夢 4 エミール・ゾラ
快活な性質にもかかわらず,アンジェリックは一人でいることを好んだ。朝と夕、自分の部屋で一人になると心が休まった。彼女には現実逃避の傾向があった。ときに日中、部屋に戻ることができると、解放された気分になるのだった。
部屋はとても広く、屋根裏の半分を占めていた。すべて漆喰で塗られ、壁も梁も、天井にむきだしの垂木までもが白かった。その飾り気のない白さの中で、古いオークの家具は濃い色に見えた。階下の寝室と客間を改装したとき、さまざまな時代に買い集められた古い家具は、みな屋根裏へ運ばれた。ルネサンス期の大きな収納箱、ルイ一三世様式のテーブルと椅子、ルイ一四世様式の大きなベッド、そしてルイ一五世様式の美しい洋服箪笥。白い陶製のストーブとオイルクロスをかけた小さな化粧台が、古めかしい家具の中で浮いて見えていた。大きなベッドを覆うカーテンは、ヒースの花模様が色褪せて淡い薔薇色をしていた。年月を経たベッドは、とりわけ威厳があった。
しかしアンジェリックが気に入っていたのはバルコニーだった。二つある掃き出し窓のうち、左側のものは釘を打って塞いでいた。かつてその階の幅いっぱいだったバルコニーは、今は右側の窓の前だけだった。床はしっかりしていたので新しい板を張り、腐った手すりは鉄のものに換えられていた。今世紀の初めに改修されたバルコニーは、切妻の下にできた魅力的な一隅だった。身を乗り出すと、古い家の庭に面した壁が見えた。石積みの土台、木の骨組みと煉瓦の壁。かつて広かった開口部は狭められていた。勝手口には亜鉛で葺いた庇があった。上の方は屋根の棟木同様、梁が一メートルほど張り出し、一階の横木に脚を据えた大きな持送りに支えられていた。そのためバルコニーは骨組みの森のようだった。さらにニオイアラセイトウや苔が緑を添えていた。
ここに住むようになってから、アンジェリックはバルコニーの手すりに肘をつき、長い時間を過ごした。足元は柘植の深い茂みだった。教会に接する庭の隅では、痩せたライラックの株が花崗岩のベンチを囲んでいた。庭のもう一方の隅には、塀を覆う蔦に隠れた小さな扉があり、クロ=マリーへ通じていた。クロ=マリーはかつて修道院の果樹園だった。この土地を流れるラ・シュヴロットの小川は、許可を得て近隣の主婦たちが洗濯に使っていた。壊れた水車小屋には貧しい家族が暮らしていた。それ以外には誰もいなかった。司教館とヴォワンクール邸の高い壁のあいだを通るゲルダッシュの路地が、この荒れた土地をマグロワール通りへつないでいた。南側は大聖堂の巨大な屋根に塞がれ、夏になれば、二つの庭の巨木の楡にも地平が遮られた。こうして周囲を閉ざされたクロ=マリーは、見捨てられた土地のように静かに眠っていた。雑草に覆われ、風が運んで勝手に根づいたポプラや柳が生えていた。石の間を流れるラ・シュヴロットのせせらぎが、絶え間ない音楽のように聞こえていた。
アンジェリックは、この忘れられた片隅に飽きることがなかった。彼女は七年間、毎朝同じ風景を見てきた。ヴォワンクール邸の正門は大通りに面していたが、裏庭は木々でうっそうとしていた。冬になって葉が落ちた時にだけ伯爵夫人の娘、彼女と同い年のクレールの姿を目にした。司教館の木々の茂みは一層深く、司教のカソック(訳者注:聖職者が日常的に着用する、くるぶし丈の長い服)を見たことは一度もなかった。司教館の古い鉄柵にはクロ=マリーに通じる板戸があった。しかし、庭師が通るためにでさえ、それが開いているのを見ることはなかった。洗濯をしている主婦たちを除けば、彼女がそこに見る人間はいつも同じ、草の上に寝転ぶ、ボロをまとった子どもたちだけだった。
今年の春は、とても穏やかで美しかった。四月の太陽のもと、クロ=マリーは緑を取り戻した。それは一六歳になるまで、いつもアンジェリックの楽しみだった。柔らかに芽吹く若葉、穏やかな夕べ。目覚めた大地の薫りが、彼女には嬉しかった。しかしその年、最初の芽がふくらむと、彼女の心は落ち着かなかった。草が育ち始め、風が緑の匂いを運んでくると、彼女に芽生えた動揺は日に日に高まった。突然理由もなく、胸を締めつけるような心の痛みに襲われた。悲しむ理由などない、むしろ幸福でいっぱいなのに。ユベルティーヌの腕の中で泣くことさえあった。夜、彼女はうっとりするような夢を見た。彼女の前を人影が通り過ぎ、恍惚のうちに自身が消える。目覚めてから思い出すと恥ずかしくなるような幸福な夢だった。時には、急に起きあがってベッドの上で両手を胸に押し当てることもあった。苦しさに耐えかね、裸足のまま床に飛び降り窓を大きく開け放つ。そして冷たい空気が心を鎮めてくれるのを待つのだった。それは自分が自分でないと感じる驚き。未知の愛と哀しみが心に膨らみゆく不思議。彼女の中の女性が、魔法のように花開きつつあった。
司教館の見えないライラックやキングサリの甘い香りを吸い込むだけで、彼女の頬に薔薇色の潮が昇った。香りのぬくもりが、吐息のように彼女の肌をかすめるのを感じた。それはこれまでに一度もなかったことだった。ヴォワンクール邸の二本の楡のあいだの大きな房の桐の花も、昨年までは気付かなかった。今年、その淡い紫色は彼女の心に強く迫り、目を潤ませるほどだった。葦の岸辺を流れるラ・シュヴロットのせせらぎの音にも初めて気が付いた。小川の繰り返し語りかける不明瞭な言葉が彼女の心をかき乱すのだった。すべてが彼女を驚かせ、新たな意味を帯びていた。ここはもう以前と同じ土地ではないのだろうか。それとも変わったのは彼女自身なのだろうか。だから大地に芽生える命を見、聞き、感じることができるのだろうか。
しかし、右手にそびえる大聖堂。空を塞ぐその巨体は、さらに彼女を驚かせた。毎朝、初めて見るかのように感動した。この建物の古い石は自分と同じように生きている。理屈ではない、そもそも彼女は何も知らない。ただ、幾世代もの信仰が積み重ねられ、三世紀にわたって生み出されてきた神秘に彼女は身を任せていた。祈るようにひざまずく巨体を囲むロマネスクの礼拝堂。その半円アーチの窓と、アーチの下に添えられた小円柱。上に向かうと、八十年のちに建てられた身廊の尖頭アーチの窓と、細い石の柱が支えるバラ窓。そして地上を離れ、控え壁と飛梁の上に立つ、二百年のちに建て加えられたゴシックの小尖塔。飛梁の足元には、屋根の雨水を吐き出すガーゴイル。後陣礼拝堂の上のテラスには、後から付け加えられた三つ葉模様(訳者注:ゴシック建築で多用される装飾)の欄干。そして屋根稜線の花形装飾。大聖堂は天に向かうほどに花開き、罪と罰の古い宗教観から解放され、愛と赦しの神のもとへと昇ってゆく。アンジェリックは大聖堂を仰ぐとき、自分の身体がとても純粋で繊細で軽く、高みに消えゆく聖歌のように感じられた。
大聖堂は生きていた。何百羽ものツバメが、三つ葉模様の帯の下や小尖塔の窪みにまで巣を作っていた。そして飛梁や控え壁をかすめて飛び回り、ここを棲みかとしていた。司教館の楡に棲む山鳩もテラスの縁を気ままに歩いていた。ときには尖塔の先端、青空の中に虫ほどの大きさにしか見えない一羽が止まっていた、またコケ類や壁の隙間に生えるイネ科の植物も、その根の密かな働きで古い石に活気を与えていた。大雨の日には後陣全体が目覚めた。鉛の屋根を叩きつける雨音の中、激流が回廊の溝を階から階へと下った。また十月や三月の大風の日、切妻やアーケード、小円柱やバラ窓を吹き抜ける風に、大聖堂は怒りと嘆きの声を上げた。太陽は大聖堂に命を与えていた。金色の朝の光に若返り、ゆっくり伸びゆく夕べの影に眠った。そして大聖堂の内部には脈打つ血管があった。鐘の音、オルガンの音楽、司祭たちの歌声は、儀式の度に大聖堂を揺り動かした。微かな物音の中にも命は息づいていた――低声ミサのささやきにも、一人の女がひざまずく沈黙の祈りにも。
そして日の長い季節、アンジェリックは朝と夕べにバルコニーで肘をつき、大いなる友、大聖堂と共に過ごした。星空を背景にした夜の大聖堂が好きだった。細部は失われ、ただ空に浮かぶ飛梁が見分けられるだけだった。彼女には、大聖堂が闇の中で目覚めていると感じられた。七百年、その祭壇の前に民衆の希望と絶望を受け止めて来た偉大な瞑想。無限の過去から永遠の未来へ、決して眠ることのない厳かなる神の家。そして、黒い塊のような大聖堂の中にただ一つ、後陣礼拝堂の窓だけに明かりが灯っていた。それは夜の中に、ぼんやり開いた眼のようだった。柱のかげに聖体の常夜灯が灯っていた。その礼拝堂こそジャン・オートクール五世とその子孫に埋葬権が与えられた礼拝堂だった。聖ゲオルギウスに献げられた礼拝堂は、ステンドグラスに聖人の伝説が描かれていた。夕暮れになると伝説は光に透けてよみがえった。だからアンジェリックは、その窓をいつも夢見るように眺めていた。
ステンドグラスは背景が青、縁取りは赤だった。その深みのある背景の上に、衣を翻す人物が鮮やかな色で浮かび上がっていた。伝説の三つの場面が上下に並んでいた。下段では王女が生け贄になるために町を出て、池のほとりで聖ゲオルギウスに出会っていた。池からは竜の頭が覗いていた。そして、文字の帯に記されていた言葉は、『あはれ、いみじき騎士よ、我がために死に給ふな。汝、我を助くるに能わず。ただ我とともに滅び給ふのみならむ』そして中段には、戦いが描かれていた。聖人が馬に乗り、竜を槍で突き通していた。そして説明の言葉が記されていた。『ゲオルギウス、あまた槍を振りかざし、竜を刺し貫きて地へ投げ伏せり』そして最上段では、王女が敗れた竜を連れて町へ戻っていた。『ゲオルギウス曰く「恐れることなかれ、うるはしき姫よ。そが帯を竜の頸に巻きつけよ」姫、そのままに行ひければ、竜、まこと従順なる犬のごとく従ひき』このステンドグラスが作られた当時、半円アーチには装飾模様がはまっていた。しかし、礼拝堂がオートクール家の所有になると、家の紋章に置き換えられた。こうして古の伝説の上に新しい時代の輝かしい紋章が、夜ごと炎のように輝いた。四分割の盾にエルサレムとオートクールの紋章を千鳥に配されていた。エルサレムの紋章は銀地に金のポテンセ十字(訳者注:四つの先端が丁字型の十字)、その四隅に金の小十字。オートクール家の紋章は、青地に金の城砦、その中央に黒の盾と銀の心臓、さらに周りには金の百合が上に二つ、下に一つ。その盾は、左右の金のキマイラ二体に支えられていた。その上に戴く銀の兜は、金のダマスク文様に、青の羽飾りと十一の格子。その表すところはすなわち、公爵、フランス元帥、称号ある領主、直隷の軍の長だった。そして家訓の語句『神が望みに従へ』が刻まれていた。
槍で竜と戦う彼と、手を合わせて祈る王女の姿を見るうちに、アンジェリックは次第にゲオルギウスに夢中になった。彼女のいるバルコニーからは遠くて良く分からなかったぶん、想像力は膨らんだ。細く金髪の王女は自分自身のように思われた。聖者は誠実で美しく、大天使のようだった。彼女自身が助けてもらったと想像し、彼の手に感謝の口づけをしたい思いだった。湖のほとりで出会った、輝くように美しい若者に救われる。彼女の夢見る冒険には、オートクール城への散策の記憶が混じり合っていた。空にそびえる塔と、昔の領主たちを思い浮かべていた。紋章は夜空の星のように輝いていた。紋章の刺繍をすることもあった彼女は、その象徴する意味を語句と共に良く理解していた。ジャン五世はペストの蔓延する町で戸口から戸口へと歩き、瀕死の者たちに口づけし、言った。『神の望みを私は望む』フェリシアン三世は、病のフィリップ四世に代わり、蝋燭一本を手に裸足でパレスチナへ赴いた。それによってエルサレムの紋章を授与されたのだ。オートクール家の女性たちの伝説も思い起こされた。それは『幸福なる死者』と呼ばれる物語だった。この家では、女たちは幸福の絶頂に早逝していた。ときには二代、三代と無事なこともあったが、やはり死はまた訪れ、穏やかに柔らかな手をもってオートクール家の娘や妻を連れ去った。ラウル一世の娘ロレットもそうだった。城に住む従兄リシャールとの婚約の夜、彼女がダビデ塔の自室の窓辺に立つと、カール塔の窓に彼を見た。そして彼女は、彼が自分を呼んでいると思った。そのとき月の光が二人のあいだに一条の橋を渡した。彼女はその橋を渡って彼のほうへ歩み出した。しかし途中急いだために光の筋を踏み外し、塔の下に落ちた。それ以来、満月が白く城を包む夜、宙を歩く彼女の姿が見えるという。エルヴェ七世の妻バルビーヌは、六か月ものあいだ夫が戦死したものと思っていた。それでも帰りを待ち続けていたある朝、塔の上から道を帰って来る彼を認めた。彼女は階段を駆け降りた。しかし、あまりの喜びのため、最後の一段で息絶えてしまった。そして今でも黄昏が訪れると廃墟の中を彼女が降りてくるという。廊下や部屋を階から階へと走り抜ける影が、開いた窓から見えるという。イザボー、ギュデュル、イヴォンヌ、オストルベルテ。『幸福なる死者』たちは皆、死に愛されていた。死は、彼女たちに人生の苦難を味わわせまいと、まだ若く、幸福なうちに連れ去ったのだった。ある夜には、宙を舞う彼女たちの白い姿が城を囲んだ。そして彼女たちの最後の一人が司教の息子の母だった。そのとき、母は子のゆりかごの前に横たわっていた。子を抱く喜びの中、雷に撃たれたように息絶えたのだった。アンジェリックはこうした伝説を信じていた。それらの出来事が事実であり、昨日起こったばかりのことであるかのように話していた。彼女は礼拝堂の壁の墓誌に、ロレットやバルビーヌの名を見たことがあった。自分も彼女たちのように若くして死ぬのだろうか。紋章は輝き、聖人はステンドグラスから降りて来て、彼女は甘い口づけのうちに天へ召される。
聖人伝説は教えてくれた――奇跡こそが当たり前の普通に起こることではないのか。奇跡はいつでもどこでも簡単に起こる。時には意味もなく増え広がり溢れ出し、自然の法則をあざ笑う。我々は神と同じ地平で生きている。エデッサの王アブガルはイエスに手紙を書き、イエスはそれに答えている。イグナティウスは聖母から手紙を受け取っている。どこにでも聖母と御子は現れる。姿を隠し、にこやかに人に話しかける。ジャックに会えば親しげだ。すべての処女はイエスと結婚し、殉教者たちは聖母マリアと結ばれる。そのように天使や聖人は人間の仲間だ。壁を通り抜けて行ったり来たり、夢に現れ、雲の上から語りかけ、誕生と死に立ち会い、苦難を支え、牢獄から救い出し、答えを知らせ、使い走りまでしてくれる。行く先々で奇跡の花が咲き乱れる。シルウェステルは竜の口を糸で縛った。ヒラリウスが皆の前で辱められたとき、地が盛り上がり彼を座らせた。ルプスの聖杯に宝石が落ちてきた。木はマルティヌスの敵の上に倒れ、彼が命じると犬は兎を放し、火は鎮まる。エジプトのマリアは海の上を歩き、アンブロジウスは生まれたときに口から蜜蜂が飛んで出た。絶えず聖人たちは病を癒す。盲目、麻痺した手足、癩病、そしてペスト。十字架で治らない病は無い。群衆の中から苦しむ者、弱い者が選び出され、雷の一撃のように一度に癒される。死は打ち負かされ、もはや復活は日常茶飯事だ。そして聖人たちが死んだあとも奇跡は止まず、むしろ倍加する。多年草の花のように彼らの墓に咲き続ける。ニコラウスの頭と足からは万能薬の泉が流れ出した。セシリアの棺を開くと、薔薇の香りが立ち昇った。ドロテアのそれはマナ(訳者注:神が天から降らせた食べ物)で満ちていた。聖処女と殉教者の骨は嘘を暴き、盗んだ物を返させ、不妊の女の願いを叶え、死にかけた者を生き返らせる。不可能は何一つない。この世の唯一の法は、見えない手による予測できない超自然である。魔術師たちが神殿に入り込むと、鎌がひとりでに刈り、真鍮の蛇が動き、青銅の像が笑い、狼が歌う。
すると即座に聖人たちは応え、彼らを制圧する。聖体は生きた食べ物となり、キリスト像は血を流す。地に挿した棒に花が咲き、乾いた土地に泉が湧く。貧しい者たちの足元に焼き立てのパンが積み重なり、一本の木が身をかがめてイエスを礼拝する。切られた首は話し、砕けた聖杯は自ら修復する。雨は教会を避けて隣の宮殿を水没させる。隠者の衣は擦り切れることなく、動物の毛のように季節ごとに再生する。アルメニアでは、迫害者たちが五人の殉教者を鉛の棺に入れ、海へ投げ込んだ。すると使徒バルトロマイの棺を先頭に、他の四つは隊列を組むように従い、風に押されてゆっくりとシチリアの岸辺へたどり着いた。
アンジェリックは奇跡を固く信じていた。無知な彼女にとって、奇跡は夜空に星が昇ることやスミレが花咲くことと変わらなかった。世界が機械のように決まった仕組みで動くと想像することこそ、おかしなことと思われた。あまりに多くのことが彼女には理解できなかった。測りようもない力を前にして自分の弱さを痛感していた。時に感じる目に見えない大きな何かがなければ、その力の存在を察知することもできなかった。だから彼女は聖人伝説を拠り所に、原始キリスト教の信者のように原罪を抱えながら自らを神の御手にゆだねていた。彼女には、いかなる自由もなかった。神の恵みにあずかる以外に救いはなかった。そしてその恵みとは、彼女をユベール家の屋根の下、大聖堂の影のもとへ導かれることだった。そして従順と純潔と信仰に生きることだった。彼女は自身の奥底に遺伝の悪魔が唸るのを聞いていた。だから生まれた土地にとどまっていたなら、いったいどうなっていたことだろう。おそらく良い娘ではなかったはずだ。しかし、この祝福された片隅で季節を重ね、健やかに成長した。ここには彼女が本で読んできたままの信仰があり、いつも神秘に囲まれて、奇跡が不思議と思われない日常があった。この目には見えない環境こそが神の恵みではないだろうか。殉教者たちを守ったように、神の恵みは彼女を人生の戦いに備えさせていた。彼女は無意識のうちに、自分自身で恵みを創り出していた。それは、物語によって刺激された想像力に思春期の欲求が重なり生まれた。彼女自身の内と外の未知から呼び起こされ、無知により広がった。すべては彼女から生まれ、彼女へと戻るものだった。人は自らを救うために神を創り出す。そこにあるのは、ただ夢だけなのだ。ときに彼女は、自分の顔に触れてみずにはいられなかった。自分が本当に物質的に存在するのか疑ってしまうのだ。自身が幻影にすぎず、ひとつの幻想を生み出したあとで消えてしまうのではないのかと思わずにはいられなかった。
五月のある夜、バルコニーに佇む彼女の目に突然涙が溢れ出した。悲しいのではなかった。来るはずのない誰かを待つ気持ちに心を乱されていたのだった。辺りは暗く、クロ=マリーは星空の下に黒い穴を空けていた。見分けられたのは、司教館とヴォワンクール邸の楡の黒い塊だけだった。その中で礼拝堂のステンドグラスだけが光っていた。誰も来るはずもないのに、なぜ彼女の心臓はこんなにも高鳴るのだろうか。それは彼女の幼い頃までにさかのぼる思いだった。そしてその思いは年齢とともに大きくなり、不安に満ちた思春期に熱い期待へと育っていた。彼女は何も驚きはしなかった。もう何週間も前から、想像力が満たす神秘の片隅で、ざわめく声を聴いていたのだから。聖人や聖女たちの超自然が広がる彼女の世界で、奇跡が花開こうとしていた。これまで沈黙していた物たち――木々の葉、ラ・シェヴロットの水、大聖堂の石が彼女に語りかけていた。しかし、これを告げているのは誰なのだろう。彼方から吹き寄せ、空気中を漂う未知の力。彼女を導くもの。それはいったい何ものなのだろう。彼女は、自分の意思とは別の未知の何かが自分の人生を決めていくのだと思っていた。彼女は闇を見つめ続け、待った。約束の無い待ち合わせを待つように待った。毎日眠る時刻になるまで待っていた。
こうして一週間、アンジェリックは夜のバルコニーで泣いていた。そして待ち続けていた。彼女を囲むものは、夜ごと増えていた。まるで地平線が縮まり圧迫されるかのようだった。それらは彼女の心に重くのしかかり、その声は彼女の頭蓋の中で鳴り続け、もはやはっきり聞き取ることができなかった。それはゆっくりと自然に支配されることだった。大地と空が彼女の中に溶け込んでいた。わずかな気配がした。彼女の手は熱くなった。彼女は闇の向こうを見ようと必死に目をこらした。ついに、待ち望んだ奇跡が訪れたのだろうか。いや、そうではない。おそらくは梟の羽ばたく音がしただけだった。彼女は再び耳を澄ました。木々のざわめきの、楡と柳の違いまでも聞き取るほどに注意を払った。こうして小川で石が転がるたびに、もしくは、どこかで小動物が滑り下りたりするたびに震えが彼女の身体を走った。彼女は身をかがめた。今にも気が遠くなりそうだった。
まだ何もなかった。しかし、月のない温かな夜、何かが始まった。それはほとんど感じ取れないほど微かだが、彼女の知らない音だった。しかし思い違いにも思われた。彼女は息をひそめて、もう一度その音を待った。するとそれは、前よりも大きく聞こえた。それでもなお不明瞭だった。それは遠くの足音とでも言えばよいのだろうか。見えも聞こえもしない何かが近づいてくる気配を空気の震えが告げていた。彼女を取り囲むすべてのものの中から、待っていたものがゆっくりと姿を現し始めていた。それは幼い頃の漠然とした夢が少しずつ現実になることだった。ステンドグラスの聖ゲオルギウスが、草を踏みしめ、彼女の方へ登ってくるのだろうか。ちょうどそのとき窓は暗くなり、彼女には聖人がはっきり見えなかった。ステンドグラスの像は紫の雲のようにぼやけ、蒸気のように消えかけていた。その夜は、それ以上分からなかった。しかし翌日の同じ時刻、同じ闇の中で足音は強まり、やや近づいて来ていた。それは確かな足音だった。足音は止んだり、また始まったり、あちこちで聞こえ。どこから来ているのかは分からなかった。もしかすると、ヴォワンクール邸の庭かもしれない。楡の木の下を散策する誰かかもしれない。それとも司教館の庭、苦しくなるほどの香りを放つライラックの茂みから聞こえるのだろうか。どれほど闇の中に目を凝らしても、奇跡の到来を告げたのは音だけだった。また、花の香りも、その息づかいが混じっているかのように強く感じられた。そして足音の描く円は数夜を経てバルコニーの下へ狭まり、足元にまで来た。そしてそこで止まり、長いあいだ沈黙した。ゆっくりと増していく未知なるものに抱かれて、彼女は気遠くなりそうだった。
その後の晩、彼女は空に細い上弦の月を見た。しかしその天体は、光の眼に瞼が下りるようにすぐに大聖堂の屋根の向こうへ消えた。彼女は毎夕、月が満ちてゆくのを追った。ついに見えないものを照らすだろうその光を待ちきれない思いで眺めていた。クロ=マリーは少しずつ闇から抜け出し、壊れた水車小屋、木々の茂み、速い流れの小川が姿を見せ始めていた。夢はついに影を帯びた。彼女が最初に見たものは、月の下に動く影だった。それは単なる風に揺れる枝の影だろうか。ときに、野は沈黙し、彼女は幻覚だったのかもしれないと思った。すると、月に照らされた一角を柳から柳へと影が移った。もう疑わなかった。彼女はその影を見失い、また見つけたが、それが何かは分からななかった。ある晩、人の肩が逃げ去るのを彼女は見た。彼女は思わずステンドグラスを見た。その灰色の影は、月に照らされて消えたようにも見えた。影は、草むらの暗がりを教会に沿って進み、こちらへ近づいていた。神秘の眼に見つめられている感覚に、彼女の気持ちは落ち着かなかった。確かに木の下に何かがいて、彼女を見上げ、目を離さないでいた。その優しく怯えたような視線は、彼女には顔や手に触れられているように感じられた。彼女はその視線から逃れようとはしなかった。それが伝説の世界から来た純粋なものと分かっていたからだ。最初の不安は、幸せの確信に変わっていた。ある夜突然に、月に照らされた白い地面の上に、人の影がくっきりと描き出された。それは柳の後ろに隠れている一人の男だった。男は動かなかった。彼女はその動かない影を長いあいだ見つめていた。
その時から、それはアンジェリックの秘密になった。漆喰で塗られた真っ白な屋根裏部屋は、その秘密の園だった。彼女は細い体を大きなベッドに横たえ、目を閉じたまま何時間も眠れなかった。輝く地面の上の動かない影が、頭から離れなかった。夜明けに目を開くと、部屋はいつもと変わらなかった。大きな洋服箪笥、アンティークな収納箱、陶製のストーブ、小さな化粧台。あの神秘的な影がそこにないことが不思議だった。彼女にとって、記憶だけでも描けるほどの確かな存在なのに。彼女は寝ているあいだにも、花模様のカーテンの隙間から滑り込むその幻を見ていた。目覚めていても眠っていても、そのことでいっぱいだった。もはやその存在を切り離した自分を考えられず、一人でいても一人のような気がしなかった。そしてこのことを彼女は誰にも言わなかった。それまで何でも話していたユベルティーヌにさえも黙っていた。あまりに楽しそうな娘の様子にユベルティーヌが問いただすと、アンジェリックは真っ赤になり、春が嬉しいのだと答えた。朝から晩まで、陽の中を飛び回る蝶のように彼女は陽気だった。彼女が刺繍していたカズラは、かつてなかったほど絹と金糸が輝いていた。ユベール夫妻は、健康の証と笑っていた。日が暮れるにつれて彼女はいっそう陽気になり、月が昇るころには歌を口ずさみ、そして時刻が来ると欄干にもたれて待った。影は同じ時刻に現れた。立っているだけで何も言わず、その正体は分からいままだった。もしかするとステンドグラスの聖人なのかもしれない。あるいは、かつてセシリアを愛した天使が、今度は彼女に降りてきたのかもしれない。そう考えると彼女はとも誇らしく嬉しかった。そしてその正体を知りたかった。
満月がクロ=マリーを照らしていた。声無き泉の水のように、白い光が真上から降り注いでいた。その輝きの中で木々の影は消え、柳は葉の一枚一枚が鮮明に見えるほどだった。辺りを支配する静けさは、わずかな空気の震えにさえ、月の光に漣がたつようだった。
さらに二晩が過ぎ、三日目の夜、いつものように手すりに身をもたせかけたとき、アンジェリックは激しい衝撃を受けた。月明かりの中に、彼がまっすぐこちらへ向いて立っていた。彼の影は木々の影と同じように、その足もとへ縮んで消えていた。彼に間違いなかった。その距離からでも、まるで真昼のようにはっきりと見えた。二十歳ほど、金髪、背が高かった。聖ゲオルギウスに似ていた。もしくはイエスのようでもあった。巻き毛の髪、うっすらとした髭、まっすぐで力強い鼻、そして高貴な優しさを湛えた黒い瞳。彼女が待ち望んでいた姿そのものだった。神秘のゆるやかな創造は、ついに現実へと行き着いたのだ。彼は未知の世界から、自然の震えから、夜のささやく声から、光と影の揺れ動く中から、彼女を包むすべてのものから姿を現した。彼女には、彼が地面から少し浮かんでいるように思えた。月の光の中で奇跡が彼を取り巻いているかのようだった。彼は伝説を従えて現れた。その杖が花を咲かせる聖人たち、傷口から乳が湧く聖女たち、彼はそのすべてを伴ってやって来た。殉教の乙女たちが、星をも褪せさせる白い光となって飛翔していた。
アンジェリックは彼をずっと見ていた。彼は腕を大きく広げ、手を差し伸べた。彼女は少しも怖くなかった。そして彼に向かってほほえんだ。
