から愛していた。十分もあれば歩き尽くせるほどの狭い領地ではあったが、かつての栄華の片鱗がまだ残っていた。しかし今朝の彼女はくすぶる怒りを携えてここに来た。彼女はしばらくテラスを歩いた。その両端には十キロ先からでも巨大な黒い燭台のように見える樹齢百年を超える糸杉が植えられていた。斜面は鉄道まで続き、赤土を支える乾いた石垣の上では最後の葡萄畑が枯れていた。その巨大な段々畑には、弱々しいオリーブとアーモンドの列がまばらな葉をつけているだけだった。暑さはすでに耐えがたいほどだった。足元では小さなトカゲが石畳の隙間を走り、毛の房のようなケーパーの茂みに逃げ込んで行った。
彼女は広過ぎることに苛立つように果樹園と菜園を横切った。そこは週に二度だけ男手を頼んでいるものの、マルティーヌが老齢にもかかわらず今も手入れしている場所だった。そしてクロチルドは右手へと登り、かつて丘を覆っていた壮麗な森の名残である小さな松林へと入って行った。しかしここも彼女には落ち着かなかった。足元では松葉が音を立て、枝からは息苦しいほどの松脂の匂いが降り注いでいた。囲いの壁沿いを進みフヌイエールの道に面した正門を通り過ぎると、プラッサンの最初の家々から五分ほど離れた場所の脱穀場に出た。半径二十メートルにも及ぶその広大な空間は、かつてこの領地がどれほど繁栄していたかをそれだけで雄弁に語っていた。古代の広場、ローマ時代のように丸石で舗装され、枯れた短い草が厚い絨毯を敷いたかのような広場。かつて彼女はここで走り回り転げ回り、果てしない空に星が一つまた一つと生まれるのを眺めながら幾時間も仰向けに寝そべって過ごしたものだった。
彼女は日傘を開き脱穀場をゆっくり横切った。こうして敷地を一巡しテラスの左側、家の裏手へ戻ってきた。そこではプラタナスの大木が濃い影を落としていた。その影の中に博士の部屋の二つの窓があった。彼の姿が見えるかもしれないという突然生じた期待から彼女は近づいて窓を見上げた。しかし窓は閉じられたままだった。それを彼女は自分への冷たい仕打ちのように感じ、傷ついてしまった。その時になってようやく彼女は、まだ小さなパンを手にしたまま食べ忘れていたことに気付いた。彼女は木々の下へ入って行き、若い綺麗な歯で苛立つようにパンを齧った。
そこは甘美な隠れ家だった。幾何学植栽のプラタナスもラ・スレヤードの栄華の名残だった。怪物のような幹を持つ巨木の下の緑の木陰は、真夏の焼けつくような日々でさえ涼しかった。かつてのフランス式庭園は柘植の植え込みがその名残をとどめていた。しかしその柘植も日陰に順応したのか、今や力強く自由に茂った灌木だった。この影深い一隅の魅力は泉だった。柱の根元に埋め込まれた細い鉛管から、干ばつの時でさえ途切れることなく小指ほどの細さの水が流れ出ていた。そしてさらに先の苔むした大きな水盤を満たしていた。近隣の井戸がすべて干上がってもラ・スレヤードの泉は湧き続けていた。巨大なプラタナスはこの泉の百年の子どもたちに違いなかった。昼も夜も何世紀にもわたって細い水の糸は変わることなく途切れることなく、水晶のような澄んだ響きで清らかな歌を歌い続けていた。
肩まで伸びた柘植の茂みの間をしばらく歩き回ったあと、クロチルドは刺繍を取りに家へ戻った。そしてそれを手に泉のそばの石のテーブルの前に腰を下ろした。そこは庭椅子がいくつか置かれた、いつも彼らがコーヒーを楽しむ場所だった。それから彼女は頭を上げず、仕事に没頭しているような様子だった。それでも時折、木々の幹の間から眩しい灼熱の庭へちらりと視線を投げていた。実際には彼女の視線は長いまつげの陰から博士の窓を見上げていた。しかし窓には何も現れなかった。影さえ映らなかった。昨日の口論のあと彼が自分を軽蔑し無視しているように思え、悲しみと恨みの感情が膨らんできた。目覚めた時すぐにでも和解しようと思ったのに、彼の方は急ぎもしない。自分との不和を受け容れているということは、もはや愛されていないのだ。次第に陰鬱な感情に支配された彼女は反発の思いがよみがえり、あらためて何ひとつ譲るまいと心に決めた。
十一時ごろ、マルティーヌは昼食を火にかける前に彼女のもとへやって来た。手には家事の合間にも歩きながら編み続けている「永遠に編み終わらない靴下」を持っていた。
「お嬢様、先生はあの上でいつも妙な料理をなさっていますでしょう、穴に閉じこもる狼みたいに」
クロチルドは刺繍から目を上げないまま肩をすくめた。
「あの人たちの言っていることをお聞かせしましょうか。フェリシテ様が昨日おっしゃったとおり、本当に逃げ出したくなるような話でございます。あの人たちは私に面と向かって、先生がブタン爺さんを殺したと言いましたよ。覚えていらっしゃいますでしょう、あの気の毒な老人です、てんかんの発作で道端で亡くなった」
沈黙が訪れた。そして若い娘がさらに暗く沈むのを見ると、マルティーヌは指の動きをいっそう速めながら話を続けた。
「私には何も分かりませんけれど、あそこで先生が作っているものに腹が立って。お嬢様はあの料理をお認めなさるのですか」
突然クロチルドは頭を上げた。彼女は溢れる激情に身を委ねた。
「聞いてちょうだい。私もあなたと同じにそのことについてはよく分からないわ。ただ、先生はとても危険な道を歩んでいると思うの。あの人はもう私たちを愛していないわ!」
「いいえ、お嬢様。先生は私たちを愛しておいでです」
「そんなことはないわ。私たちが愛するようには、あの人は私たちを愛していないのよ。もし愛しているなら私たちと一緒にここにいるはずだわ。あの人はみんなを救うためと言って自分の幸福も私たちの幸福も犠牲にして、あの上で魂を失っているのよ」
嫉妬の怒りの中、優しさに燃える眼差しで二人の女性はしばし見つめ合った。そしてもう言葉は交わさなかった。木陰に包まれて二人はそれぞれの針仕事を再開した。
上の部屋でパスカル博士は静かな喜びに満ち足りて仕事をしていた。彼が医業を営んだのはパリから戻ってラ・スレヤードに隠棲するまでのほんの十数年にすぎなかった。その間に稼いだ十数万フランに彼は満足し、もはやほとんど自分の好きな研究に身を捧げていた。診療はただ友人たちのために続けていた。病人の枕元に呼ばれれば断ることなく出向いたが、決して報酬を請求することはなかった。それでも収入を得た時には、それを書き物机の引き出しに放り込み実験や気まぐれのための小遣いにしていた。生活は配当で十分賄えていた。そして自らの風変わりな振る舞いが悪評を呼んでいることは気にも留めず笑い飛ばしていた。彼の幸福は情熱を注いでいる研究の中だけにあった。多くの人々にとって驚きだったのは、この科学者があまりに旺盛な創造性ゆえにかえってその才能を損ない、研究に必要なものがすべて欠けているように見えるこの片田舎のプラッサンに留まり続けたことだった。しかし彼はこの地の利点をはっきりと説明していた。まずは彼の望んだ静かな環境。そして彼が情熱をそそぐ遺伝の実証的研究を継続的に行うための絶好のフィールドであること。なぜならこの小さな町で彼はすべての家族を知っており、二世代、三世代にわたって最も秘められた現象を追うことができた。そして海が近かったこと。毎年穏やかな季節には海へ出かけ、広大な水の深みに無限に繁殖する生命の営みを観察した。そして最後にプラッサンの病院に解剖室があったこと。そこは彼がほとんど唯一の利用者だった。 広く明るく静かな部屋で、二十年以上にわたり引き取り手のない遺体がすべて彼のメスの下を通っていた。彼はとても控えめな人間であり、長い間の内向性はすでに気難しさへと変わっていた。かつての教授や新しい友人たちと文通を続けること、そして時折学会へ送る論文について語り合うこと、それだけで彼には十分だった。彼には闘争的な野心がまったく欠けていた。
パスカル博士が特に遺伝の研究に取り組むようになったのは、妊娠に関する研究がきっかけだった。その役割を果たしたのは科学の常であるように偶然だった。コレラの流行で亡くなった妊婦たちの遺体が一連の研究材料として彼に提供されたのだった。彼は検死例から研究の連続性を補い、欠落を埋めていった。そしてついには胚の形成から胎児の発育まで、子宮内の日ごとの変化の過程を知るに至った。こうして彼は最も正確で決定的な観察の記録を作り上げた。その時からすべての根本にある受胎の疑問が彼の前に立ちはだかった。なぜ、どのようにして新しい命が生まれるのか。世界を形作るこの命の奔流、すなわち生命の法則とは何か。彼は死体にとどまらず生きた人間へ観察を広げていった。そして患者の間に見られる一定の事実に気付き、とりわけ自分の家族を観察した。そこでは事例があまりにも正確で完全に現れるので、家族は彼の主要な研究の対象となった。観察された事実が積み重なりノートが整理されていくにつれて、それらすべてを説明し得る遺伝の一般理論を試みた。
それは困難な問題だった。彼はその理論を何年もかけて練り直していた。彼は発明と模倣の原理から出発した。遺伝とは類似性の支配のもとでの再生であり、突然変異とは多様性の支配のもとでの再生である。遺伝について彼が認めた事例は次の四つに集約された。[直接遺伝:父と母が子の肉体的・精神的性質に現れる場合]。[間接遺伝:伯父や伯母、従兄弟姉妹など傍系親族が子の性質に現れる場合]。[隔世遺伝:祖先が一世代または複数世代を隔てて子の性質に現れる場合]。[影響遺伝:以前の配偶者が子の性質に現れる場合。つまり生物学的な父でなくとも最初の雄が雌に刻んだ影響が後の受胎に残る場合]。突然変異とは新しい存在、あるいはそう見える存在であり、そこでは親の肉体的・精神的な特徴が入り混じっていながら親の何ものも見出せない。そして彼は遺伝と突然変異という二つの概念に戻り、それを細分化した。遺伝については二つの場合がある。すなわち子どもにおいて父または母の選択、もしくはどちらかの優勢。それと両者の混合である。混合は三つの形を取り得る。すなわち接合、散在、融合。それらは程度により不完全な状態から完全な状態まで並べられ得る。一方突然変異についてはただ一つの場合しかなく、それは結合である。すなわち二つの物質が接触することでまったく新しい物質を生成する、そういう化学変化的結合である。この研究は人類学だけではなく動物学、植物学、園芸学に及ぶ膨大な観察の集積だった。そして分析によってもたらされた多様な事実を統合し、すべてを説明する理論を構築することはさらに難しかった。彼の仮説は揺れ動く地盤のようだった。新しい発見があるたびにその地盤は変わってしまう。人間の精神は結論を求めたがるものだ。彼もどうしても解決を示せずにはいられなかった。しかし同時にそれを急がない広い心も持ち合わせていた。彼はダーウィンのジェミュール説からパンゲン説、さらにヘッケルのペリジェネシスを経てゴルトンのスタープ説に至った。そして後にヴァイスマンが勝利を収めることになる理論を直感し、極めて微細かつ複雑な物質、すなわち遺伝子の概念に到達した。それは新たな生命の中に常に一部が予備として残り、世代から世代へと変わることなく伝えられる。すべてはそれで説明できるように思われた。しかしなおも無限の神秘は残されたままだった。精子と卵子が伝えるこの類似性の世界において、人間の目は顕微鏡の最高の倍率をもってしてもまったく何も見分けることができなかったからだ。彼は自らの理論がいつの日か廃れることを十分に知っていた。だからそれを現時点における満足のゆく一時的な説明としてのみ受け容れた。生命に関する探究において、その源泉から湧き出るものは永遠に人の手から逃れ続けるように思われた。
遺伝! それは彼にとって尽きることのない思索のテーマだった。驚くべきことは「親子の相似が数学的に正確に一致するものではない」ということだった。彼は先ず自分の家族の系図を理路整然と描き、世代ごとに父からの影響と母からの影響を均等に割り振った。しかし生きた現実はほとんどいつも理論通りではなかった。遺伝はイコール相似ではなく相似へ向かう作用であり、状況、環境によって妨げられるものと考えられた。そして彼は自ら「細胞発育停止仮説」と名付けた考えに行き着いた。生命とは運動であり遺伝もまた伝達の運動である。細胞が増殖する際には互いに押し合い圧し合い場所を求めながらそれぞれが遺伝の力を発揮する。そしてこの競争の中で弱い細胞が死滅すると大きな乱れが生じ、結果としてまったく異なる器官が生み出される。突然変異、すなわち自然の絶え間ない発明が理論と食い違ったのは、まさにこのことから生じたのではなかろうか。例えば彼自身が両親と異なっているのはそのような偶然の結果である。あるいは彼が一時期信じていた潜在的遺伝の作用によるものではないだろうか。なぜならすべての家系は人類最初の人間にまで遡る根があり、人はただ一人の親から生じるのではなく、さらに昔の名も知らぬ祖先に似ている可能性があるからだ。しかし、彼は自分の家族から得られた典型的な例にもかかわらず隔世遺伝を疑っていた。偶然や干渉、数千もの可能な組み合わせによって二世代か三世代の後には相似は消えてしまう。それが彼の考えだった。そこには絶えざる生成と変容があり、伝達する意志と力によって物質に生命が吹き込まれる。それこそがまさに生命なのだ。そしてさらに多くの疑問が起こってくる。時代を経るごとに人類は肉体的、知的に進歩したのだろうか。脳は科学の発展とともに成長したのだろうか。やがて人はより豊かな理性と幸福の実りを望めるのだろうか。そして特別な問題があった。その一つは長らく彼を悩ませてきた性の謎だった。科学は胎児の性を予測すること、せめて説明することはできないのだろうか。彼はこの問題について、事実を山ほど詰め込んだ奇妙な論文を書いた。しかし結局、最も徹底した研究は最も徹底した無知に終わった。すべての黎明期の科学が想像力に基づいているように、遺伝の問題は曖昧で広大で底知れないまま残されている。他ならぬそのことが彼を魅了していたのだ。そして最終的には結核の遺伝に関する研究が彼の医師として揺らいでいた信念をよみがえらせた。彼は人類を救いたいという高貴で狂気じみた希望を抱いていた。
要するにパスカル博士の信念はただ一つ、生命への信仰だった。生命こそ唯一の神性の現れであり神そのものであり、宇宙を動かす大いなる力、魂である。そして生命の手足は遺伝しかなく、遺伝が世界を形作った。だからもしその法則を知り、操ることができたなら世界を人間の意志に従わせることができるだろう。人々の病気、苦しみ、そして死を間近に見てきた彼の憐みの心に医師として戦う志が目覚めていた。病もなく苦しみもなく、死さえも最小限に! 彼の思いはこの夢に行き着いた。すなわち科学の介入によりすべての人に健康を与えることで幸福を加速し、未来の完全なる至福の都市を築く。すべての人が健康で知的であるならば、そこにはただ一つの限りなく幸福な民が存在することになるだろう。インドではシュードラが七世代を経てバラモンへ昇格するということがあったではないか。つまり最も低きを最も高きヘ人為的に成したではないか。そして彼は結核そのものが遺伝するのではなく、遺伝によって劣化した体質がわずかな感染でも容易に結核を発症させるのだと結論づけた。そこで彼は遺伝によって弱められた体質を強化し、寄生体、あるいは発酵因子に抗する力を与えることを考えるようになった。彼は細菌説が現れるずっと以前からその存在を生体内に疑っていたのだった。力を与えること、問題はすべてそこにある。そして力を与えることとは、他の器官を強化することであり脳を強化することである。すなわち意志を与えることである。
この頃博士は、十五世紀の古い医学書を読んでシニャチュール医学と呼ばれる治療法に非常に強い印象を受けていた。病んだ器官を治すには羊や牛から健康な同じ器官を取り出し、それを煮出して患者に飲ませればよいとされていた。この理屈は同類をもって同類を治すというものであり、特に肝臓の病気に関して無数の治療法が記されていた。博士の想像力が働き始めた。遺伝の影響で神経物質を欠いて弱った者を再生させるには、健康な神経物質を与えれば良い。試しても良いのではないだろうか。しかし煮出す方法は稚拙に思われた。そこで羊の脳を乳鉢ですりつぶして蒸留水で溶き、得られた液体を濾過するという方法を考案した。彼はこの液体をマラガ酒に混ぜて患者に飲ませた。しかし、とくに目立った効果はなかった。失望しかけていた矢先、ふと霊感が湧いた。肝疝痛に苦しむ女性にプラヴァズ(訳者注:注射器の発明者)の小さな注射器でモルヒネを注射していた時のことだった。この液体を皮下注射してみてはどうだろうか。家へ帰るとすぐ自らに試みた。脇腹に注射を打ち、それを朝晩繰り返した。最初の投与量一グラムでは効果はなかった。しかし投与量を二倍、さらに三倍にすると、ある朝目覚めた時に自分の脚が二十歳の頃のような力を取り戻していた。投与量を五グラムにまで増やすと肺活量が高まり、そして何よりも長年失われていた明晰さをもって仕事に取り組めるようになった。全身が幸福と生の喜びに満たされた。そこでパリで五グラムを注入できる注射器を作らせ患者に用いたところ、数日で彼らを立ち上がらせた。彼らは活力に満ち、まるで生まれ変わったかのようだった。ただこの方法はまだ実験的で粗雑なものだった。そこには多くの危険があると彼は感じていた。特に液体が完全に純粋でなければ塞栓症を引き起こす恐れがあった。それに患者の快復は治療によって生じた発熱のせいもあるのではないかと彼は疑った。しかし彼は時代の先駆者であり、方法は後に改良されるだろう。運動失調症の患者を歩かせ、結核患者をよみがえらせ、さらには精神病患者に数時間の明晰さを与える。それだけでもすでに奇跡ではないか。この二十世紀の錬金術ともいうべき発見を前に、彼の胸には限りない希望が広がった。彼は人間の衰弱というあらゆる病の唯一の原因に立ち向かう万能薬、生命の霊薬を見つけたと信じた。それは科学的な若返りの泉であり、健康と活力、そして意志を与えることでまったく新しいより優れた人類を生み出すものだった。
北向きの博士の部屋はプラタナスの木々のためやや暗く、鉄のベッドとマホガニーの書き物机、乳鉢と顕微鏡の置かれた大きな作業台のある簡素な空間だった。その朝ここで、彼は生命の霊薬を細心の注意を払って仕上げていた。羊の神経組織を蒸留水中ですり潰し静置し濾過した末に、ついに虹色を帯びた乳白色の液体の入った小瓶を手にした。彼はそれを光にかざし、まるで世界を救う奇跡の薬を手にしているかのように長いあいだ見つめていた。
しかし扉を叩く軽い音と切迫した声が彼を夢から呼び戻した。
「先生、どうなさいました。もう十二時十五分ですよ。昼食にいらっしゃらないのですか」
階下の広々とした涼しい食堂では、すでに昼食が用意されていた。鎧戸は閉じられていたが一つだけが少し開いていた。食堂は明るく、真珠色の木のパネルが青い線の縁取りに映えていた。テーブル、サイドボード、椅子は寝室に置かれていた一揃いの帝政様式の家具の一部だった。深紅の古いマホガニーが明るい背景に際立っていた。磨かれた真鍮の吊りランプが輝き、まるで太陽のような光を放っていた。四方の壁にはカーネーション、ヒヤシンス、アラセイトウ、バラのパステル画の大きな花束が咲いていた。
晴れやかな様子でパスカル博士が入ってきた。
「すまん、すまん、すっかり忘れていた。いや、仕上げたかったんだよ。見てくれ、これはまったく新しいものだ。今回は完全に純粋だ。奇跡を起こせる!」
そして彼は興奮のあまり持って降りてきた小瓶を見せた。しかし彼の目は黙って真剣な様子で立っているクロチルドに留まった。待たされたことへの憤りが彼女の敵意を呼び覚まし、朝には彼の首に抱きつきたいほどだった熱も今は冷め、捨てられた者のように立ち尽くしていた。
「よろしい」と彼は明るさを失わずに続けた。「まだ拗ねているのかね。それはなんとも残念なことだ。では、死者をよみがえらせるこの魔法の薬もおまえは気に入らないのかな?」
彼はテーブルに着き、若い娘も向かいに座った。彼女はついに返事をせざるを得なくなった。
「お分かりでしょうけれど先生、私は先生をとても尊敬しています。ただ私の一番の願いは、他の人たちも先生を尊敬してくれることです。でも、あの気の毒なブタンお爺さんが亡くなって……」
「ああ!」と彼は彼女の言葉を遮った。「あれは、てんかん患者がうっ血性発作で倒れただけだ。ほら、おまえが不機嫌になるからその話はもうやめよう。私だって嫌な気分になるし、一日を台無しにしたくはないだろう?」
食卓には半熟卵とコートレット(訳者注:肉にパン粉をつけてバター焼きにしたフランスの家庭料理。日本のカツレツの原型)クリームが並んでいた。沈黙が続き、そのあいだ彼女は不機嫌にもかかわらず食欲を隠すことなくしっかり食べた。そこで彼は笑いながら再び話を始めた。
「おまえの胃が元気そうなのを見ると安心するよ。マルティーヌ、お嬢さんにパンを渡してくれ」
いつも彼女は、給仕しながら親しみをもって彼らが食べるのを見守っていた。そして時には彼らと話をすることもあった。
「先生」と彼女はパンを切りながら言った。「肉屋が勘定書を持ってきましたが、お支払いになりますか」
彼は驚いて彼女を見上げた。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」と彼は言った。「いつも私に聞かずに支払っているじゃないか」
実際、財布を預かっていたのはマルティーヌだった。プラッサンの公証人グランギヨ氏に預けられた資産は、年間六千フランというまとまった配当を生み出していた。三か月ごとに千五百フランが女中に渡され、彼女は家のために最も良いように使った。買い物も支払いもすべて倹約を旨とし、あまりの節約ぶりにいつも冗談交じりにからかわれていた。ほとんどお金を使わないクロチルドは自分の財布を持っていなかった。博士は毎年なお三千から四千フランの収入を得ており、その中から実験に必要な費用と小遣いをあてていた。残りは書き物机の引き出しに入れっぱなしにしていた。そこには金貨や紙幣のちょっとした宝物が溜まっていたが、彼はその正確な額を知らなかった。
「ええ、先生」と女中は言った。「私が買ったものなら私が払います。でも今回は先生がご注文なさった羊の脳のおかげで金額がとても大きいので……」。
博士は彼女の話をぶっきらぼうに遮った。
「なんだ、あんたも私に逆らうのかね? もういい加減にしてくれ。確かに昨日は、おまえたち二人に怒ったよ。だがもうやめにしよう、この家を地獄にしたくはないからな。二人の女が私に逆らうなんて、しかも少しでも私を愛してくれる唯一の二人なのに。今すぐ家を出てしまいたいよ」
彼は怒って話したのではなく、むしろ微笑んでいた。しかし内心の不安が声の震えに滲んでいた。そして明るく朗らかな調子で言葉を続けた。
「月末が心配なら、私の勘定を別に送るよう肉屋に言いなさい。大丈夫、おまえのお金は使わなくていいから。おまえのお金は眠ったままだ」
それはマルティーヌのささやかな私財へのほのめかしだった。三十年間年四百フランの賃金で働き、一万二千フランを彼女は得た。そのうち必要最低限だけを使い、利子でほぼ三倍に増えた結果、今では三万フランの貯蓄となっていた。しかし彼女は気まぐれから、あるいは自分のお金を守りたいからか、それをグランギヨ氏に預けることを望まなかった。お金は安全な公債に投資されていた。
「眠っているお金は正直です」と彼女は真面目に言った。「でも先生のおっしゃるとおりにいたします。肉屋には別に請求書を送るよう言います。脳は全部先生の料理のためで、私のためではございませんから」
この説明にクロチルドは思わず微笑んだ。彼女はいつもマルティーヌの倹約ぶりをめぐる冗談を面白がっていた。そして昼食は明るい雰囲気のうちに終わった。博士は午前中ずっと閉じこもっていたので外の空気を吸いたいと言った。そしてプラタナスの木の下でコーヒーを飲むことを望んだ。コーヒーは泉のそばの石のテーブルに運ばれた。泉の歌を聴きながら涼しい木陰に座るのは心地良かった。一方周囲の松林も中庭も屋敷全体も午後二時の太陽にうだるようだった。
パスカルは神経物質の小瓶をテーブルの上に置き満足げに眺めていた。
「では、お嬢さんは」と彼は冗談めかして言った。「私の復活の霊薬は信じないのに、奇跡は信じるというのかな?」
「先生」とクロチルドは答えた。「私たちはすべてを知っているわけではないわ」
彼は苛立って言った。
「だが、すべてを知らなければならない。頑固だな。いいかい、宇宙を支配する不変の法則に背く存在が科学的に証明されたことは一度もないんだよ。これまでにあったのは人間の知性だけだ。それ以外に意志や何らかの理性があるというのなら探してみなさい。世界には生命の力より他に意志は存在しないし、すべてはそこにある。この力はすべての生命を駆り立て、発展し、より高きへ導く」
彼は堂々と立ち上がった。若い娘は、揺るぎない信念に支えられる彼の姿を見た。そして白髪にもかかわらず若々しく見えることに驚いた。
「おまえが自分の信条を私に押し付けながら私のものは拒むと言うのなら、私の信条を繰り返し聞かせてあげようじゃないか。私は人類の未来は科学による理性の進歩の中にあると信じている。科学による真理の探求こそが、人間が自らに課すべき神聖な理想だと信じている。時間をかけて積み重ねられ二度と失われることのない真理以外は、すべて虚構にすぎない。常に増え続ける真理の総体が、やがて人間に計り知れない力と平穏をもたらす。たとえそれを幸福と呼ばなくともそれに近いものと信じている。そうだ、私は生命の最終的な勝利を信じている」
彼は大きな身振りで広大な地平を抱き込むように示した。まるであらゆる存在の精が煮えたぎるこの燃える大地を証人として呼び寄せるかのように。
「絶え間ない奇跡とは生命そのものだ。ただ目を開いて見るがいい」
クロチルドはかぶりを振って言った。
「目を開いていても、私にはすべては見えないわ。頑固なのは先生よ。その向こうには人が決して踏み入ることのできない未知があるのに、それを認めようとしない。分かってます、先生ほど賢い人ならそれを無視できるはずない。でも先生はそれを認めようとしない。未知を脇に置こうとするのは、それが研究に不都合だからよ。神秘を脇に置き、既知から未知を征服しろと言われても私にはできないわ! 神秘はたちまち私を虜にして不安になる」
彼は微笑みながら彼女の話に耳を傾けていた。彼女が生き生きしていることが嬉しく、手で彼女のブロンドの巻き毛を撫でた。
「そう、そう、分かってるよ。おまえも他の人たちと同じで、幻想や嘘なしには生きられないんだ。まあいいさ、結局私たちは分かり合える。健やかであること、それが知恵と幸福の半分だ」
そして話題を転じた。
「さあ、それでもおまえは私の奇跡の巡礼を手伝ってくれるだろう? 今日は木曜日、往診の日だ。暑さが少し和らいだら一緒に出かけよう」
彼女は初め、すぐに屈したように思われたくなく断った。しかし彼を悲しませているのを見て結局は承諾した。彼女は普段から往診に同行していた。彼らはプラタナスの木の下でしばらく過ごし、やがて博士は身支度のために部屋へ上った。彼が下に戻ってきた時、正しくルダンゴト(訳者注:乗馬用コートに由来するウエスト部が絞られ裾が広がった上着)に身を包み、つばの広いシルクハットをかぶっていた。そして四半世紀ものあいだ往診に付き添ってきた馬ボノムを馬車に繋ごうと言った。その年老いて目が見えなくなりつつある哀れな獣は、長年の働きへの感謝と愛情から、もはやほとんど使われることがなかった。その午後、馬はすっかり眠り込み、目は虚ろで脚はリウマチでこわばっていた。博士と若い娘は厩に赴き、鼻面の左右に心を込めた口づけをし、女中が持ってきた新しい藁の上で休むようにと声をかけた。そして歩いて出掛けることにした。
クロチルドは赤い水玉の白いモスリンのドレスを着たまま大きな麦わら帽子を頭に載せ、その上にはライラックの房を飾っていた。広いつばの影の中で大きな瞳とミルクと薔薇のような顔がひときわ愛らしかった。クロチルドがパスカルに寄り添って出かける時、彼女は細くすらりとして若々しかった。彼は白い髭の顔を輝かせ、なお力強く、彼女を抱き上げて小川を越えさせた。その姿に人々が思わず微笑み振り返って見送るほど二人は美しく幸せそうだった。その日彼らがフヌイエールの道を抜けてプラッサンの門に差しかかると、女たちの一団は話をぴたりと止めた。彼の姿はまるで絵に描かれた古の王のようだった。もはや老いることのない、力強く、しかも優しい王は陽の光のように美しい娘の肩に手を置き、その輝かしい若さに支えられているようだった。
二人がサヴェール大通りを曲がってバンヌ通りへ向かおうとした時、三十歳ほどの背の高い日焼けした男が彼らを呼び止めた。
「ああ、先生、私の頼みをお忘れですね。結核についての覚え書きをまだ待っているのですが」
それはラモン医師だった。彼は二年前にプラッサンで開業し、この地で着実に評判を上げていた。堂々とした容貌に優しさも相まって女性たちには人気だった。さらに豊かな知性と落ち着きも持ち合わせていた。
「やあ、ラモン、こんにちは。いやいや、まったくそんなことはないよ、君のことを忘れてはいない。昨日この子に覚え書きを写すように渡したんだが、まだ手をつけていないんだ」
二人の若者は親しみを込めて握手をした。
「こんにちは、クロチルド」
「こんにちは、ラモンさん」
前年若い娘が感染性胃腸炎で発熱した時、幸い軽症だったにもかかわらずパスカル博士は自分の診断を疑うほどに動揺した。そして若い同業者に助けを求めた。その時から打ち解けた関係、言ってみれば一種の仲間意識が三人の内に芽生えていた。
「覚え書きは明日の朝お渡しします。約束するわ」彼女は笑顔で言った。
ラモンはしばらく二人に同行し、バンヌ通りの端、彼らが向かう旧市街の入口まで歩いた。クロチルドに微笑みながら身を傾けるその仕草には、ゆっくりと育つ控えめな愛があった。そのうえ彼はパスカル博士を尊敬し、その研究を心から称賛していた。
「そうだ、丁度今からギロードのところへ行くんだ。知っているだろう、革職人の夫を五年前に結核で亡くした女だ。彼女には二人の子どもがいる。もうすぐ十六になる娘ソフィーは、父親が亡くなる四年前に私が近くの田舎に住む叔母のもとへ預けた。息子のヴァランタンは二十一歳になったばかりだ。私が警告したにもかかわらず、母親は愛情から彼を手放さなかった。では、私の主張が正しいかどうか見てくれ。つまり結核は遺伝するのではない。結核の親はただ劣化した体質を子に伝える。そしてその体質のためにわずかな感染で発症するのだ。今では父親と日々接していたヴァランタンは結核にかかっている。それに対して良い環境で育ったソフィーは、すばらしく健康だ」
彼は得意げに言葉を続けた。
「それでも私はヴァランタンを救えるかもしれない。注射を始めてから彼は目に見えて元気になった。肉付きも良くなっている。ああ、ラモン、君もやがて私の注射に屈服するだろう!」
若い医師は二人に手を差し伸べ握手を交わした。
「いいえ私は否定しません。ご承知のとおり私はいつも先生の味方です」
二人だけになると彼らは足を速め、すぐにカンクワン通りに入った。それは旧市街の中でも最も狭く、最も暗い通りの一つだった。焼けつく太陽にもかかわらずその通りは薄暗く、地下室のような冷気が漂っていた。この通りの一階にギロード夫人は息子ヴァランタンと暮らしていた。彼女は扉を開けに出てきた。痩せ細り疲れ果て、慢性的な貧血に蝕まれていた。朝から晩まで彼女は羊の骨を手に、膝に挟んだ大きな石の上でアーモンドを割っていた。その唯一の仕事が息子と自分の生活を支えていた。息子は病気のために仕事をやめざるを得なかった。それでもその日、ギロード夫人は医師を見ると笑顔になった。ヴァランタンが久しぶりに旺盛な食欲でコートレットを食べたからだった。それは何か月も無かったことだった。彼は虚弱で髪も髭もまばらで、蝋のような肌に赤みを帯びた頬骨が突き出ていた。それでも直ぐに立ち上がり、元気であることを示そうとした。クロチルドはパスカルがまるで待ち望まれた救世主のように迎えられるのを見て心を打たれた。この哀れな人たちは彼の足元に口づけさえしそうなほどだった。彼の手を握り、感謝に満ちた目で彼を見つめていた。彼はすべてを成し得る者、神のように死者さえよみがえらせる者なのだろうか。そして彼自身も順調な治療の滑り出しに励ますような笑みを浮かべていた。病人は治ったわけではない、これはただの刺激に対する一時的な効果に過ぎないのかもしれない。というのも病人は興奮し熱に浮かされているように感じられたからだ。しかしたとえ数日だとしても命を延ばすことは無意味なことだろうか。彼は再び注射をした。その間クロチルドは窓辺に立ち、背を向けていた。そして帰る時、彼女は彼がテーブルの上に二十フランを置くのを見た。しばしば彼は病人から支払いを受ける代わりに病人に支払うことがあった。
旧市街でさらに三軒を巡り、その後新市街の、ある婦人の家を訪ねた。そして通りに戻ると彼は言った。
「もしおまえが大丈夫なら、ラフワースの所へ行く前にラ・セギランヌまで足を延ばしてソフィーを訪ねないか。そうできれば私は嬉しいのだが」
道のりはわずか三キロほど。この素晴らしい天気ならきっと楽しい散歩になるだろう。彼女は喜んで承諾した。もう拗ねることはなく、彼に身を寄せ、その腕の中にあることの幸せを感じていた。午後五時だった。斜陽が田園一面を大きな黄金の布で覆っているかのようだった。しかし、プラッサンを出るとすぐにヴィオルヌ川の右手に広がる裸の平原の一角を横切らなければならなかった。新しい灌漑用水路は渇きにあえぐこの土地を潤すはずだったが、まだこの地区には水が来ていなかった。赤みがかった土、黄みがかった土が太陽の下に果てしなく広がり、そこには痩せたアーモンドや矮小なオリーブの木だけが植わっていた。枝は絶えず剪定され、ねじれ傾き、苦しみと反抗の姿をしていた。遠く集落の淡い影が点々と見える禿げた丘の斜面を糸杉の黒い列が横切っていた。しかし、木一本ない鮮やかな色彩の平原は、大きくうねった地形が古典絵画のように美しく荘厳だった。道には二十センチもの土埃が雪のように積もっていた。それはわずかな風にも煙のごとく舞い上がり、両側のイチジクや野バラを白い粉で覆った。土埃が小さな足の下で鳴るのを子どものように楽しんでいたクロチルドは、パスカルに日傘を傾けた。
「目に陽が入ってるわ。もっと左に寄って」
しかし結局彼は日傘を取り上げ自分で持った。
「疲れるだろう、おまえは傘をうまく持てていないし。それにもうすぐ着くから」
すでに緑の小島が焼けつく平原の中に見えていた。まるで大きな樹々の束のようだった。ラ・セギランヌ。そこはソフィーが育った農場だった。羊飼いの妻、叔母ディウドネの家だった。この焼けつくような土地はわずかな泉、わずかな小川があればたちまち豊かな緑が爆発し、厚い木陰の並木道が生まれた。プラタナス、マロニエ、楡の木々が勢いよく茂っていた。二人は見事な樫の並木道へ入っていった。
農場に近づくと牧草を干していた女がフォークを放り出し駆け寄ってきた。ソフィーだった。彼女は医師と、彼女がそう呼んでいた「お嬢様」を見つけたのだった。彼女は二人を心から慕っていた。けれども胸にあふれる思いを言葉にできず、ただ戸惑いながら見つめていた。彼女は兄ヴァランタンに似て小柄で頬骨が高く、淡い髪の色をしていた。しかし、父からの感染の恐れのある環境から離れて田舎で暮らすうちに肉付きがよくなり、脚は強く、頬はふっくらとし、髪も豊かになったように見えた。彼女の目はとても美しく、健康と感謝に輝いていた。干し草作りをしていた叔母ディウドネも遠くから声を張り上げ、プロヴァンス気質の少々荒っぽい冗談で挨拶した。
「ああ、パスカル先生! 先生にご用は無いですよ! ここに病人は一人もいませんからね!」
ただこの健やかな美しい光景を求めて来ただけだった医師は、同じ調子で応じた。
「ああ、違いない。でもこの娘はあんたと私のために感謝の蝋燭を一本立てなくちゃいかん!」
「まったくそのとおり! 彼女も分かってますって。先生がいなけりゃ今ごろ可哀想な兄のようになっていたって、毎日言っていますわ」
「ああ、それは違うな! 彼も救ってみせるさ。ヴァランタンは良くなっている。今しがた会ってきたところだ」
ソフィーは医師の手を握りしめ、目に涙をいっぱいに浮かべた。彼女は口ごもりただ言った。
「ああ、パスカル先生!」
どれほど彼は愛されていることだろう。クロチルドは周囲の人々の愛情に触れるたび、彼への優しさがいっそう深まっていくのを感じた。樫の木陰でしばし語らい、その後二人はプラッサンへ戻る道を歩き始めた。まだ訪ねるべき場所が一つ残っていた。
それは交差点の角にある土埃に白く覆われた場末の酒場だった。向かいの蒸気製粉所は前世紀に建てられたル・パラドゥ(訳者注:第五巻『ムーレ神父の罪』の舞台である架空の土地)の邸宅がそのまま使われていた。酒場の主人ラフワースは蒸気製粉所の労働者や麦を持ち込む農夫たちのおかげで細々ながらも商売を続けていた。他にも日曜日には近隣の小さい村アルトーの人々も客だった。しかし不運が彼を見舞っていた。彼は三年ものあいだ全身の痛みに身体を引きずるように暮らしていた。医師は運動失調の兆候を見ていた。それでも彼は頑なに手伝いを雇おうとせず、家具にすがりながら酒を出していた。しかし十回ほど注射を受けると真っ直ぐ立てるようになった。もう治ったと、たちまち彼は吹聴していた。
彼は丁度戸口に立っていた。大柄でたくましく、燃えるような赤毛で顔まで紅潮していた。
「お待ちしていました、パスカル先生。昨日はワイン二樽を瓶詰めしましてね。しかも疲れ知らずで!」
パスカルが中へ入ってラフワースに注射をする間、クロチルドは外に残り石のベンチに座って待った。中から声が聞こえてきた。筋骨たくましいその男は痛みに弱かった。注射を怖がっていたが、健康を手に入れるためならと最後は我慢した。そのあと彼は強引に医師に一杯勧めてきた。若い娘も飲み物を断るなどという無礼はできそうもなった。彼はテーブルを外へ運び出し、否応なく杯を交わすことになった。
「パスカル先生の健康に乾杯! それから先生のおかげで元気になった貧しい連中のためにも!」
クロチルドは微笑んでいた。そして、博士がブタン老人を殺したというマルティーヌから聞いた噂を思い返していた。薬は患者をみんな殺すというわけではなく、本当に奇跡を起こすのだ。彼女は師への信頼を取り戻し、愛情の温かみに満たされるのを感じた。ラフワースの酒場を後にしたと、き彼女の心はすっかり彼のもとに戻っていた。今や彼は彼女を抱き、連れ去り、思うままにすることができただろう。
しかし数分前、彼女は石のベンチに座り蒸気製粉所を眺めながら漠然とした物語を夢想していた。石炭の黒と小麦粉の白にまみれたこの建物の中で、かつて情熱の物語が繰り広げられたのではなかったか。マルティーヌが語った細部や博士がほのめかした言葉を振り返っていた。それはアルトーの司祭だった従兄セルジュ・ムーレ神父とル・パラドゥに住む野性的で愛らしい娘との愛と悲劇の物語だった。帰り道、クロチルドは立ち止まり荒涼とした一帯を指し示した。そこは刈り株の残る土地と平坦な耕作地、未開墾の土地が広がっていた。
「先生、ここには昔大きな庭があったんですよね。その話をしてくれましたよね」
今日の良き一日にあって、パスカルは悲しみに満ちた優しい微笑みを浮かべた。
「そうだ、ル・パラドゥ。広大な庭と森、牧草地、果樹園、花壇、泉、そしてヴィオルヌ川に注ぐ小川があった。久しく忘れられた庭、眠れる森の美女の庭。それらは再び人の手に帰る。森は伐り払われ、土地は開かれ、均され、区画に分けられ売られてしまった。泉もすっかり涸れて、残っているのは濁った沼だけ。ああ、ここを通るたびに胸が痛むよ」
彼女はもう一度恐る恐る尋ねた。
「あれはル・パラドゥでのことですよね、私の従兄セルジュと先生のお友達アルビーヌが愛し合ったのは」
彼は彼女がそこにいることを忘れて語り続けた。その視線は遠く虚ろで、過去に迷い込んでいるようだった。
「アルビーヌ。ああ、思い出す。陽の光の中で生きた花束のように香りを放っていた。上を向いて胸は喜びにふくらみ、花々に満ちていた。野の花を編み込んだブロンドの髪を首や胸元や褐色の腕にまとっていた。そして花の中で息絶えた時のことを思い出す。ヒヤシンスとチューベローズの寝台で、真っ白な装いで、手を合わせ微笑みながら眠っていた。愛に殉じた娘。庭の自然が見守る中、アルビーヌとセルジュは愛し合った。生命の奔流が偽りの呪縛を押し流したのだ」
クロチルドはその熱を帯びた言葉に戸惑いながらも彼を見つめていた。彼女は世間でささやかれていたもう一つの物語を決して口にしなかった。彼の秘められた唯一の恋愛。その女性も今はすでに亡くなっていた。人々は言っていた、彼は彼女を看病したが指先に口づけすることさえしなかったと。六十近くになる現在まで、研究と内気さが彼を女性から遠ざけていた。しかし彼の情熱は取り置かれていたようなところがあった。白髪の下にはなお溢れる心があった。
「今も悼まれているその人を」彼女は理由も分からず頬を赤らめながら声を震わせ言葉を続けた。「セルジュは愛していなかったの? だから彼女を死なせてしまったの?」
パスカルはまるで夢から覚めたように彼女を見た。そばにいる若く美しい彼女に身震いした。燃えるような瞳が大きな帽子の影からこちらを見つめていた。何かが変わった。同じ生命の息吹が二人を貫いた。彼らはもう互いの腕を取らず並んで歩いた。
「ああ、それは美し過ぎた。人はすべてを壊してしまう。アルビーヌは死んだ。セルジュはサン=ユートロープの司祭になり妹デジレと暮らしている。デジレは善良で、幸運にも半ば愚鈍だ。セルジュは聖人と言われている。それを私は否定しない。人は神に仕えながら人殺しもできるのだ」
彼は語り続けた。人生の生々しい真実、人間の忌まわしく暗い側面を語りながらもその明るい微笑みは失わなかった。人生がどれほどの悪や嫌悪を含んでいようとも彼は人生を愛していた。その絶え間ない生きるための努力を静かな勇気をもって示していた。人生は苦しみに満ちていてもなお偉大で善きものであるに違いない。人には生きようとする強い意志があるのだから。人はその意志のために、そしておそらくは人知れぬ大いなる営みのために生きているのだ。確かに彼は学者であり透徹した観察者であった。牧歌的な人類が優しい自然の中で平和に生きるなどとは信じていなかった。むしろ人間の病や欠陥を見てそれを三十年に渡り並べ立て、掘り下げ、分類してきた。しかし生命への情熱、生命の力への称賛がいつも彼に喜びをもたらしていた。その喜びから自然に溢れ出した他者への愛と思いやりが冷徹な解剖学者、研究者の仮面の下にあった。
「まあいいさ!」と彼は言い切り、最後にもう一度陰鬱な土地を振り返った。「ル・パラドゥはもう無い。人々はそれを荒らし、汚し、壊してしまった。でも気にすることはない。葡萄が植えられ麦が育ち、新しい収穫がやって来る。そして人々はまた、遥かな刈り入れの季節に愛し合う。人生は永遠だ。ただ繰り返し、広がり続ける」
彼は再び彼女の腕を取った。紫色と薔薇色の空にゆっくりと消えゆく黄昏の中、二人は友のように寄り添い帰途についた。力強くも優しい古の王は、従順で愛らしい娘の若さに支えられていた。郊外の女たちは戸口に座り、二人が再び通り過ぎるのを優しい微笑みで見送った。
ラ・スレヤードではマルティーヌが二人を待ち構えていた。遠くから大きく手を振り、どうかしたのか、今日は夕食を食べないのかと呼びかけた。そして二人が近づくと言った。
「あら、ほんの十五分ほどお待ちくださいな。まだ仔羊のもも肉を火にかける勇気がなかったもので」
彼らは外に残り、暮れゆく日の余韻を愉しんだ。陰に沈みゆく松林が樹脂の芳香を吐き出していた。まだ熱を帯びた庭からは、微かな揺らめきが立ちのぼっていた。それは安堵のため息、土地全体の休息のようだった。痩せたアーモンドとねじれたオリーブの木々は、大きく色褪せゆく空の下で清らかな静けさに包まれていた。家の裏ではプラタナスの木立が黒く侵しがたい闇の塊となり、その中から泉の水晶の歌が聞こえていた。
「おや!」と博士が言った。「ベルロンブルさんは、もう夕食を終えて外で涼んでいるじゃないか」
七十歳になる背の高く痩せた老人が隣家のベンチに座っているのを彼は指さした。細長い顔には深い皺が刻まれ、大きな目はじっと動かず、ネクタイとルダンゴトを正しく身につけていた。
「彼は賢者よ」とクロチルドがささやいた。「幸せそうだわ」
するとパスカルは声を上げた。
「奴が? いや、そうではないと願いたいね!」
彼は誰も憎まなかったが、ただ一人ベルロンブル氏だけは別だった。旧制学校の元教諭。今は退職し、小さな家で彼より年上の耳も口も利かない庭師を除いて誰とも暮らしていなかった。
「人生に怯えた男だ、分かるか? 人生から逃げたんだ! そうだ、身勝手で冷たくて、けちな男だ! 奴が女を自分の人生から追い出したのは、ただ靴代を払うのが嫌だったからだ。奴は他人の子どもしか知らない。そしてその子どもたちに苦しめられてきた。そこから子どもへの憎しみが生まれて、もう懲罰の対象としてしか見ていない。人生に怯え、責任に怯え、悩みや災難に怯えた男だ。人は人生に怯えれば痛みを恐れるあまりに喜びさえ拒む。この臆病さに私は我慢ならない、どうしても許せない! 生きなければ。人生をすべて生きなければ。自分の中に息づくもの、人間的なもの、それを諦めるならむしろ苦しみを、ただ苦しみだけを選ぶ方がましだ」
ベルロンブル氏は立ち上がり庭の小径を静かに小さな歩みで進んでいった。クロチルドは黙って彼を見つめていたが、ついに口を開いた。
「喜びは諦めの中にあるわ。人生を諦め神秘のために自分を保つこと、それは聖人たちの大いなる幸福じゃないかしら?」
「人生を生き抜くのでないなら」とパスカルは声を張り上げた。「彼らが聖人であるものか!」
しかし、彼は彼女が反発し再び自分から逃れようとしているのを感じた。結局人生への恐れと嫌悪は死後の不安に根ざしているのだ。だから彼は優しく和やかな笑顔を取り戻した。
「いやいや、今日はもうこれで十分だ。言い争うのはやめて仲良くしよう。ほら、マルティーヌが呼んでいる。夕食に行こう。」
