見出し画像

パスカル博士 4 エミール・ゾラ

 一週間後、家は再び重苦しい空気に包まれていた。気分の移り変わりは絶え間なく、パスカルとクロチルドはまたも午後の長い時間を互いに不機嫌のまま過ごしていた。マルティーヌも常に苛立っていた。三人の暮らしはもはや地獄だった。
 そして突然すべてはさらに悪化した。南仏の町々にしばしば現れる聖性高きカプチン・フランシスコ修道会の修道士がプラッサンへ修行にやって来たのだった。サン=サチュルナンの説教壇に彼の声が鳴り響いた。大衆を魅了する熱烈な雄弁、花のように彩られた言葉、溢れ出る豊かな隠喩。それはまるで使徒のようだった。彼は現代科学の空虚を説き、異様なまでの神がかった高揚のうちにこの世の現実を否定し、未知と彼方の神秘を啓示した。町の信心深い女たちは皆深く感動していた。最初の晩クロチルドがマルティーヌに伴われて説教に出席した日、彼女が昂ぶった気持ちで戻ったことにパスカルは気付いた。その後の日々彼女はますます熱中し、礼拝堂の暗い隅で一時間祈ってから遅くに帰ってくるようになった。教会に籠り疲れ果て、もはや予言者のように光る瞳を宿していた。修道士の熱烈な言葉が彼女につきまとっていた。人々や事物に対して怒りと軽蔑が芽生えたようだった。
 不安に駆られたパスカルはマルティーヌに事情を問いただそうとした。ある朝早く彼女が食堂を掃いている最中に彼は降りてきた。
「分かっているとは思うが私は誰にも強要はしない。クロチルドとおまえが望むなら教会へ行くのは自由だ。だが彼女を病気にさせることは望んでいない」
 女中は掃く手を止めずに低い声で答えた。
「きっと病気の人というのは、自分を病気と信じない人たちのことを言うのでございましょう」
 彼女があまりにも自信に満ちた様子で言ったので、彼は思わず苦笑した。
「そうだ、病める魂を持つ者は私だ。おまえが改心を願っている者だ。一方おまえたちは健やかさと完全な叡智を備えている。マルティーヌ、もしこれ以上私を苦しめるなら、そしておまえ自身をも苦しめ続けるようなら私はもう容赦はしない」
 彼があまりにも荒々しい声で言ったので女中は思わず手を止め彼を正面から見つめた。深い悲しみが奉仕に閉じこもる老嬢の疲れた顔に影を落とした。そして涙が目に溢れ、言葉をつかえさせながらその場を去って行った。
「ああ、先生は私たちをお嫌いなのですね!」
 こうしてパスカルは成す術もなく募る悲しみに蝕まれていった。クロチルドの教育に際して権威的に導かず寛容に振る舞ったことをますます後悔した。木は妨げなければ真っ直ぐに育つと信じ、読み書き以外教えることもなく彼女を自由にしてきた。彼女の教育はとくに意図されたものではなかった。ただ日常の習慣の中で研究を手伝い、書き写し、校正をし、原稿を整理することで彼女はほとんどすべてを読み、自然科学に興味を持つようになった。今更彼は自分の無欲さを悔やんだ。フェリシテとマルティーヌが煽る彼方への希求に迷わせることなく、彼自身が、知を求める精神を導き得たはずのに。彼は事実にとどまり現象を越えて進まず、学者としての規律でそれを守る。しかし彼女は絶えず未知や神秘に心を煩わせている。それは彼女にとって自然な好奇心であり強迫だった。満たされなければ辛く感じるほどだった。そこには決して潤されることのない渇きがあり、手の届かないもの、知の及ばないものへと誘う抗しがたい呼び声があった。幼いころから、そして娘時代にはなおさら彼女はすぐに「なぜ」「どうして」と根源的な理由を求めたものだった。花を見せれば「なぜ花は実をつけるのか」「どうして種は芽を出すのか」と尋ねた。それから疑問は受胎の神秘、性の神秘、誕生と死の神秘、そして知られざる力、神の神秘へと進んだ。四つばかり質問をすれば、彼女は毎回彼を致命的な無知へと追い詰めてしまう。彼が答えに窮し滑稽にも怒りの身振りで彼女を振り払うと、彼女は勝ち誇ったように高らかに笑った。そして知られざるものすべて、信じ得るものすべてが広がる夢想の世界へ戻っていくのだった。彼女の説明は彼をしばしば驚かせた。科学に培われた彼女の精神は実証的な真理から出発する。しかしその後の飛躍はあまりに大きく、たちまち伝説の天空へと駆け上がってしまう。天使、聖人、超自然の息吹が仲介者として現れ、物質を変え、命を吹き込む。あるいは唯一の力、世界の魂が五千年の果てに万物を最後の愛のうちに統合しようと働いているなどと言う。彼女はそれを確信していると言い切っていた。
 それにしてもパスカルは彼女がこれほど心を乱した姿を見たことがなかった。彼女は一週間前から大聖堂でのカプチン修道士の黙想会に通っていた。日々を夕べの説教を待ちわびて過ごし、出かける時には初恋の約束に向かう娘のように気持ちを昂ぶらせていた。そして翌日には全身が外界の慣れた日常からの解脱を物語っていた。目に見える世界も刻々の必然の行為も、ただ虚妄に過ぎず愚かしいと言っているようだった。ほとんど自分の仕事をせずに、何時間も両手を膝に下ろしたまま虚ろな目が遥かな夢の彼方をさまよっていた。あれほど活動的で早起きだった彼女が今では朝食に遅れて姿を見せるようになっていた。身支度に長い時間を費やしていたわけではない。女性らしい身だしなみを忘れ、髪はほとんど梳かさず、ボタンの掛け違えたガウンをぞんざいにまとって降りてきた。ただそれでもなお、若さゆえに彼女は愛らしかった。あれほど愛していたラ・スレヤードを巡る朝の散歩を彼女はもうしなかった。オリーブやアーモンドの間を駆け下り駆け上がり、松林を歩いて樹脂の香りに包まれ、焼けつく広場に長く佇み陽を浴びる……。むしろ彼女は鎧戸を閉ざし部屋に籠ることを望んだ。その中で身じろぎもしないのだった。そして午後には広間で物憂げに椅子から椅子へと所在なく移り歩いた。これまで心を惹かれていたものすべてに苛立ちを覚えているようだった。
 パスカルは彼女に助手を頼むことを断念せざるを得なかった。彼が清書するよう渡した覚え書きは、三日間彼女の書見台に置かれたままだった。彼女はもう何一つ整えようとせず、床に落ちた原稿を拾おうともしなかった。とりわけ人工授粉に関する著作の図版となるはずだった花のパステル画をやめてしまった。新奇な赤い色合いをした大きなゼニアオイは、彼女が写し終える前に花瓶の中でしおれてしまった。そして彼女は狂気じみた一枚の絵に没頭し午後中を費やした。夢の花々。奇跡の光の中に咲き誇る異様な花盛り。紫の大輪の花冠は開かれた心臓のように広がり、その中央から黄金の光線が穂のように噴き上がる。雄しべに代わって立ち昇る花火のような星々が無数の世界となり、天へと流れ銀河を成す。
「ああ、しょうがない子だ」とその日、博士は彼女に言った。「こんな空想に時間を浪費して。おまえが枯らしてしまったあのゼニアオイの写しを待っていたのに。それにこれでは体を損ねてしまう。現実を離れてしまっては健康も美も有り得ないのに」
 彼女は己の確信に閉じこもり、もう議論はしなくなっていた。しかし、今信念の急所に触れられ口を開いた。
「そもそも現実なんてものは存在しないのよ」
 この大きな子どもの哲学的な所見に彼は愉快になり笑い出した。
「そうだね、分かるよ。私たちは感覚によってしか世界を知ることができない。一方、感覚は誤りやすい。ゆえに世界は存在しないのかもしれない。では狂気への扉を開こうじゃないか。最も荒唐無稽な幻想も可能として受け容れ、事実の外にある悪夢の領域に生きるとしよう。だが分からないのか、自然を消し去ればもはや何の法則も成り立たなくなる。生きる唯一の意味は生命を信じ、生命を愛し、その理解を深めるために知性のすべてを注ぐことだ」
 彼女は虚勢から無関心の振りをし、会話はそこで途絶えた。彼女は絵に戻り、青いパステルを大きく走らせ幻想の花の輝きを澄んだ夏の夜空に浮かび上がらせた。
 しかし二日後、新しい議論をきっかけに事態はさらに悪化した。夕方食卓を離れるとパスカルは広間へ戻って仕事を続け、クロチルドは涼を求めてテラスに出た。幾時間が過ぎ真夜中の鐘が鳴った時、彼は彼女が部屋に戻る音を聞いていなかったことに急に気付き不安になった。寝室に戻るには必ず広間を通らなければならない。しかし彼は自分の背後を彼女が通っていない確信があった。階下へ降りるとマルティーヌはすでに寝ていた。玄関の扉は鍵がかかっていなかった。クロチルドは外でうっかり過ごしているに違いない。蒸し暑い夜にはそういうことも時折あった。しかしこれほどまでに長く居残ることはなかった。
 博士の不安は募った。テラスに出てみると若い娘が長く座っていただろうはずの椅子は空だった。彼はうたた寝している彼女をそこに見つけられると思っていた。彼女がそこにいないのなら、なぜ部屋に戻っていないのだろう。こんな時刻に、いったいどこへ行ってしまったのだろう。夜は美しかった。九月の夜はなお暑く、無限に広がる暗いビロードの空に星々が散りばめられていた。月は無く、星々は夜空の底から大きく鮮やかに輝き地上を照らしていた。彼はテラスの欄干から身を乗り出し線路まで続いている斜面や乾いた石の段々を見渡した。しかし動いているものは何もなかった。小さなオリーブの木が静かに並んでいるばかりだった。そのとき彼の頭に浮かんだのはプラタナスの木の下、泉のそばで水のさざめきの中にいる彼女の姿だった。彼はそこへ駆けて行き暗い中へ入っていった。闇はあまりに深く、木の幹を一本一本知っている彼でさえ、ぶつからないよう両手を前に突き出して進まなければならなかった。松林の中を闇をかき分けるように進んだが誰にも出会わなかった。そして抑えた声で呼びかけた。
「クロチルド、クロチルド」
 夜は深く静まり返っていた。彼の声は少しずつ高まっていった。
「クロチルド! クロチルド!」
 人影ひとつなく気配すらもなかった。音の反響は眠っているかのようだった。声は柔らかな青い闇に吸い込まれて消えた。力の限り叫び、プラタナスの下へ戻り、松林へも引き返した。取り乱しながら敷地全体を探し回った。そして不意に脱穀場に出た。
 広大な脱穀場、その時刻石畳の大きな円形広場もまた眠っていた。長い年月使われることがなくなり草がそこに生えた。それはすぐに太陽に焼かれ黄金色に変わった。刈り込まれたような低い草はまるで絨毯の厚い毛のようだった。そしてその柔らかな草の茂みの間の丸い小石は冷えなかった。黄昏にはもう湯気を立て、夜には日々蓄えられた真昼の熱を吐き出していた。円く広がる荒涼とした広場は熱気の余韻の中で静かな空の下に眠っていた。果樹園へ走ろうとそこを横切った時、パスカルは長く横たわる人の体に危うくつまずきそうになった。それは彼の目には見えていなかった。
「なんだ、おまえはここにいたのか」
 クロチルドは返事もしなかった。両手を首の後ろに組み、空を見上げて仰向けに横たわっていた。その蒼白な顔に大きな瞳が光っていた。
「心配して探していたんだ。私の声が聞こえていただろう」
「はい」
「なんて馬鹿な! どうして返事をしなかったんだ」
 しかし彼女は再び黙り込み、説明することを拒んだ。額には頑なさが刻まれ、視線は空の高みにあった。
「さあ、もう寝なさい、世話の焼ける子だ。明日話してくれればいい」
 彼女はなお動こうとせず、彼が何遍も中へ入るよう懇願したにもかかわらず身じろぎ一つしなかった。ついに彼も彼女のそばに腰を下ろした。刈り込まれた草の上で石畳の熱が感じられた。
「それにしても外で寝るわけにはいかないだろう。せめて返事をしてくれ。いったい何をしていたんだ」
「見ているの」
 大きな瞳は見開かれたまま空に定められ、視線はさらに高く星々の間へと昇っていくようだった。彼女は全身を夏の限りなく澄んだ星空に委ねていた。
「ああ、先生」彼女はゆっくり静かに話した。「先生の知っていることは、あそこにあるものに比べたらなんと狭く限られていることでしょう。そう、私が返事をしなかったのは先生のことを考えていてとても悲しかったからなの。私を意地悪だと思わないで」
 彼女の震えるような優しい声に彼は深く心を打たれた。彼女の横に並んで仰向けに横たわり二人の肘が触れ合った。そして会話は続いた。
「おまえの悲しみはどうも道理に適っていないように思う。おまえは私のことを思って悲しんでいる。どうしてなんだね」
「ああ、それはうまく説明できないようなことなの。私は学者じゃないわ。けれども先生と一緒にいて多くを教わったし、自分でも多くを学んだ。そもそもそれは感覚で知ったことなの。……言ってみようかな。二人きりだし、夜がこんなに綺麗だから」
 幾時間もの思索を経て、彼女の満ちた心は麗しき夜の密やかな静けさの中で溢れ出した。彼女の邪魔をしないよう彼は口をつぐんだ。
「幼い頃先生が科学について語るのを聞いていると、まるで神様のことを語っているように思えた。先生があまりにも希望と信仰に燃えていたから。先生に不可能はないと思っていた。科学ですべてを解き明かし、みんなを幸せにすると思っていた。私たちは大きな進歩の道を歩んでいるって先生は言っていた。毎日新しい発見と確信があって、あと十年、五十年、百年かもしれない。そのとき天は開かれ、私たちは真理をまざまざと目にする。けれども時は流れても扉は閉ざされたまま。真理は遠のいていく」
「それはせっかちだ」彼はあっさり答えた。「もし千年が必要なら待つしかないだろう」
「そうなの、私は待つことができないの。私は知りたいの、そして今すぐに幸せになりたい。一度にすべてを知って、そしていつまでも幸せでいたい。分かりますか、苦しいのはそこ。すぐには完全な知識は得られない。心に疑いも責めもない至福に安らぐことがない。それが生きるということですか。暗闇の中をこんなにも遅い歩みで、ひと時の安らぎもなく次に来る苦悩を思って震えるばかり。いいえ、すべての知とすべての幸福をただ一日で実現する! 先生の科学はそれを約束したわ。もしそうでないならそれはもうお終いなのよ!」
 これを聞くと彼もまた熱くなり始めた。
「いや、それはおかしい。科学は神の啓示とは違う。科学は人間の歩みの速さで進み、その栄光は努力の中にある」
 彼女はすぐさま遮った。
「どうして違うなんて言えるの! じゃあ、上にある本を開いてみて。よく知ってるでしょう、私はそれをみんな読んだんだから。それらは約束で溢れているわ。人類は地と天の征服へ歩んでいると書いてあったわ。すべてを打ち壊しすべてを置き換えると誓っていたわ。そしてそれは純粋な理性で実証をもって成し遂げられるって。子どもみたいかもしれないけれど、私は約束されたものは必ず受け取りたいの。私の想像力は止まらない。私が満足するためにはそれがどうしても美しくなければならない。でも初めから約束がなかったなら何でもなかったはず。だから私が欲しがって苦しんでいる今、何も約束していないなんて言うのはあまりに酷いわ」
 静寂の広がる夜の中、彼は再び身振りで抗議した。
「いずれにしても」と彼女は続けた。「科学はすべてを一掃してしまった。大地は裸で天は空っぽ。先生は私が抱いた希望に科学は無罪と言うけれど、私はいったいどうすればいいの? 私は信じることと幸せが無ければ生きられないのに。私が家を建てるべき硬い地面はどこなの? 古い世界は壊され新しい世界はなかなか築かれない。検証と分析という大災害の中で古代の都市はすべて崩れ去った。そして残されたのは廃墟をさまよう狼狽した人々だけ。休む場所も無く嵐の下に野営して、そこからまた生きることを始めるための終の避難所をさがしている。だから私たちの失望も短気もべつに驚くことではない。私たちはもう待ってはいられない。科学があまりに遅く、破綻しているのだから後ろへ戻ったほうが良い。そう、昔の信仰へ。何世紀ものあいだ世界はそれで十分幸福だったのだから」
「ああ、まさにそれだ!」と彼は声を上げた。「この世紀末の転換点にいて、私たちは恐るべき知識の大群にかき回されて疲れ、苛立っている。そして幻想への永遠の欲求が人を後ろへと引き戻し、魅惑の子守歌のように未知の世界へ誘う。どのみちすべてを知ることができないなら、さらに知ろうとする意味があるのか、得られた真理が即座に確かな幸福をもたらさないのなら、未だ無知であることに満足してはいけないのか。人類が無知のうちに過ごしたその最初の時代のように満足してはいけないのか。そうだ、それは神秘の逆襲だ。今世紀の実証的探究への反動だ。それは起こるべくして起こった。すべての欲求をすぐに満たせないのなら離反が起こることもある。だがそれは一時の停滞にすぎない。人類の歩みは目に見えないところで無限の空間へと続いている」
 沈黙が訪れ、しばらくのあいだ彼らは身じろぎもしなかった。彼らの視線は暗い空に輝く無数の世界に迷い込んでいた。流れ星が一筋の炎となってカシオペアを横切った。輝く天球は聖なる壮麗さのうちにゆっくりとその軸を回っていた。一方、彼らの周りの暗い大地から立ち上るのはただ一つ、横たわる女の柔らかく小さな息づかいだった。
「なあ教えてくれ」と彼は親しげに言った。「今夜おまえの頭をひっくり返したのは、あのカプチンなのか?」
 彼女は素直に答えた。
「はい。説教壇から彼が語る言葉が私を揺さぶります。彼は先生が教えてくれたすべてに逆らって話します。そして先生が私に負わせた科学が毒に変わり私を蝕む……。ああ、神様、私はどうなってしまうの」
「可哀想に。そんなふうに苛まれるとは恐ろしいことだ。それでも私はまだ安心している。おまえはバランスのとれた人間だ。私がいつも言っているようにおまえには丸く、賢く、澄んだ頭があるから、いずれ落ち着くだろう。しかし健全なおまえでさえ惑わされるなら、世の人々の心にはどれほどの混乱が広がっているのだろうか。……それではやはり、おまえには信仰が無いのか?」
 彼女は黙したままため息をついた。彼は言葉をつけ加えた。
「確かに幸福という単純な観点からすれば信仰は頼もしい旅の杖だ。それを持つ幸運に恵まれれば歩みは容易で穏やかなものとなる」
「ああ、もう分からないわ!」と彼女は言った。「信じる日もあれば先生の側にいる日もある。私を揺さぶるのは先生よ。私が苦しむのは先生のせい。きっとそう、愛する先生に背くことになるから。いやよ! 何も言わないで。私がいずれ落ち着くなんて言わないで、ますます混乱するから。先生は非科学的なものを否定しますよね。神秘も理に適いませんよね。人はすべてを知ることはできない、だから生きる意味は未知の探求にある、さらに知ろうとする永遠の努力にある。そうですよね。ああ、もう私は信じるには分かり過ぎてしまった。先生の影響を受け過ぎてしまった。そのせいで時々死んでしまいそうになる」
 彼は彼女の手を取り、温かな草の中で強く握りしめた。
「いや、おまえを怖がらせているのは生きることそのものなんだ。今おまえが言ったように、幸福は絶え間ない努力にあるというのは本当だ。というのもすべてを知ることができない以上休むことはできないからだ。止まることはできないし、目を瞑ったとしても安らぎはない。歩かなければならない、何があっても。常に歩み続ける人生と共に自分が歩かなければならない。人から差し出されるものは皆過去への逆戻り、滅びた宗教、必要に応じて取り繕われた宗教だ。それらは欺瞞にすぎない。人生を知り、それを愛し、あるべき姿で生きること、それが唯一の叡智だ」
 彼女は苛立ちに身を震わせ手を振りほどいた。その声にはぞっとするような嫌悪が込められていた。
「人生は忌まわしいわ。どうしてそれを穏やかに幸せに生きろだなんて言えるの? 先生の科学が世界に投げかけるのは冷酷な光。先生の分析は人間の傷口に降りてきて恐怖を広げる。先生はすべてを率直に言う。そして私たちに残されるのは人や物への嫌悪だけ。慰めはどこにもないわ」
 彼の信念が声となり彼女を遮った。
「ああ、そうだ。すべてを語るのだ。すべてを知りすべてを癒すために!」
彼女は怒りに駆られ起き直り座り込んだ。
「先生の心に正義と平等があれば良かったのに。でも先生は言うわ。人生は強者のもの。弱者は弱さゆえに必ず滅びる。二人の人間が等しいことはない。健康も美しさも知性も偶然の産物。すべては選択の運に委ねられている。でも聖なる正義が失われれば世界は崩壊するわ」
「そうだ」と彼は半ば独り言のように低い声で言った。「平等は存在しない。それを基盤に築かれた社会は存続できない。何世紀ものあいだ宗教は悪を慈善によって癒せると信じてきた。だが世界は崩れ去った。そして今度は正義を差し出す。自然は正義なのか。私はむしろ論理だと信じる。おそらく論理は自然で、言わばより高次の正義で、普遍の営みの最後の審判へと真っ直ぐに向かうものなのかもしれない」
「それなら正義は」と彼女は声を張り上げた。「個を犠牲にして種の幸福を求め弱い種を滅ぼし、勝った種を肥え太らせる。違うわ! それは罪よ! あるのは穢れと殺戮だけ。今夜教会で彼は正しかったわ。地は腐り科学はその腐敗をさらけ出す。私たちは皆天へ逃れなければならない。ああ先生、お願い、私は救われたいの。そして先生を救いたいの!」
 彼女は泣き崩れ、すすり泣きが夜のしじまに木霊した。彼は必死に慰めようとしたが、その声は彼女の嗚咽にかき消されてしまった。
「先生、聞いて。私が先生を愛していることはよく分かっているでしょう。先生は私にとってすべて。私の苦しみは先生から来る。もしも私たちが分かり合えないまま明日死んでしまったら永遠に離れ離れになってしまう。そんなこと考えたくもない。どうして先生は信じようとしないのですか」
 彼はもう一度彼女を諭そうとした。
「おお、馬鹿なことを言うんじゃない……」
 しかし彼女は膝を突き彼の両手をつかみ情熱的な抱擁で彼にすがりついた。彼女はさらに声を張り上げて懇願した。その痛切な叫びはあまりにも激しく、遠く黒い野が嗚咽しているかのようだった。
「聞いてください、彼は教会で言いました。悔い改め人生を変えなければならない。過去の過ちをすべて炎に投じなければならない。そう、先生の書物も書類も原稿も、この犠牲を神に捧げてください。お願い先生、そうすれば一緒に幸せになれるの!」
 とうとう彼は反撃した。
「やめなさい、いい加減にしなさい!」
「いいえ、先生は必ず私の願いを聞き入れます。こんなにも先生を思っているのに私は不幸です。私たちの愛情には何かが欠けている。そこを私はどうしても埋めたい。神聖で永遠なるものすべてで満たしたい。私たちに欠けているものがあるとすればそれは神様以外にないわ。ひざまずいて私と共に祈ってください!」
 彼の怒りが爆発した。
「黙りなさい、おまえは間違っている。私はおまえを自由にしてきた。だからおまえも私を自由にしろ!」
「先生、先生! 私たちの幸せのためなの。私は先生を遠くへ、遥か遠くへ連れて行って二人だけで神様と共に生きたいの!」
「黙れ! 馬鹿馬鹿しい!」
 そして彼らは黙ったまま、しばし敵意を込めて睨み合った。彼らを囲むラ・スレヤードは夜の静寂が行き渡っていた。オリーブの淡い影、松とプラタナスの深い闇、その中で泉が悲しげに歌っていた。頭上には星々の散りばめられた広大な夜空が、まだ夜明けは遠いにもかかわらず白んで見えた。
 クロチルドは無限の天空を示すかのように両手を掲げようとした。しかし素早い動作でパスカルはその手を捕まえ自分の手で握りしめ地面へ向けた。そしてもはや一言も発せられなかった。彼らは我を忘れ敵として対峙した。二人の不和は激しくこじれた。
 突如彼女はその手を引き抜いた。飼い馴らせない誇り高き獣のように身を翻し、夜を駆け抜け家へと去った。石敷きの広場に彼女の小さな靴の音が鳴り響き、やがて砂の小径に消えた。彼はすでに後悔し悲痛な声で彼女を呼び止めた。しかし彼女は耳を貸さず返事もせずに走り続けた。彼は不安にとらわれ彼女の後を追って駆け出した。プラタナスの木立の角を曲がった丁度その時、つむじ風のように玄関へ飛び込む彼女の姿を見た。後を追って駆け込み階段を上がり、勢いよく閂をかける寝室の扉に行く手を阻まれた。そこで彼は落ち着きを取り戻した。叫びたい衝動、再び彼女を呼びたい衝動、扉を打ち破って説得したい衝動を必死に抑えた。しばしのあいだ沈黙の寝室の前に立ち尽くした。部屋からは一片の息遣いさえも漏れてこなかった。彼女はベッドに身を投げ枕に顔を埋めて泣き声を押し殺しているに違いなかった。彼はようやく決心し玄関の扉を閉めに降り、静かに戻って彼女の嘆く声が聞こえないか耳を澄ました。そして夜の明けるころ、彼は涙に喉を詰まらせながら絶望のうちに床についた。
 その時から容赦のない戦争が始まった。パスカルは監視され追い詰められていると感じた。もはや彼はこの家の主人ではなかった。敵は絶えずそこにいて、彼を恐れさせすべてを封じていた。神経物質の薬の小瓶が続けざまに二つ粉々になって発見された。彼はやむなく自室に立てこもっていた。部屋からは乳鉢の鈍い音が聞こえるばかりで食事の時にも姿を見せなかった。もうクロチルドを往診に連れては行かなかった。彼女の攻撃的な不信の態度が病人たちを挫くからだった。そして外に出れば一刻も早く帰りたいと焦った。帰れば錠が壊され戸棚が荒らされているのではないかと怯えていたからだ。もう若い娘に書類の整理やノートの書き写しを頼めなかった。それらのいくつもが風に飛ばされたかのように無くなってしまったからだ。彼女に校正を任せることもできなかった。彼女がカトリック信仰を傷つけると考えた一節を丸ごと削除してしまったのを知ったからだ。彼女は怠惰に過ごし、部屋の中をうろつきながら戸棚の鍵を手にする機会を窺っていた。それは彼女が手を熱く震わせ目を光らせながら長い沈黙の間に育てていた計画だった。鍵を手に入れ、開き、奪い、破壊し、神に捧げる焚書を遂げること。それが彼女の夢だった。彼が手洗いに、または外套を羽織りに行ったほんのわずかな隙に机の隅に置き忘れていた原稿の数枚は消え、暖炉に一つまみの灰だけが残っていた。ある日、病人のそばに遅くまで留まった黄昏の帰り道、郊外に差しかかった彼は突如として狂おしい恐怖に襲われた。淡い空を汚しながら大きな黒い煙が渦を巻いて立ち昇っていた。書類の焚き火が燃え広がったラ・スレヤードではないのか。彼が走って戻ると隣の畑で切り株の焚き火がゆっくりと煙を上げていた。それを見てやっと胸をなでおろした。
 学者にとって知性と研究をこのように脅かされることは恐ろしい苦しみだ。彼の成し遂げた発見、彼が遺そうとしている論文。それは彼の誇りであり、血であり、子どもたちなのだ。そしてそれらを破壊し焼き払うことは彼の肉を焼くに等しい。彼の知性を絶えず襲う罠の中でとりわけ彼を苦しめていたのは、それでもなお彼女を愛しているということだった。心の奥深くにまで入り込んでいる敵を追い払うことができずに無防備のまま成す術もなく、そもそも実力行使を望まず、ただ警戒して見張ることしかできなかった。あらゆる方角から包囲が狭まってくるようだった。小さな盗人の手がポケットの奥に忍び込むのを感じる気がした。もはや安らぎはなく、戸を閉ざしていてさえ隙間から家を荒らされるのではないかと恐れていた。
「だけど、おまえは」ある日彼は言った。「私は世の中でおまえだけを愛しているのに、私を殺そうとしているのはおまえだ。それでもおまえは私を愛していると言う。だからこそこんなことをするのだろう。だがそれは恐ろしいことだ。いっそ直ぐ終わりにしてしまった方がましだ、二人して石を首にくくりつけて水に身を投げて」
 彼女は言葉を返さず、ただその瞳が熱く語っていた。彼と一緒ならば今すぐ死んでも良いと。
「もし私が今夜突然死んでしまったら明日は何が起こるか。おまえは戸棚を空にし、引き出しを空にし、私の著作をすべて大きな山に積み上げて焼いてしまうのだろう。そうだろう、そうなんだろう? それは本当の殺人に等しい。まるで誰かを暗殺するようなものだ。思想を葬ることのなんと忌まわしく卑劣なことか!」
「違います」と彼女は低く言った。「悪を絶やし、それが再び生まれて広がらないようにするためです」
 結局対話は彼らを怒りへと押し戻し、火に油を注ぐようだった。
ある晩老ルーゴン夫人はそのような口論のひとつに居合わせた。クロチルドが自室へ逃げ込んだあと、パスカルと二人きりで残された。沈黙が訪れた。悲しみの表情を浮かべながらも彼女の瞳の奥底は喜びに輝いていた。
「しかしあなたの不幸な家はまるで地獄ね」と彼女は口を開いた。
 博士は身振りだけで返事をしなかった。彼はいつも若い娘の背後に母の影を感じていた。母は彼女の信仰を煽りその反抗を利用して彼の家を乱そうとしていた。彼は騙されなかった。昼間二人の女が会っていたことをよく知っていた。そして彼女の巧妙に仕組まれた毒が、彼が未だに慄いている、あの恐ろしい場面を招いたのだと分かっていた。おそらく母は被害の様子を確認しに来たのだろう。
「これじゃもうやっていけないと思うわ」と彼女は続けた。「こんなに分かり合えないなら別々に暮らしたほうが良いんじゃないかしら。彼女をマキシムのところへ送ったらどう? 最近また、妹に来て欲しいって手紙が来たわ」
 彼は身を起こし、顔は青ざめていたがはっきりと答えた。
「喧嘩したまま別れるなんて、ああ、だめだ、だめだ。そんなことをしたら永遠に後悔する。癒えない傷になってしまう。いつか彼女が去る日が来るとしても、遠くから愛し合えるよう願う。でも、なぜ今彼女が去らなければいけない? 互いに不満は無いのに」
 フェリシテは急ぎ過ぎたとさとった。
「もちろんあなたが喧嘩が好きというなら誰も口出ししないわ。けれど言わせてもらうと、あなたには悪いけれど、この場合クロチルドに少し理があると思うの。……仕方ない、白状するわ。さっき彼女と話したの。あなたに言わない約束だったのだけれどやっぱり知っていた方がいいと思う。そう、彼女は幸せじゃない。しきりに不平を言っていたわ。私が叱りつけて素直になるよう諭したと思っているでしょう。そのとおりよ。でもね、私はあなたが理解できないわ。あなたはわざわざ不幸になろうとしているとしか思えないわ」
 彼女は彼を部屋の隅に座らせ自分も座った。息子を孤立させ自分の思うままに支配できることに満足しているようだった。このようにしてこれまでに彼女は幾度となく説明を求めてきたが、息子はかわし続けてきた。長年彼女に苦しめられ彼女のことを何も知らないわけではなかったが、彼はなおも従順な息子であり頑なに敬意の態度を崩すまいと誓っていた。だから彼女がその話題に触れるや否や彼は完全な黙秘に逃げた。
「ねえ」彼女は続けた。「クロチルドに折れたくない気持ちは分かるわ。でも私ならどうなの? 私がお願いしたら戸棚の中の忌まわしい書類を始末してもらえるかしら。もしもあなたが突然死んでしまってあの書類が人手に渡ったとしたら私たちはみな名誉を失うのよ。あなただってそんなことは望んでいないでしょう。なぜなの? どうしてこんな危険な遊びにこだわるの? あの書類を燃やすと約束して」
 彼は黙っていたが、ついに答えざるを得なかった。
「お母さん、私はすでにお願いしました。このことについては二度と話さないでください。私はあなたの望みに応えることはできません」
「もういい加減にして!」彼女は声を荒げた。「理由を言いなさいよ。あなたにとって家族はそこを通り過ぎる牛の群れみたいにどうでも良いものなの? 自分だってその一員なのに。分かっているわ、自分の血を否定するためにそういうことをしているんでしょう。私自身時折不思議に思うわ、あなたはいったいどこから来たの。それにしてもあなたのすることはとても酷いわ。自ら晒し者になって私たちを汚すようなまねをして、親の悲しみを顧みてもくれないのだから」
 沈黙を守ろうという意志が自己防衛に屈した。彼は反発した。
「あなたは容赦なさ過ぎるし間違っている。私はいつも真実の必要性とその絶対的な効力を信じてきた。そうだ、私は他人についても自分についてもすべてを語る。すべてを語ることこそ唯一可能な善だと固く信じているからだ。だいたいこれらの書類は公にするためのものではない。個人的な覚え書きだ。だからこそ手放すことは私にとって苦痛だ。それに焼かれるのはあの書類だけではないでしょう。他の仕事もすべて火に投げ込まれるのでしょう。それこそ私が絶対に許さないことだ。分かりますか! 私が生きている限り一行たりとも触れさせはしません!」
 しかし、すでに彼は多くを語り過ぎたことを後悔した。彼女が迫り、追い詰め、厳しい釈明へと引きずり込もうとしているのを感じたからだ。
「じゃあ最後まで言いなさい。あなたが私たちに何を突きつけているのか言ってみなさい。そう、例えば私に何を突きつけているのか。あなたたちを苦労して育てたことなんかじゃない。ああ、財産を手に入れるまでには長くかかったのよ。もし今私たちが少しでも幸せだとすれば、それは苦難の末に勝ち取ったものなのよ。私たち家族は他人から受けた以上に他人に与えてきたのよ。あなたはすべてを見て書類に残しているのだから知っているでしょう。私たちがいなければプラッサンは二度にわたってひどい窮地に陥っていたわ。それも自然なことだけれど、私たちが得たものは恩知らずと妬みばかり。今だって私たちの醜聞を町全体が喜ぶに決まっているんだから。あなただってそれを望むはずはない。帝国の崩壊以来、きっとフランスが二度と立ち直れない不幸の中で私がいかに尊厳を保ってきたか、あなたは良く分かっているはず」
「フランスのことはやめてください、お母さん」と彼は再び口を開いた。彼女が彼の敏感なところを心得ていてそれを突いてきたからだ。「フランスはしぶとい。今や驚くべき速さで立ち直り世界を驚かせている。確かに腐敗の要素はたくさんある。私はそれらを隠しはしない。むしろさらけ出し過ぎたのかもしれない。しかし傷やひび割れを示したからといって私が最終的な崩壊を信じていると思うのは誤りだ。あなたは私の言うことを全然聞いていない。私は生命を信じている。生命は絶えず有害なものを取り除き、傷を塞ぐために新たな肉を作り、穢れと死の中にあってもなお健康へ、絶え間ない再生へと歩み続ける」
 彼は興奮していた。そしてそれを自覚して苛立ち、以降沈黙した。母は泣く事を選んだ。少しだけ涙が出たがすぐに乾いた。そして老いを曇らせている不安に再び戻り、せめて家族への思いやりからでも神と和解して欲しいと懇願した。振り返れば彼女の人生は勇気の手本を示したのではなかったか。サン=マルク地区、旧市街、新市街、プラッサン全体が彼女の誇り高き諦念に敬意を払っていたではないか。子どもたちに自分の思いに共感して欲しいと助けを求めているだけではないか。彼女はウージェーヌを引き合いに出した。高い地位から転落した偉大な人物が一介の代議士となることを受け容れ最後まで自らに栄光を与えた。倒れた政府を擁護し続けたのだ。彼女はまたアリスティドを称賛した。彼は決して絶望しなかった。かつて彼を襲った不当な大惨事、万国銀行の破綻にもかかわらず、新しい体制のもとで立派な地位を取り戻した。そして残っているのはパスカル一人だけ。聡明で、柔和で、善良な彼だけが何一つしていない。最終的なルーゴン家の勝利の喜びに包まれて安らかにこの世を去りたい。そういう彼女の望みに無頓着なのだ。彼が次の日曜日にはミサに行く。彼女を病ませる忌まわしい書類を焼き捨てる。それはあり得ないことだった。彼女は懇願し、命令し、脅した。しかし彼はもはや答えず、静かな敬意の態度を崩さなかった。彼は議論を望まなかった。彼女のことをあまりにもよく知っていたので、説得を望むことも過去について議論することも敢えてしなかった。
「なによ!」と彼女は叫んだ。彼が動じないのを見て言った「あなたは私たちの家の者じゃない! 私はいつもそう言ってきた。あなたは私たちに恥をかかせているのよ!」
 彼は頭を下げた。
「お母さん。きっといつか思い直して私を許してくださるでしょう」
 その日フェリシテは勝手口のプラタナスの前でマルティーヌに出会うと、思いの丈を吐き出した。丁度その時、自室にいたパスカルが開いた窓からすべてを聞いていたことは知らなかった。息子が自ら進んでする気がない以上、どうしてもその書類を手に入れて破棄すると憤怒と共に彼女は誓った。しかし博士を凍りつかせたのはマルティーヌが抑えた声で母をなだめていたことだった。彼女は明らかに共犯者だった。彼女は待たねばならない、事を急いではならないと繰り返した。お嬢様と自分は先生を屈服させると誓い合い一刻の安らぎも与えないと決めていると言った。彼を必ずや神と和解させる。なぜなら聖人のような彼が宗教を持たずにいることはあり得ないから。そして二人の女の声は小さくなり押し殺された陰謀のささやきへと変わった。彼に聞き取れたのは断片的な言葉、下される命令、取るべき処置。それらは彼の自由な人格を侵すものばかりだった。母が立ち去った時、彼の目に映ったのは少女のように細い体つきと軽やかな歩みで満足そうに遠ざかっていく後ろ姿だった。
 パスカルは絶望し自失に陥ってしまった。彼に逆らい敵対しているのは彼の愛するものすべてだった。ここに闘うことの意味があるのか。マルティーヌは彼の言葉ひとつで火中に飛び込むほどの女であったのに今は彼を裏切っている。それも彼のためだと称して。そしてクロチルドはその女中と結託して隅で陰謀をめぐらし罠を仕掛けるのを手伝わせている。今や彼はまったく孤独だった。周りには裏切り者しかおらず、呼吸する空気さえ毒されていた。それでも彼女たち二人は彼を愛している。もしかすると二人を懐柔することはできたかもしれない。しかし背後に母がいると知って、もう二人を取り戻せるとは望まなくなった。学問に生きた彼はその情熱にもかかわらず女に縁遠い内気な男だった。その彼を三人の女が求め自分たちの意志に屈服させようとしている。その考えが彼を打ちのめしていた。いつも背後に彼女たちの気配があった。部屋に閉じこもってさえ壁の向こうに彼女たちを感じた。彼女たちに取り憑かれ絶えず恐怖していた。思考がまだ言葉になる前に頭の中から盗まれてしまうのではないかとすら恐れた。
 それはまさしくパスカルが生涯で最も不幸な時だった。常に防御の姿勢で生活することが彼を疲弊させた。そして時折家の床が足元から消えて無くなるように思われた。結婚せず子を持たなかったことを後悔した。彼自身人生に怯えていたのだろうか。自己中心の報いを受けているのではないだろうか。子を持たなかった悔いは、時折彼を苛んだ。今では道で澄んだ眼差しの少女たちに微笑みかけられると目に涙が浮かぶのだった。確かにクロチルドはいる。しかしそれは嵐に攪乱された愛情であり、柔和で穏やかな子どもの愛情ではなかった。彼は愛情の中で痛む心を休めたかった。そして自己の終焉をさとりながら望んだのは、何よりも彼を受け継ぐ子だった。苦しめば苦しむほどその苦しみを遺すことに慰めを見いだした。それは彼の生命への信仰だった。自分自身は家系の生理的な欠陥から免れている。しかし遺伝が世代を飛び越え、生まれる子に再び障害が現れることもあり得る。それでも、古い朽ちた血統、忌まわしい親族の系譜にもかかわらず彼は子を望んだ。それは人生を癒し満たす稀な幸福、奇跡的な幸運への願いだった。他の愛情が崩れ行く中で彼の心は傷つき血を流していた。すでに手遅れだった。
 ある九月末の重苦しい夜、パスカルは眠ることができなかった。彼は自室の窓を開けた。空は黒く、遠くを嵐が通り過ぎているらしく絶え間ない雷鳴が響いていた。プラタナスの暗い塊ははっきりとは見分けられなかった。ただ時折稲光の反射がそれを陰鬱な緑に切り離し、闇の中に浮かび上がらせていた。彼の心は苦悩に満ちていた。これまでの不幸な日々が思い起こされた。絶えない口論、裏切りの責め苦、日に日に募る疑念……。その時ふとした記憶が彼をはっとさせた。彼は戸棚の鍵を常に身につけていた。しかしその日の午後、暑さに耐えかねて彼は上着を脱いだ。そしてクロチルドがそれを広間のフックに掛けたのを思い出したのだった。恐怖が彼を走り抜けた。もし彼女がポケットの底の鍵に触れたならそれを盗むに違いない。椅子に投げ出されていた上着に慌てて駆け寄りポケットを探った。鍵は無かった。まさにその瞬間、自分は略奪されているのだとはっきりさとった。午前二時の鐘が鳴った。寝間着の胸を乱れたままに着替えもせず、ズボンと素足にスリッパだけを履き、燭台を手に広間へ飛び込んだ。
「ああ! 分かってたぞ」と彼は叫んだ。「泥棒! 人殺しめ!」
 彼と同じように服も着ないでクロチルドはそこにいた。素足にスリッパ、裸の脚、裸の腕、裸の肩。短いペチコートとシャツにわずかに覆われているだけだった。用心のため彼女は蝋燭を持たず窓の鎧戸を開けるだけに留めていた。南の空を渡る嵐の絶え間ない稲光が物を蒼白に染めていた。彼女にはそれで足りた。古びた戸棚は幅広い横腹を見せて扉を大きく開け放っていた。彼女はすでに上段を空にしていた。書類の束を両腕いっぱいに抱え、中央の長いテーブルへ投げ出し乱雑に積み上げていた。燃やす時間がないかもしれないという恐れから無我夢中で書類を束ねていた。隠しておいて後で祖母へ送ろうと考えたのだった。その時突然蝋燭の光が彼女の全身を照らし出したのだった。驚きと抵抗の姿勢のまま彼女は凍りついた。
「おまえは奪い、私を殺すのだ!」とパスカルは怒り狂って繰り返した。
 彼女はむき出しの腕に抱えて書類の束をまだ一つ持っていた。彼はそれを奪い返そうとした。しかし彼女は全力で抱え込み破壊の仕事に対する執念を見せた。正義が自らにあると信じる、迷いも悔いも無い戦士のようだった。彼は取り乱し闇雲に彼女に襲い掛かった。二人はもみ合いになった。彼は彼女の裸の身体を乱暴に抱いて押さえつけた。
「さあ、殺しなさいよ」と彼女は喘いだ。「私を殺さないと全部破り捨てるわ」
 しかし彼があまりに強く締めつけたので彼女はもう息ができなかった。
「子どもが盗めば罰せられるのだ!」
 脇の下のあたり、丸みを帯びた肩に沿って血がついていた。その絹のように柔らかな肌に擦り傷が滲んでいた。そして一瞬彼は、息を切らしている乙女の伸びやかな身体の神々しさを意識した。しなやかな脚、柔らかな腕、細い胴、そして小さく引き締まった胸元を備えたその姿に思わず手を放した。そして最後に彼女から書類の束をもぎ取った。
「さあ、おまえはこれを上に戻すのを手伝うんだ。こっちへ来い。まずはテーブルの上に並べろ。命令に従え、聞いているのか!」
「はい、先生」
 彼女は言われたとおりに彼を手伝った。まるで男の抱擁が彼女の肉体にまで侵入したかのように、その力に屈してしまった。重苦しい夜、蝋燭が高い炎を上げながら二人を照らしていた。遠くの雷鳴は途切れず、嵐に向かって開かれた窓は燃えているかのように見えた。

続きはamazonでお買い求めください。



いいなと思ったら応援しよう!