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夢 3 エミール・ゾラ

 その年の聖霊降臨祭の翌月曜日、ユベール夫妻はアンジェリックを連れてリニュエル川を十キロ下ったオートクール城跡へ出かけた。一日じゅう走り回り笑い転げたアンジェリックは、次の朝時計が七時を打ってもまだ眠っていた。
 ユベルティーヌは二階へ上がり、娘を起こさなければならなかった。
「いつまで寝ているの? 私たちはもう朝食を済ませたわよ」
 アンジェリックは慌てて降りて来て、一人で朝食を取った。
それから彼女が工房に入ったとき、ユベールと妻は仕事に取りかかったところだった。
「ああ、良く寝た。そうだ、日曜までに仕上げなきゃいけないカズラ(訳者注:一番上に着るポンチョ状の祭服)があったんだけ!」
庭に面した広い工房は、ほとんど建てた当時のままだった。天井は二本の大梁と三つの小梁がむき出しのまま、煤けて虫に食われていた、漆喰の割れ目からは下地の板が見えていた。石の梁受けに刻まれた「1463」の数字は、この家が建てられた年だった。暖炉も同じく石造りだった。割れて継ぎ目がずれてはいたが、細く伸びる側柱とその支え、コーニスのある上部の飾り、冠状の装飾を施した煙突は優雅な趣だった。さらに、上部の飾りの彫刻には刺繍職人の守護聖人クレアが見分けられた。しかし、この暖炉はもう使われてはいなかった。炉は板を渡して棚に作り変えられ、そこには図案が積み重なっていた。そして部屋を暖めていたのは鋳鉄のストーブだった。釣鐘形の胴体から煙突が天井伝いに伸び、暖炉の煙突を突き破って外へ出ていた。がたつく扉はルイ十四世時代のものだった。床板の寄木は腐りかけて、ところどころ新しい板に置き換えられていた。黄色い壁は百年前と変わらず、上は色褪せ、下はひび割れ、硝石の染みで汚れていた(訳者注:古い土壁に硝石が染み出すのは、日本の気候では起こらないヨーロッパ特有の現象)。毎年のように塗り直す話は出るが、いつも後回しになっていた。
 カズラを広げた作業台で仕事をしていたユベルティーヌは、頭を上げて言った。
「覚えてる? 日曜日までにできたら、庭に植えるパンジーを買ってあげるわよ」
アンジェリックは陽気な声をあげた。
「あ、そうだった、すぐ始めるわ! でも、指ぬきはどこ? 仕事しないと、すぐ何処かへ行っちゃうのよね」
 彼女は使い込まれた象牙の指ぬきを小指の第二関節に通し、作業台の向こう側、窓に面した場所に腰を下ろした。
前世紀の半ば以来、この工房は何一つ手を加えられていなかった。流行は移り、技法も変わったが、壁に固定された刺繍枠の一端を支える木片ションラットと、もう一方の端を支える可動式架台トレトーは変わらなかった。部屋の隅にはアンティークな道具が置いてあった。ディリジャンは、金糸を手で触れずに巻棒に巻きつけることができる、歯車と案内棒が付いた道具。手回しの糸車は、壁に取り付けて、糸を撚るために使う。タフタを張った大小さまざまな木の輪は、かぎ針刺繍用の刺繍枠。棚板にはスパンコールを打ち抜くための抜き型が並び、昔の刺繍職人が使った銅の大きな燭台もあった。釘で打ちつけた革の輪っかには、ポンチ、木槌、金槌、仔牛皮を切るカッター、そして糸を押さえて整えるための黄楊のヘラが吊るされていた。カッティングに使う菩提樹の台の下には、大きな糸巻き器があり、回転する柳の腕木に赤い毛糸が張られていた。箪笥の側には、紐に通された色とりどりの絹糸のボビンが下がっていた。空のボビンの入った籠が床に置かれ、椅子から転がり落ちた紐の玉がほどけていた。
「ああ、良い天気!」とアンジェリックは言った。「生きているって良いわ」
 開け放たれた窓から輝くような五月の朝が流れ込んでいた。アンジェリックは仕事にとりかかる前に、しばらく佇んでいた。大聖堂の屋根裏から一筋の陽が差し、司教館の庭からはライラックの香りが流れて来た。彼女はすっかり春に包まれて、うっとりと微笑していた。それから急に目覚めたように言った。
「お父さん、金糸がもうないわ」
 ケープに図案を写し終えたユベールは、箪笥から一かせの金糸を取り出し、その両端を切って、金箔を少しこすり落とした。そして羊皮紙に包んだまま持って来た。
「これで良いか?」
「はい」
娘は一瞥ですべてを確認した。赤、緑、青の金糸を巻いた糸巻き棒。様々な色の絹糸のボビン。スパンコール、金のビーズ、螺旋のビーズが帽子を容れ物にして。長針、ピンセット、指ぬき、はさみ、ワックス。それらすべてが作業台の上、もしくは張られた布上の保護紙の上に細々と置かれていた。彼女は金糸を留め付け始めた。しかし最初の一針で糸が切れてしまった。彼女はまた端を切り、こすり落とした金箔を作業台の小箱に入れた。
「ああ、やっとだわ」最初の一針を刺し終えると彼女は言った。
無言の時間が流れた。ユベールは刺繍枠を張る作業を始めた。ユベルティーヌが縁布に縫いつけた深紅の絹地を糸目がまっすぐ通るよう、二本の枠木をションラットとトレトーに据えた。そして薄い板を枠木のほぞに差し込み、四本の釘で固定した。それから左右の張り具合を調整したのち、釘を少しずつ緩めて枠張りを仕上げた。張られた布を指先で弾くと太鼓のように響いた。
アンジェリックは優秀な刺繍職人だった。その器用さとセンスの良さにはユベール夫妻も驚くばかりだった。彼らから教わった以上の情熱が彼女にはあった。その情熱は花々に命を、図像に信心を吹き込んだ。尽きない想像力と固い信仰が、どんな小さな装飾にも感じられた。彼女の刺繍のいくつかは、ボーモン教区に衝撃をもたらすほどだった。ある考古学者の司祭、または絵画愛好家の司祭が彼女を訪ねて来た。そして聖母像に見入りながら、中世初期の素朴派に通ずると賞賛した。そこには同じ純朴さと信仰があった。さらに、それらは緻密な仕上がりによって一つの完成形へと高められていた。
彼女には天賦の才があった。教わったわけでもないのに、しばしば手本を修正し、思うがまま針の先から創造するのだった。まさに奇跡だった。ゆえにユベール夫妻は、良い刺繍職人には学問が不可欠だと言いながらも、彼女を認めざるを得なかった。こうしてユベール夫妻は、この道での長年の経験にもかかわらず、重要な仕事はすべて彼女に任せ、自分たちは補助に徹するようになった。
 一年を通して多くの輝かしい驚異が彼女の手から生み出されていった。絹、サテン、ビロード、金の布、銀の布。彼女はいつもそれらに囲まれて、カズラ、ストール、小帯、ケープ、助祭服、冠、旗、聖杯や聖体容器のヴェールを刺繍していた。とりわけカズラの注文は、常に回って来ていた。告解と処女の白、使徒と殉教の赤、死と断食の黒、幼子たちの紫、あらゆる祝祭のための緑。金色は白、赤、緑の代替として頻繁に使われた。十字架の中央には、いつも同じ象徴が置かれていた。イエスとマリアのモノグラム、光線を背景にした三角形、子羊、ペリカン、鳩、聖杯、聖体顕示台、そして茨に傷つけられ血を流す心臓。十字架の周囲には、装飾と花々が広がっていた。装飾はすべて古い様式。花々は大輪のアネモネ、チューリップ、牡丹、ザクロ、アジサイ。麦穂と葡萄のシンボルは、黒地には銀糸、赤地には金糸で頻繁に刺繍された。とくに豪華なカズラのときには聖人たちの頭部を、そして中央には受胎告知、降誕、受難の場面を絶妙な色調で刺繍した。直に飾縁を刺繍することもあれば、刺繍した絹やサテンの帯を金のブロケードやベルベットに縫い付けることもある。このように、聖なる輝きは彼女の細い指から一つ一つ花開くのだった。
 今アンジェリックが取り組んでいる白いサテンのカズラは、金の百合の束の十字架に、多色の絹糸で刺した鮮やかな薔薇が絡みつく意匠だった。十字架の中央の金の小さな薔薇の花冠の中に、マリアのモノグラムが赤と緑の金に輝く壮麗なものだった。
彼女が薔薇の花冠を裏から仕上げているあいだ、言葉は一つもなかった。しかし、針に通した糸がまた切れ、手探りで糸を通し直すと頭を上げた。そして窓から流れ込む春を吸い込むように深呼吸をした。
「ああ」と彼女はつぶやいた。「昨日は天気が良くて良かったな。やっぱり、お日様って良いな」
 ユベルティーヌは糸にワックスをかけながら首を振った。
「私はもう、くたくた。手に力が入らないわ。あなたみたいな十六歳の娘とは違うし、外にもめったに出ないからしょうがないけれど」
アンジェリックはすぐに仕事に戻った。彼女は百合の準備を始めた。立体感を出すための仔牛皮の小片を印に沿って縫い付けた。
「春の太陽は、頭をぼうっとさせるのさ」とユベールが言った。彼は枠を張り終え、ケープの図案を絹の上に写し取る作業に入っていた。
 アンジェリックは飛梁から差す光の筋を夢見るように眺めた。そして静かに言った。
「ちがうのよ、お父さん。私はすっきりしたの、空気がさわやかだから」
 彼女は薔薇の花冠を仕上げ、大きな薔薇の一つに取りかかった。絹糸を通した針を色の数だけ用意し、花弁の形に沿って割り縫いと返し縫いで刺していった。そして、繊細な仕事にもかかわらず、手を動かしながら話し始めた。黙って仕事をしていた時によみがえっていた前日の思い出が、口を開くと止まらなかった。出発のこと、広々とした田園のこと、オートクール城跡での昼食のこと。柳の間を流れるリニョル川を遥かに見下ろすオートクールの崩れた城壁。その廃墟の印象が彼女の心に強く残っていた。茨の中に散らばる残骸は、かつて二つの谷を支配したこの巨人の大きさを物語っていた。高さ六十メートルの主塔。天辺は失われ亀裂も入っていたが、それでもなお厚さ五メートルの基礎の上にしっかりと立っていた。カール大帝とダビデと名付けられた二つの塔も残っていた。塔を繋ぐ城壁もほとんど無傷だった。内部には礼拝堂、法廷の間など、いくつかの部屋が残っていた。現代では考えられないほど巨大な尺度で造られた階段の段、窓の腰壁、テラスの腰掛けは、まるで巨人のためのもののようだった。城は堅固な都市だった。五百人の兵の籠城を三十か月支えるほど、弾薬も食糧も尽きなかった。二百年のあいだに野ばらが部屋の煉瓦を崩し、落ちた天井のがれきにライラックやエニシダが花を咲かせ、衛兵の間の暖炉には一本のプラタナスが育っていた。しかし夕日の沈むころ、主塔は十キロもの影を畑に伸ばし、巨大な城塞が夕霧の中に浮かび上がる。かつてフランスの王たちを震え上がらせた威容がよみがえるのだった。                                               
「それにあそこは夜になると幽霊が出るのよ」とアンジェリックは続けた。「誰もいないのに色んな音が聞こえて、四方から怪物がこっちを見ているの。そう、昨日帰り際に振り返ったら、城壁の上に大きな白い影がひらひら舞っているのが見えたわ。そうよね、お母さん? お母さんは、お城の歴史を知っているんでしょう?」
 ユベルティーヌは穏やかに微笑んだ。
「まあ、幽霊なんていないわよ」
しかし、城の歴史は本を読んで良く知っていた。娘がしきりに訊いてくるので、また話してやった。
 その領地は、聖レミギウスがクローヴィス一世(訳者注:フランスの前身フランク王国創始者。ノートルダム大聖堂においてレミギウスから洗礼を受けたとされる)から授かって以来、ランス大司教の支配下にあった。十世紀の初め、ノルマン人がリニョル川の支流オワーズ川から遡って来るのに備えて、ランス大司教セヴランがオートクールに要塞を築かせた。その次の世紀に、後継の大司教がノルマンディ家の次男ノルベールにオートクールを与えた。その条件は、地租として六十スーの葡萄の木一本を納めること、そしてボーモンの町と教会の独立を守ることだった。こうしてノルベール一世はオートクール家の祖となり、その時以来、名門の家は歴史に広く知られるようになった。エルヴェ四世は、教会財産の略取の罪で二度破門された。街道を荒らす盗賊となり、ある時には自らの手で三十人の市民を虐殺した。ついには王国に戦いを挑む暴挙に出たが、ルイ一六世によって討伐され塔は破壊された。ラウル一世はフィリップ二世とともに十字軍に参加した、そしてアッコ(訳者注:十字軍とイスラム教徒が争奪戦を繰り広げた現イスラエルの都市)の城壁前で胸を槍に貫かれて死んだ。しかし最も高名な当主はジャン五世だった。一二二五年に要塞を再建し、わずか五年足らずで恐るべきオートクール城を築いた。彼はこの城をよりどころに、一時はフランス王位を夢見たほどだった。そして二十の戦場を生き延び、最後はスコットランド王の義兄としてベッドの上で死んだ。それからでエルサレムへ巡礼したフェリシアン三世。スコットランド王位への権利を主張したエルヴェ七世。その後も世紀を通して、力強く高貴な者たちが続き、最後にはマザランの治世下に城の陥落を見届けるジャン九世へと至った。最後の包囲戦ののち塔は爆破され、建物は焼き払われた。そこにはかつてシャルル六世(訳者注:精神疾患があった)が狂気を紛らわせに訪れ、二百年後にはアンリ四世がガブリエル・デストレ(訳者注:アンリ四世の愛妾)と八日間滞在した。これらすべての王たちの記憶は夏草の中に眠っていた。
 アンジェリックは針を動かし続けながらも熱心に聞き入っていた。刺繍枠上に生まれつつある薔薇の色彩から、過去の幻想が命を帯びて立ち上るかのように思われた。歴史に無知な彼女にとっては、驚くべき伝説の物語を聞いているようだった。彼女の思い描く物語は信仰と混ざり合っていた。再建された城は天の門へとそびえ立つように、オートクール家の血筋は聖母のものであるかのように思われた。
「そう言えば」と彼女は訊いた。「新しい司教様は、オートクール家の子孫なの?」
ユベルティーヌは「遠い親戚だと思う、本家の血筋は途絶えているから」と答えた。それは奇妙な皮肉だった。何世紀ものあいだ、オートクール家とボーモンの聖職者たちは敵対していたのだから。一一五〇年ごろ、一人の修道院長が修道会の資金だけを頼りに教会の建設に着手した。まもなく資金は不足し、建築は側廊(訳者注:身廊の両側。身廊よりも一段低い)の高さまでで中断した、身廊は木の屋根で覆うほかなかった。八十年が過ぎジャン五世が城を再建したころ、彼は三十万フランを寄進した。そのほかの資金も合わさり、教会の建設は再開した。身廊は完成した。しかし二つの塔と正面が完成したのは、ずっと後、十五世紀の一四三〇年ごろだった。ジャン五世の惜しみない寄進に報いるため、聖職者たちは彼とその子孫に、後陣の聖ゲオルギウス礼拝堂への埋葬権を与えた。その礼拝堂は以来『オートクール礼拝堂』と呼ばれるようになった。しかし良好な関係は長くは続かなかった。城はボーモンの自由を絶えず脅かし、税や優先権をめぐって度々対立した。とりわけリニュエル川航行の通行税については長く争った。というのも、下町が高級布地の生産工場により繁栄し始めた時期だったからだ。その頃からボーモンは日ごとに栄え、逆にオートクール家は衰えていった。そしてついには教会が勝利し、城は壊された。ルイ十四世はこの教会を司教座聖堂(訳者注:教区の中心となる教会)と定め、旧修道院の土地に司教館が建てられた。そして今、偶然にもオートクール家の一人が司教として戻ってきた。四百年の争いの末に彼の祖先を打ち負かした、なお健在な聖職者の集団を率いることになったのだ。
「でも」とアンジェリックは言った。「司教様は結婚なさっているのでしょう。二十歳になる息子さんがいるのよね?」
 ユベルティーヌはハサミを手に、仔牛皮の小片を整えていた。
「ええ、そうよ。コルニーユ神父が話してくださったわ。ああ、とても悲しいお話よ……」シャルル十世の時代、二十一歳の司教は大尉だった。そして一八三〇年に二十四歳で退役した。それから四十歳になるまで旅や冒険、決闘、と奔放に生きていた。しかしある晩、田舎の友人の家で彼はヴァランセ伯爵嬢パウルと出会った。十九歳になったばかりの彼女は非常に裕福で、奇跡のように美しかった。彼より二十二歳年下だった。彼の恋は激しく、彼女も彼を慕ったので結婚はすぐに決まった。彼はオートクール城の廃墟をただ同然の一万フランで買い戻した。修復して妻と一緒に住むつもりでいた。九か月のあいだ二人はアンジューの古い邸宅に閉じこもり、誰にも会わずに二人だけの生活を送っていた。それでも時間が足りないと思えるほど二人は幸福だった。パウルは男の子を産み、そして死んだ。
 ポンセット(訳者注:フェルトの小さな筒状の道具。粉を染ませて図案をなぞり布に転写する)で図案をなぞっていたユベールは、顔を上げた。その顔はひどく青ざめていた。
「ああ、それはお気の毒に」と彼はつぶやいた。
「死ぬほど悲しんだそうよ」とユベルティーヌは続けた。「それで一週間後、聖職に入られたんだって。それから二十年経って、今は司教なのよ」人の伝える話では、彼は二十年間、息子に会っていないという。母の命を奪った子を見たくなかったのだ。その子を母方の伯父である老司祭の家に預け、その後様子を尋ねることもなかった。子の存在を忘れようと努めているかのようだった。ある日、息子の肖像画が送られてきた。彼はその絵に亡き妻の姿を見た。人が駆けつけたとき、彼は頭を殴られたかのように床に伏し硬直していた。それでも年月と祈りが悲しみを癒したのかもしれない。「昨日、コルニーユ神父がおしゃっていたわ。司教様は、ついに息子さんを呼び寄せたそうよ」
アンジェリックの刺した薔薇は瑞々しく仕上がった。まるでサテンから香りが立ちのぼるようだった。彼女は夢見るようなまなざしで陽の差す窓の外を眺めた。彼女は小声で言った。
「司教様の息子さんか……」
 そしてユベルティーヌは締めくくりに言った。
「息子さんは、とても美男だそうよ。神様みたいだって。お父さんは息子さんを司祭にしたいのよ。だけど、司祭の伯父さんが、彼は聖職に向いていないって反対なの。それと、とてもお金持ちなのよ。お母様が遺した五百万フランをパリの土地に投資していれば、今ごろ五千万フラン以上になっているはずだって。つまり、王様みたいにお金持ちなのよ」
「……王様のようにお金持ちで、神様のように美しい」とアンジェリックは夢見るように繰り返した。
 彼女は無意識のまま金糸のかぎ針を取り、大きな百合の浮き彫り刺繍を始めた。かぎ針の口先から糸を引き出し、絹糸の一刺しで、厚みのある仔牛皮の縁ぎりぎりに留めた。そして作業を続けながらまた言った。言葉に成りきらない憧れが、心の中をうごめいていた。
「ああ、いいな。私の望みなのかも……」
 静けさが戻った。教会から聞こえてくる聖歌だけが小さく聞こえていた。ユベールはポンチの穴の点線を筆でなぞっていた。こうして装飾模様がケープの赤い絹地の上に白く浮かび上がった。再び話し始めたのは彼だった。
「昔の時代は本当に凄かった。領主たちは刺繍でぎっしり固くなった服を着ていた。リヨンじゃ刺繍した布は一メートル、六百フランしていたんだ。刺繍職人の布告を読めば驚くよ。『王の刺繍職人は、武力で他の工房の女職人を奪う権利がある』そう書かれているんだ。それに我々には紋章があった。青地に金の輝く帯、その両側に同じく金の百合が三つ、上に二つ、下に一つ……。ああ、本当に昔は凄かった」
 彼は話を区切り、枠を指で軽く弾いて埃を払った。それから続けた。
「ボーモンには、今も語り継がれているオートクール家の伝説があるよ。子どものころ母からよく聞いた。ペストで住民の半分がやられたとき、城を再建したジャン五世は、神から災厄と闘う力を授けられたと知った。そこで病人たちのもとへ行き、ひざまずいて彼らに口づけしながら言った。『神の望みを私は望む』病人たちは良くなった。だから、この言葉はオートクール家の家訓になった。その時以来、彼らは皆、病気を治す力があるんだ。ペストの奇跡……。ああ、立派な人たちだ。司教様は聖職に就く前はジャン十二世だったし、息子さんの名前もプリンスみたいに数字がつくんだろうな、きっと」
 一つひとつ言葉が、アンジェリックの夢見る心をゆりかごのように優しく揺らしていた。彼女は歌うような声で繰り返した。
「ああ、それは私の望みかもしれない」
 彼女はかぎ針を使って右から左へと仔牛皮の上に金糸を渡し、そのたびに絹糸の一刺しでそれを留めていった。金色の大きな百合が少しずつ花開いていた。
「ああ、きっと私の望みは、王子様と結婚することだわ。まだ会ったこともない王子様が、ある夕暮れに私の手を取り宮殿へ連れて行く。そして彼はとても美しくてお金持ちで、そう、世界で一番美しくてお金持ちの人。窓の下で馬がいなないて、彼が来る。膝の上に宝石が流れて、手を開けば金が両手から降り注ぐ。そして私の夢は、王子様が狂おしいほどに私を愛してくれること。私も狂ったように彼を愛する。私たちはいつまでも若く、純粋で、気高く、いつまでも……」
 ユベールは仕事を中断し、笑いながら近づいてきた。ユベルティーヌは指を軽く振って娘をたしなめた。
「まあ、随分と欲張りね。またお姫様が始まったの? でもこんな夢くらいなら、砂糖を盗んだり生意気な口をきいたりするよりはずっとましだわ。でもね、そういう愛と誇りには悪魔が潜んでいるのよ」
 アンジェリックは明るい顔をしていた。
「どうしてお母さん? 美しいもの、豊かなものを愛してはいけないの? 私は美しいから、豊かだから好きなの。だって、なんだか胸があたたかくなる気がするから。欲じゃないわ。ああ、お金! もしも沢山お金があったなら、私がどうするか知ってるでしょ? それは雨のように町に降り、貧しい人たちの家に流れ込むわ。本当の祝福よ、もう不幸せな人はいなくなるわ! でも先ずはお父さんとお母さんよ。昔の貴婦人や領主みたいにブロケードの服を着せてあげるわ」
 ユベルティーヌは肩をすくめた。
「何を言ってるの、うちは貧しいのよ。結婚のときに一銭だって持っていけないんだから。王子様なんて身分じゃないでしょうに。あなたは自分よりずっと裕福な男の人と結婚するつもりなわけ?」
「そうよ、どうして?」
彼女はとても驚いたような顔をしていた。
「私はそういう人と結婚するわ。だって、その人がお金持ちなら私にお金がなくたって良いじゃない? 全部その人に頼るんだから、私はもっと深くその人を愛するわ」
 この屈託のない考えは、ユベールと相性が良かった。彼は子どもと一緒に夢の翼に乗ってしまうのが常だった。だから言った。
「うん、そのとおりだ」
 しかし、妻は不服そうに彼を見た。そして厳しい態度になった。
「アンジェリック、あなたは人生を知らないのよ。今に分かるわ」
「人生なら知ってるわ」
「随分簡単に言うわね。あなたは若過ぎるから悪を知らないのよ。悪はそう簡単には打ち負かせないものよ」
「悪、悪……」
 アンジェリックは言葉の意味をつかもうとするようにゆっくりと繰り返した。そして、その無垢な瞳に無邪気な光が輝いた。彼女は『黄金伝説』で悪を良く知っていた。悪とは悪魔のことだ。悪魔は常に甦りながらも、常に負かされる。戦いの度に悪魔は破れ、哀れな姿をさらす。
「ああ、悪。そんなの全然怖くないわ、お母さん。自分に打ち克ちさえすれば、人は幸せに生きられるのよ」
 ユベルティーヌは心配そうに眉根をよせた。
「あなたを私たち二人だけの家で育てたのは、間違えだったかもしれないわ。こんなに世間知らずだなんて。どんな夢を見ているんだか。いったい世の中を何だと思っているの?」
 娘は途切れぬ動きでかぎ針を操り、身をかがめながらも、その顔は希望に輝いていたた。
「それじゃお母さんは私がそんなに愚かだっていうの? 世の中は善い人たちでいっぱいよ。いつだって真面目に働けば報われるのよ。もちろん少しは悪い人もいるけれど、そんなの関係ないわ。そんな人と付き合いもしないし、だいたい、そういう人たちはすぐに罰が当たるわ。それにお母さん、世の中は遠くから見れば大きな庭みたいなものよ。そう、果てしない楽園よ、花と陽の光でいっぱいの。生きているって、こんなに気持ち良くて、人生はこんなにも優しくて、だから悪いはずなんてないのよ」
 興奮した彼女は絹や金糸の輝きに酔っているかのようだった。
「幸せなんて簡単なことよ、お母さん。私たちは幸せでしょ。だって互いに愛しているから。ほら、難しくないじゃない? だから、その人が来るときは、お母さん見ていてね。私たちはすぐに分かり合えるわ。その人を見たことはないけれど、どんな人かは分かっているの。彼は言うわ、『迎えに来たよ』私も言うの『待っていたの、連れて行って』それで決まり、永遠に。私たちは宮殿へ行って、ダイヤで飾られた黄金のベッドに眠るの。ほらね、とっても簡単なことじゃない?」
「もう止めなさい! あなたは頭がおかしいわ」ユベルティーヌは厳しく遮った。
 そして、まだ興奮が治まらない娘を見て繰り返した
「もう止めて。あなたを見ていると心配になるわ。可哀想に……私たちがあなたをどこかの貧乏人と結婚させる時には、あなたは夢から覚めて地面に墜落するわ。私たちみたいな境遇の者は、へりくだって従わなければ幸せにはなれないのよ」
 アンジェリックには微塵もこたえず、微笑み続けていた。
「私は待つわ。そして、彼はきっと来るわ」
「うん、そのとおりだ!」とユベールは声を上げた。彼もまた、熱に浮かされているようだった。「どうしてアンジェリックを叱るんだい? この子は王様だって欲しがるほど美人なんだから、何だって起こり得るさ」
 ユベルティーヌは悲しげに、その賢く美しい目で夫を見た。
「煽るのは止めてよ。心の思うままに従ったらどれほどの代償を払うことになるのか、あなたが一番良く知っているでしょうに」
 彼はひどく青ざめ、まぶたの縁に涙が浮かんだ。彼女はすぐに、言ってしまったことを後悔し、立ち上がって彼の手を取ろうとした。しかし彼は手を振りほどき、声を詰まらせながら言った。
「いやいや、私が悪かった。アンジェリック、お母さんの言うことを良く聞きなさい。私たち二人は愚かだ。賢いのはお母さんだけだ。私が悪かった。悪いのは私だ……」
 彼はあまりに動揺したために落ち着いて座ることができなかった。張ったケープをやりかけにして、仕上がってそのままになっていた旗を貼り合わせる作業を始めた。彼は戸棚から、にかわの壺を取り出し、布の裏側に筆で塗った。こうやって刺繍は固められた。彼の唇はまだ小刻みに震えていた。そしてもう何も話さなかった。
アンジェリックは黙っていたものの、心の内では夢がさらに大きく膨らんでいた。陶酔にわずかに開いた口と、幻を映す青い瞳がそのすべてを語っていた。彼女は薄幸の少女の夢を金糸で刺繍していた。白いサテンの上の大きな百合も、薔薇も、マリアのモノグラムも、それらはすべて彼女自身から溢れ出したものだった。百合の茎は光が噴き出すように伸び、金のビーズとスパンコールでできた細長い葉は、星の雨が降り注いでいるようだった。中央ではマリアの文字がレースや型押しの技法で重圧な金の浮彫を成し、燃え立つ聖櫃のように神秘の光線を放っていた。そして柔らかな絹の薔薇は生きているようだった。真っ白な布地に金色の花が咲き、カズラ全体が輝いて見えた。
 長い沈黙のあとアンジェリックは頭を上げた。そしてユベルティーヌに、いたずらっぽく言った。
「私は待つわ。彼はきっと来るわ」
 途方もない想像力。頑固さ。自信。彼女の確信は何ものにも揺るがなかった。
「お母さん、私が言ったことは本当のことよ」
 ユベルティーヌは否定するのは止めて、冗談を言って娘をからかうことにした。
「でもあなた、結婚しないんじゃなかったの? あなたが夢中の聖女様は結婚なんてしないでしょう? あの人たちは人に従うどころか、婚約者に改宗を迫ったり、親の家から逃げ出したり、平気で神様のために死んじゃったりするんだから」
 娘はこれを聞くと驚いた。そして大笑いした。その明るく響く笑い声は、彼女の健康と、生きる喜びの歌のようだった。聖女の物語など昔のこと。時代はすっかり変わった。神様は勝利し、もう誰にも自分のために死ねなどとは求めない。伝説が彼女を魅了したのは、俗世への軽蔑でもなく、殉教への志向でもなく、むしろ奇跡だった。そう、もちろん彼女は結婚し、愛し愛され、幸せになりたいのだ。
「気をつけなさい」とユベルティーヌは続けた。「アグネスを泣かせないように。知ってるでしよう? アグネスは総督の息子を断って、イエス様との結婚を望んで死んだのよ」
 鐘楼の鐘が鳴り出し、後陣の窓を縁取る蔦の茂みから雀が一斉に飛び立った。工房ではユベールが、にかわで湿った旗を乾かすために、壁に打ちつけられた大きな釘に掛けていた。陽は巡り、ディリジャン、柳の糸巻き器、銅の燭台などのアンティークな道具を照らしていた。そして陽ざしが二人の女職人のところまで届くと、作業中の刺繍枠が炎のように輝いた。使い込まれて艶の出た枠木と、ほぞに差し込まれた板。布地の上を跳ねる金のビーズやスパンコール、絹糸のボビン、金糸の糸巻き棒。すべてが光輝いた。
アンジェリックは春の光の中で、自分が仕上げた十字架の百合を見つめていた。そして希望に満ちた笑顔で答えた。
「そうよ、私の望みもイエス様なの!」

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