夢 5 エミール・ゾラ
三か月に一度の洗濯は大仕事だった。ユベルティーヌは、ガベ婆さんにも手伝いを頼んだ。その四日間は刺繍のこともすっかり忘れられてしまった。アンジェリックも仕事に加わった。洗いあげた衣類をラ・シュヴロットの澄んだ水で濯ぐことは良い気晴らしなった。洗剤で煮た洗濯物は、引き上げられると庭の扉を通って手押し車で運ばれた。皆は一日中陽ざしを浴びながらクロ=マリーで過ごした。
「お母さん、今度は私が洗うわ。だって楽しいんだもん」
アンジェリックは肘まで袖をまくり、棒で洗濯物を勢いよく叩いた。泡が跳ね上がり、自分を濡らした。この荒っぽい仕事を笑顔で楽しむ姿は健康そのものだった。
「見て、お母さん。これは腕が鍛えられるでしょう。それに面白いし」
ラ・シュヴロットは畑を斜めに横切っていた。はじめ流れは穏やかで、やがて急になり、小石の上を白く泡立ちながら流れた。そして司教館の壁の下の水門から出て来て、ヴォワンクール邸の庭の角で石造りのアーチに吸い込まれて地下に消えた。それから二百メートルほど先で再び姿を現し、バッス通りに沿って流れ、リニュエル川へと注いでいた。だから洗濯物は流されないように気をつけなければならなかった。
「待って、お母さん、この石をタオルの上に乗せるから! さあどうだろう、これで大丈夫でしょう!」
彼女は石を固定し、別の石を取りに水車小屋へ走った。身体を動かすことが嬉しくてしかたなかった。石に指を挟んでも、気にしなかった。水車小屋に暮らしている貧しい家族は、昼間は施しを求めてそれぞれ道に散っていた。クロ=マリーは誰もいなく、誰もいないことが魅力だった。柔らかな柳の枝や、高くそびえるポプラ、肩まで生い茂る草。ここは野趣に富んでいた。隣り合う二つの庭から静けさが伝わってきていた。そしてその大木が地平線を塞いでいた。午後三時、琥珀色の影を伸ばした大聖堂から香が漂ってきていた。
そして彼女は、その白く瑞々しい腕で力いっぱい洗濯物を叩いた。
「ああ、お腹が空いてきた。苺のタルトが食べたいな」
しかし翌日、濯ぎの日はアンジェリック一人だけだった。ガベ婆さんは坐骨神経痛で来られなかった。ユベルティーヌは他にも家事があって家から離れられなかった。アンジェリックは茣蓙を敷いた箱にしゃがみこんで一枚一枚衣類を取り上げ、濁らなくなるまで水の中で揺すった。彼女の仕事ぶりは遅かった。その朝オートクール礼拝堂の窓の前で、灰色のシャツを着た老職人が足場を組んでいるのを見たからだ。彼女はステンドグラスの修理だと思い、憤慨していた。実際にそれは修理が必要だった。聖ゲオルギウスのステンドグラスには、欠けがあった。何世紀ものあいだに一部のガラス片は割れてしまい、ただのガラス板で置き換えられていた。それでも彼女には不満だった。竜を突く聖人や帯で竜を連れる王女の欠けた部分に彼女は慣れ過ぎていた。だから修理は、わざわざそれを傷つけるように感じられた。もうすでに泣きそうだった。古いものを変えてしまうことは、冒涜に等しかった。ところが昼食から戻ってきたとき、彼女の怒りは消えてしまった。二人目の職人が足場の上にいた。今度の男は若く、やはり灰色のシャツを着ていた。それは彼だった。
アンジェリックは嬉々として、茣蓙を敷いた箱の持ち場へ戻った。それから腕まくりした手で、澄んだ水の中、洗濯物を濯ぎ始めた。彼は月の光の中に見た通りだった。背高く、細く、金髪で、薄い髭に神様のような巻き毛、肌も白かった。彼ならばステンドグラスは何ひとつ心配なかった。きっと、より美しくなるだろう。そして、彼が灰色のシャツを着る職人であっても、おそらくステンドグラスの絵付け師であっても幻滅を感じることはなかった。それどころか、運命を信じる気持ちは揺らぎもせず、嬉しかった。表面的なことを問う必要はない。運命が定めた仮の姿なのだから。彼女の心の中では、黄金の雨が大聖堂の屋根から流れ落ち、遠くのオルガンの響きが栄光を奏でていた。彼がどこから来たのかさえ考えなかった。近所に住んでいるのでなければ、エヴェシェの壁に沿ってマグロワール通りまで続くゲルダッシュの小路を通って来ているはずだった。
至福の一時間、彼女は顔がほとんど水に触れそうなほどに身をかがめて洗濯物を濯いでいた。しかし新たな衣類を手にするたびに、頭を上げて彼の方を見ていた。ときめいた表情に、いたずらっぽさがのぞいていた。足場の上の彼のほうは、ステンドグラスを調べるふりをしながら横目で彼女を見ていた。そして彼女に気付かれると眼をそらし、白い肌が赤くなった。怒りでも優しさでも、どんな小さな気持ちの揺れでも、彼の顔はすぐに赤く染まるのだった。彼は挑むような目をしていたが、彼女に見つめられると急に臆病になった。手の置き場にも困り、老いた同僚に話すにもどもってしまった。言葉は要らなかった。見えない視線と声なき口がそれを運んでいた。彼女が頭を上げると、彼はあわてて顔をそむける。甘美な時間だった。
突然、彼が足場から飛び降り草むらの中を後ずさるのが見えた。離れたところから窓を見ようとしているふうだった。彼女は思わず笑ってしまった。彼の意図はあまりにもはっきりしていたからだ。彼は、ただ彼女に近づきたいだけなのだ。彼はすべてを賭けるように足場から飛び降りた。しかし、あまりに勢い込んだせいで、そのあとを自然に続けられなかった。彼女の数歩先で背を向けたまま振り返ることができずに突っ立っていた。彼女は、彼が後ろを振り返らずにステンドグラスへ戻ってしまうのではないかと思った。しかし、彼は勇気を振り絞って振り返った。ちょうど頭を上げたかのじょは、いたずらっぽい笑みを浮かべた。二人の視線が出会った。二人とも言う言葉も見つからず、ひどく気まずくなってしまった。もしそのとき事件が起こらなければ、彼らはこの気まずさから永遠に抜け出せなかったかもしれない。
「あ、いけない!」彼女が悲鳴を上げた。
無意識のまま濯いでいたバチストの肌着が、手から抜けて流れにさらわれてしまった。数分のちにはヴォワンクール邸の石のアーチの下へ吸い込まれてしまうだろう。
彼女は立ちすくんだ。彼は瞬時に理解し、駆け出した。しかし流れに乗った肌着は、いまいましくも彼より速かった。身をかがめて掴んだと思っても、手にしたのは泡だけだった。彼は二度掴みそこねた。そして、命を賭して飛び込むがごとくに水に入ると、地中へ吸い込まれる寸前に肌着を救い上げた。
アンジェリックは固唾を飲んで見守っていたが、からだの底から笑いがこみ上げてきた。ああ、これは何度も夢見た冒険! 水辺で出会う美しい若者が彼女を恐ろしい危険から救い出す物語! 英雄聖ゲオルギウスは、もはや灰色のシャツを着た、ただの若い職人だった。足を濡らして水の滴る肌着を抱えて戻って来たとき、彼はこの英雄の帰還がどれほど滑稽か自身でも分かっているようだった。アンジェリックは笑いをこらえるのに必死だった。
彼は思わず彼女を見入った。笑いをこらえる彼女は無邪気で愛らしかった。水しぶきを浴び、水の流れに冷たくなった腕は、森に湧く清らかな泉を思い起こさせた。太陽の下で輝く健やかさがあった。そして、良くできる真面目な娘と察せられた。しかし地味な服装にもかかわらず、そのすらりとした体つきと面長の顔立ちに、伝説の物語の王女を思わせるものがあった。彼の愛する芸術のように彼女はあまりに美しく、どうやって肌着を返せばいいのか分からなくなってしまった。しかも、彼女が必死で笑いをこらえているのを見ると、自分が子どもっぽく見えて腹立たしかった。彼はついに覚悟を決め、彼女に肌着を手渡した
アンジェリックは、少しでも口を開けば笑いが爆発してしまいそうだった。気の毒とは思いながらも、抑えようがなかった。彼女は幸せ過ぎて、笑いたくて仕方なかった。
もう大丈夫と思い、言った。
「ありがとう……」
しかし、また笑いが込み上げ、続きの言葉が出なかった。澄んだ笑い声が水しぶきのようにラ・シュヴロットの水音とともに高く響いた。彼はすっかりうろたえてしまい、一言も言えなかった。白かった彼の顔が赤く染まった。内気な子どものような目が燃え上がった。そして彼は行ってしまった。そして年老いた職人とともに姿を消した。彼女のほうは、笑い続けていた。それから澄んだ水にまた身をかがめ、洗濯物を濯ぎ始めた。幸福な一日だった。
翌日、六時になるとすぐに、前日から水の滴り落ちていた洗濯物を広げて干した。風が強く、洗濯物を乾かすには丁度良かった。それどころか、飛ばされないよう四隅を石で押さえなければならなかった。緑の草の上に広げられた洗濯物は、まぶしいほどに白かった。草は良い香りがし、野原は突然白い雛菊が咲いたように見えた。
昼食のあと様子を見に戻ると、アンジェリックは慌てた。風はさらに強まり、澄み渡る青空に洗濯物が飛んで行きそうだった。すでにシーツが一枚飛んで行き、何枚かのナプキンが柳の枝に張り付いていた。彼女はナプキンを追いかけて走った。しかし、彼女の後でハンカチがまた飛び始めていた。彼女一人では、どうにもならなかった。激しく暴れるシーツと格闘していると、風の中に声がした。
「手伝いましょうか」
彼だった。彼女は洗濯物の心配以外には何も考えていなかった。
「お願い、そっちの端を押さえて!」
風に踊るシーツを引き延ばすと、帆のようにはためいた。それから二人はシーツを草の上に置き、四隅にもっと大きな置き石をした。シーツはおとなしくなった、その眩しいほどの白い布を隔てて、二人は膝を突いていた。
彼女は微笑んでいたが、もういたずらっぽさはなかった。彼には勇気が湧いた。
「僕はフェリシアンっていうんだ」
「私はアンジェリック」
「僕はガラス職人をしている。ここのステンドグラスを任されているんだ」
「私は両親と一緒に祭服の刺繍をしているの」
言葉をさらう風に吹かれながら、二人は陽の光に満たされて生き生きとしていた。二人はただ話しがしたいために、分かり切ったことを話題にした。
「ステンドグラスは変わっちゃうの?」
「いや、修理の跡は見分けがつかないよ。僕もあれはとても良いと思っている」
「私もあれが好きなの。色が良いわ。私もゲオルギウスの刺繍をしたことがあるけれど、あれほど綺麗にはできなかったわ」
「え、そんなことはないしょう! 赤いビロードのカズラでしょう。日曜日にコルニーユ神父が着ていたのを見たよ」
彼女は思わず頬を赤らめた。それから叫んだ。
「シーツが飛びそうだわ。左端に石を置いて!」
鳥の羽ばたきのように大きくはためく布を彼はあわてて押さえた。そして、布が動かなくなったのを見て二人とも立ち上がった。
彼女は草の小径を歩いて洗濯物の一つひとつを確認し始めた。彼も彼女のあとをついて歩き、エプロンや布巾がまた飛ばされないか見張った。とても自然な成り行きだった。彼女はまた話し始め、自分の好きなことや日々の暮らしを語った。
「私は物がきちんとしているのが好きなの。朝はいつも六時に起きるわ。工房の鳩時計が六時に鳴るから。まだ暗いうちに着替えるの。靴下とか石鹸とか場所を決めていて、そういう癖なのよ。生まれつきじゃないの、昔はすごい散らかしてたわ。お母さんに叱られてばっかりだった。工房では、いつもの場所に座らないと光の加減で調子が悪いのよ。私は左手も右手も同じに使って刺繍ができるの。これは本当にありがたいわ、誰もができることじゃないから。花が大好きなんだけれど、部屋には生けられないの。頭が痛くなっちゃうのよ。でも不思議とスミレだけは大丈夫なの。スミレの香りは気持ちが落ち着くのよね。ちょっとでも具合が悪くなるとスミレの香りを嗅ぐの。そうすると楽になるのよ」
彼は彼女の声に聞き入っていた。心に深く染み入り余韻を残す魅力的な声だった。きっと彼は人の声に特別敏感だったのだろう。ある音節の響きには目を潤ませるほどだった。
「あら」と彼女は話を途切った。「もう、シャツが乾くわ」
それから彼女は、無意識のうちに自分を知って欲しくて、最後まで話をした。
「白って一番きれいだと思うの。青も赤も、どんな色でも疲れちゃうことがあるのよ。でも白だけは飽きないのよね。白の純粋な感じが好きなの。白い猫を飼っていたことがあるの。でも黄色い斑があって、白く塗っちゃったの。とっても良かったんだけれど、長持ちしないのよね。それからね、お母さんには内緒なんだけれど、白い絹糸の切れ端を全部取っておいて引き出しに入れてるの。何の役にも立たないけれど、ときどき眺めたり触ったりするのが好きなの。それに絶対内緒なんだけれど、毎朝目を覚ますと、ベッドのそばに何かがいて、白いものがふわっと飛び立つの!」
彼は少しも疑わず、彼女の言うことを信じているようだった。どんな王女も華やかな宮廷の中では、こんなにも早く彼を魅了することはできなかっただろう。緑の草の上、白い洗濯物の間に立つ彼女は愛らしく、明るく楽し気で、しかも王女のような気品があった。その姿は彼の心を、しだいに強まる抱擁のように捉えていた。運命は定まった。彼は人生の果てまで彼女についてゆくのだろう。彼女は時々振り返って微笑みながら軽やかに歩いていた。彼は幸せな気持ちで後ろを追いかけていた。
しかし突風が吹き、小さな洗濯物が白い鳥のように舞い上がった。付け襟や袖、モスリンのスカーフやギュンプ(訳者注:首と肩を覆う婦人物の短いブラウス)が遠くへ落ちた。
アンジェリックは走り出した。
「ああ、どうしよう。来て、早く来て手伝って!」
二人はそろって駆け出した。アンジェリックはラ・シェヴロットの縁で襟を一つ捕まえた。彼のほうは、背の高いイラクサの中で見つけたギュンプを二枚手にしていた。袖も一つずつ拾われた。二人が走るあいだに彼女のスカートの裾が風にあおられ、三度彼をかすめた。そしてそのたびごとに彼はどぎまぎして顔を赤くした。彼の方は、最後のスカーフをつかまえようと跳び上がった拍子に彼女に触れた。彼女は立ち止まったまま息を詰めていた。彼女から笑顔が消え、もう冗談も言えず、不器用な大きな少年をからかうこともできなかった。あれほど陽気だった彼女が、甘美な不安に力がすっかり抜けてしまった。彼がスカーフを差し出したとき、二人の手と手が触れ合った。二人は身震いし、互いを見つめた。彼女は後ずさりし、自分の身に起きた大事件にどうしたらよいか分からず、しばらく立ちすくんでいた。すると突然、腕いっぱいに小さな洗い物を抱え、残りをそのままに走って逃げて行った。
フェリシアンは声をかけようとした。
「ああ、ごめんなさい……」
風はさらに強く、言葉をかき消した。彼は成す術もなく走り去る彼女を見送った。強風が彼女をさらって行ったかのようだった。金色の斜陽を受ける白いシーツやテーブルクロスの間を彼女は走っていった。そして大聖堂の影に吸い込まれ、後ろを振り返りもせず小さな扉から家の庭に入ろうとしていた。しかし、ふいに優しい気持ちが湧き起こり振り返った。彼に怒っていると思われたくなかった。困惑しながらも笑顔を作り、声を張り上げた。
「ありがとう! ありがとう!」
彼女が礼を言ったのは、洗濯物を拾うのを手伝ってくれたからだろうか。それとも、別のことに対してだったのだろうか。扉の向こうに彼女の姿は消えた。
彼は一人、野原のまんなかに立っていた。澄みきった空の下に、絶え間なく強風が吹いていた。司教館の楡の木々が大きく波打ち、大聖堂のテラスや控え壁が甲高い音を鳴らしていた。しかし彼に聞こえたのは、ライラックの枝にかかった白い花のようなボンネットがはためく音だけだった。
その日以来、アンジェリックは窓を開けるたびにフェリシアンを見た。彼はステンドグラスを口実にクロ=マリーに入りびたり、仕事は少しも進まなかった。何時間も茂みに横たわり、草の間からアンジェリックの窓を窺っていた。二人は朝と夕に笑みを交わすことが心地よかった。彼女にはそれだけで十分幸せだった。次の洗濯は三か月後。それまで庭の扉は閉じたまま。しかし、毎日顔を合わせていれば、三か月はすぐに過ぎてしまうだろう! 昼は夕の視線のために、夜は朝の視線ために生きる。これよりも大きな幸福があるだろうか。
初めて出会った時から、アンジェリックは自分の好みも習慣も、そして小さな心の秘密まで、すべてを打ち明けていた。一方、彼はフェリシアンと名乗っただけで、それ以外のことを何も話さなかった。恋とは、おそらくそういうものなのだろう。女はすべてを差し出し、男は未知に留まる。彼女は急いで確かめようとする気も無く、ただ実現するに違いない、あれこれを思って満足していた。知らないことは問題ではなかった。ただ会えることだけが大切だった。それに彼女は、彼のまなざしから思いを読み取れるほどに良く知っていた。待っていた彼が来たのだ。彼女は彼を認め、そして二人は愛し合った。
二人は離れたまま、その恋を楽しんでいた。互いの知らないところを発見する度に、新たな喜びがあった。彼女の手は針仕事で傷ついていたが、彼はその手が好きになった。彼女には彼のすべてが嬉しかった。彼が美しいことに感謝した。ある夕方には、髭が髪より少し薄いことが彼の笑いに優しさを与えていると気付いた。彼女にはそれがとても嬉しかった。彼はある朝、彼女が身をかがめたときに、彼女の首に小さなほくろを見つけた。それが彼をうっとりさせた。二人の心にも新しい発見があった。確かに、彼女の無邪気ながらも品のある窓を開ける所作は、刺繍職人という身分の中に王女の魂を持っていることを語っていた。同じように、彼が草を踏む軽い足取りを見れば、彼が善人なのだと感じられた。出会った最初から、二人は美徳と気品が輝いていた。そして会うたびに新しい魅力が添えられた。会うことの幸福は尽きることがなかった。
しかし、フェリシアンはまもなく苛立つようになった。彼はもう、茂みの中で静かにしているだけで幸せというわけにはいかなかった。アンジェリックが姿を見せると彼は落ち着きがなくなった。近づこうとして彼女を少し怒らせた。彼女は人に見られることを恐れていたからだ。ある日、ついに喧嘩になった。彼が壁にまで近づいてきたので、彼女はバルコニーを去ってしまった。それは彼にとって大惨事だった。彼は打ちひしがれてしまった。しかし祈るような彼の表情を見て彼女は彼を赦し、翌日はいつもの時刻にバルコニーに現れた。ところが、彼はまた同じことを繰り返した。しかも、もう待つだけでは彼には物足りなかった。じっとしていられない彼は、今ではクロ=マリーのどこにでもいるかのようだった。彼は木の幹という幹の後ろから現れ、草の茂みという茂みの上に姿を見せた。楡の木に棲む山鳩たちのように、彼も二股の幹のあいだに自分のねぐらを持っているに違いなかった。ラ・シュヴロットは、彼がそこに居続けるための口実だった。流れに身を乗り出して水中を観察し、空を見上げて雲を追っているように見えた。ある日、彼女は廃墟の水車小屋の上に立っている彼を見た。彼女のところまで飛んでいけないながらも、少しでも高く登れたことに彼は満足しているようだった。別の日には、彼女は思わず小さな叫びをあげそうになった。彼が自分よりも高い、後陣礼拝堂のテラスに立っていたからだ。鍵は教会の案内係がもっているはずなのに、どうやって彼はそこに入ったのだろう。さらに別の日には、彼を空中に見た。身廊の飛梁や控え壁の小塔の間に、どうして彼を見ることができるのだろう。彼はその高みから、小塔の先端をかすめて飛ぶツバメのように彼女の部屋を見下ろしていた。彼女は隠れようと考えたことはなかった。ただ、この時から心に壁ができてしまった。自分の内に人が入り込み、いつも一人ではなくなる感覚に不安が増していた。急ぐ気持ちはないのに、祝祭日の揺れる鐘のようなこの胸の高鳴りは、いったい何のだろう。
アンジェリックが姿を見せなくなって三日が過ぎた。彼女にはフェリシアンの大胆さが日に日に増してゆくのが怖かった。彼女はもう二度と彼に会うまいと誓い、彼を憎もうと努めた。しかし、彼から受けた熱のために、彼女はじっとしていられなかった。刺繍を止めて外に出られるなら、どんな口実でもよかった。だから、ガベ婆さんが寝込んで困窮していると知ると、アンジェリックは毎朝見舞いに訪ねるようになった。ガベ婆さんの部屋は、同じオルフェーヴル通りの三軒隣にあった。彼女はスープや砂糖を持ってやって来ては、大通りに薬を買いに降りて行った。ある日、彼女が小さな薬瓶を両手に抱えて戻ってくると、驚くことにフェリシアンがいた。彼はひどく赤面し、ぎこちなく去って行った。翌日、彼女が出かけようとすると、彼はまた姿を見せた。彼女は不機嫌になって彼に譲った。彼は彼女を妨害しているのだろうか。ちょうどその時、彼女は、貧しい者に自分のすべてを与えようとする慈善の発作に駆られていた。人の苦しみを思うと、慈しみと友愛が抑え切れなかった。彼女はバッス通りへ走り、盲目のマスカール老人に持ってきたスープを自ら食べさせてやった。シュトー夫妻のところへも走った。九十歳になる老夫婦はマグロワール通りの地下室に住んでいた。彼女はユベール家の屋根裏から持ってきた古い家具を運び込んでいた。彼女はほかの者たちのところへも、さらにほかの者たちのところへも、この地区すべての貧しい人々のところへ走り回った。彼らのために身の回りの物をこっそり持ち出した。喜びに満ちた彼らの輝いた表情を見ることが嬉しかった。だが、行く先々にフェリシアンがいた。彼女はこれほど頻繁に彼を見たことはなかった。彼を見るのが怖くて窓に近づくことすら避けていたというのに。彼女の困惑は激しく、ついには怒りだした。
最悪だったのは、アンジェリックが慈善に絶望してしまったことだった。若者は彼女の善意を台なしにしていた。以前にも彼は貧しい人々の世話をしていたのかもしれない。しかし、この人たちのところには、これまでまったく訪ねていなかったのだ。彼は後をつけて調べ、その人たちを彼女から一人ずつ奪っていくのだ。今では彼女がシュトー夫妻へ食べ物の籠を持って行くたびに、テーブルの上に白い硬貨が置かれていた。ある日、彼女の一週間の節約のすべてである十スーをマスカール老人に届けに走ると、彼は太陽のように輝く二十フラン硬貨を持っていた。さらにある晩、彼女がガベ婆さんを訪ねると、銀行券を両替してきて欲しいと頼まれた。自分の無力さを知らされることは、胸の張り裂ける思いだった。自分には無いお金が、彼の財布からは簡単に出てくるのだ。確かに、貧しい人たちにとっての思いがけない幸運は嬉しかった。しかし、彼女には与える幸福が無くなってしまった。他の人が多くを与えているのに、自分は少ししか与えられないのが悲しかった。彼は不器用にも彼女のためと思い込み、優しい気前のよさで彼女の施しを無にしてしまっていた。さらに彼女は、どこへ行っても彼への称賛に耐えなければならなかった。「なんて善良な、なんて優しい、なんて育ちの良い若者!」皆、彼のことしか話さなかった。彼の施しをひけらかして彼女の施しを馬鹿にするかのようだった。彼女は彼を忘れると誓っていたにもかかわらず貧しい人たちに尋ねずにはいられなかった。「何を置いていったの? 何と言ったの? それに、彼は美男でしょう? 優しくて、気が小さくて。もしかして、私のことを話してた?」「ああ、もちろん。いつもあなたのことを話していますよ」そう聞くと彼女は彼が憎らしくなった。心に抱えたものがあまりに重くなり過ぎていた。
ついに、このままでは済まなくなった。五月のある晩、穏やかな黄昏の中で惨事は炸裂した。それはロムバルーズの家、水車小屋の廃屋で暮らす貧しい女たちのところで起きた。そこには女しかいなかった。ロムバルーズの母親──皺だらけの老女。長女ティエネット──二十歳の大柄で粗野な娘。そして幼い妹ローズとジャンヌ──ぼさぼさの赤毛の下に、すでに不敵な目つきをした少女たち。四人は道を歩いて物乞いをし、夜になると紐で縛ったボロ靴を引きずりながら帰ってきた。その晩、ティエネットは妹たちを石ころの上を歩かせ終えて帰ってきた。彼女は怪我をしていた。足から血が流れていた。家の前、クロ=マリーの草の中に座り込んで、彼女は足に刺さった棘を抜いていた。そのまわりで母親と二人の妹が泣いていた。ちょうどそのときアンジェリックがやって来た。毎週彼らに渡しているパンをエプロンの下に隠し持っていた。彼女は庭の小さな扉から来た。すぐに走って戻るつもりだったので扉は開けたままだった。しかし、家族全員が泣いているのを見て思わず立ち止まった。
「どうしたの? 何があったの?」
「ああ! お嬢さん」母ロムバルーズが呻くように言った。「見てください、この馬鹿な娘の有様を。明日は歩けやしません。もう一日が台無しです。靴が無いんです」
ローズとジャンヌの目は炎のようだった。そしてさらに激しく泣き、甲高い声で叫んだ。
「靴が無い! 靴が無い!」
ティエネットは、やせて黒ずんだ顔を半ば上げたが何も言わなかった。そして、より長い棘を抜き始め、ピンを使って自分で足を血まみれにした。
アンジェリックは心を動かされ、施しを与えた。
「とりあえず、パンはあるわ」
「ああ、パン」と母親は言った。「パンも必要だけれど。パンじゃ歩けないわ。明日はブリニーの定期市。この子は毎年そこで四十スー以上は稼ぐのに。ああ、なんてこと。いったい私たちはどうなってしまうのでしょう」
憐れみと当惑のためにアンジェリックは黙り込んだ。彼女のポケットには、ちょうど五スーが入っていた。しかし五スーでは靴は買えない、中古ですらも。彼女はいつも、お金がないために動けなくなってしまった。そして目をそらした瞬間、数歩先、深まる影の中にフェリシアンが立っているのを見た。彼女の心は激しく乱れた。彼はきっと聞いていただろう。もしかすると、ずっと前からそこにいたのかもしれない。彼はいつもそんなふうに現れる。どこから来たのか、どうしてそこにいるのか、彼女にはまったく分からなかった。
「彼が靴をくれる」と彼女は思った。
彼女は、そのことに本当の絶望を感じた。彼はすべて与える。自分は一度だって勝てない。胸が張り裂けそうだった。もっと裕福ならば、自分だって人を幸せにできると彼に示せるのに。
しかしロムバルーズ達は、親切な紳士を見つけてしまった。母親は飛ぶように駆け寄り、二人の妹たちは手を差し伸べて鳴き声を上げ、長女は血まみれの足を放り出し、斜に彼を見据えていた。
「聞いてください、お母さん」とフェリシアンは言った。「グラン通りへ行って、バッス通りの角に……」
アンジェリックは理解した。そこには靴屋があるのだ。彼女は彼の言葉を素早く遮った。あまりに取り乱していたので、口から出たのは意味のない言葉だった。
「そんなこと無駄よ! いったい何のために? もっと簡単な方法があるわ!」
しかし、そのもっと簡単な方法を彼女は見つけられなかった。どうすれば、何を思いつけば彼より先に立てるのだろう。彼をこれほど憎むことになるとは、思いもしなかった。
「僕の名前を言えば良い」とフェリシアンは続けた。「そして……」
彼女は再び彼の言葉を遮り、不安げに同じ言葉を繰り返した。
「もっと簡単な方法があるわ! もっと簡単な」
しかし、急に静かになって石の上に腰を下ろし、素早い手つきで靴紐を解き始めた。靴を脱ぎ、靴下まで脱いだ。
「ほら、これが一番簡単よ! わざわざ出かける必要はないわ」
「ああ! お嬢様。お嬢様に神様のお恵みがありますように!」と母ロムバルーズは声を上げ、新品同様の靴を調べながらまじまじと見た。「上のところを切って広げれば、履けますよ。ティエネット、ちゃんとお礼を言いなさい」
しかしそのとき、アンジェリックは自分が裸足であること、そしてフェリシアンがそれを見ていることに気づいた。彼女は混乱してしまった。立ち上がれば、裸の足がもっと見えてしまう。どうしたら良いか分からなかった。そして怖くなって逃げ出した。草の上を彼女の小さな白い足が走って行った。夜が降りてきていた。大きな木々と大聖堂の黒い塊のあいだに、クロ=マリーは琥珀色の湖のようだった。逃げて行く白い足だけが、白い鳩のように見えていた。アンジェリックはラ・シュヴロットに沿って走り、板の渡しへ向かった。しかし、フェリシアンは茂みを突っ切って先回りした。これまでも内気だった彼は、彼女の白い足を見て彼女以上に赤くなっていた。しかし今、情熱に押され、初めて会った日から心に仕舞っていた恋を叫びたかった。そして、彼女のスカートが彼をかすめたとき、彼は燃えるような告白をどもりながら漏らすことしかできなかった。
「僕は……君が好きだ」
彼女は驚いて立ち止まった。彼女は真っ直ぐに彼を見た。怒りと憎しみと思っていた気持ちが、甘美な不安へと溶けていった。彼は何と言ったのだろう。これほどまでに心をかき乱す言葉は、何なのだろう。彼が自分を愛していることは知っていた。しかし、その言葉が耳元でささやかれた途端、彼女は打ちのめされてしまった。彼は、彼女と分かち合う慈善の行いに自信付けられていた。だから勇気を出して再び言った。
「僕は君が好きだ」
彼女は言いようのない恐れを感じて、また逃げ出した。ラ・シュヴロットはもう彼女を止めなかった。追われる雌鹿のように川へ入り、白い小さな足が冷たい水の中の小石の上を走った。庭の扉は閉じられ、二人ともいなくなった。
