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続・美術展に招待された日 | エッセイ

全ての作品を「個性の塊」と評するには、少々薄っぺらくなってしまいそうで、一個人ながら何を根拠に知ったかぶりを述べているのだと、そう罵られてしまいそうだ。



この日、上野の森美術館で開催されていた、とある美術展に一人足を運んだ私は、初めて踏み入れた独特な世界観に、かつてない圧倒感を覚えた。

例のペアチケットの片割れを受付の方に見せ、案内図に従って進んでいく。すでに館内では、美術展特有とも云われる静寂に包まれた空気が漂う。

その静寂には冷たくも張り詰めた感覚はなく、荘厳とまでには届いていない。まるで美術館全体が、無色透明さを醸し出しているような雰囲気に包まれていた。


ただ、全てが無に等しいというわけではなく、むしろ有り余る「一つの色」という概念や垣根を超越したものが、至る所に溶け込まれていると揶揄しても過言ではない。

わずかな空間に飾られている作品を生み出した彼ら或いは彼女らは、これらを通じて何を表現したかったのか、何を伝えようとしていたのか。

限られた時間の中で一見するだけでは、すべての理から志までを理解することは不可能で、何度も繰り返し見直す必要があると、改めて悟ったのである。


そもそもこの世の中に、一つの作品を一見するだけで全ての感情を読み解く人間が、日本に限らず世界中にどれくらいいるのだろうか。それを知ろうとするのは余りにも野暮すぎて、ある意味で「知る由もない」だろう。

それよりも「素晴らしい」とか「美しい」だとか、すでに聞き慣れている有りふれた言葉を感想として述べるには、まるで敬意を表していないとも云われそうだ。

ゆえに、今となってはすっかり使い慣れてきた「筆舌に尽くし難い」という言葉も、今回においては重きを置いてきた説得力を持たせられない。そんな気がしていた。


完璧じゃない価値観が、みる人全てを圧倒させるほどの完璧さを物語っている。少なくとも、美的センスは皆無だと自称する私には、自らの両目で眺めてみてそう感じたのである。


どういう意図であれ思惑を持っていたことであれ、ペアチケットをくださったOさんには申し訳ないが、この展覧会は一人で見に行って正解だったかもしれない。

自らの口で多くの言葉を語れない私にとっては、一つ一つの作品に目を通すことで、これまでに発想してこれなかった新たなインスピレーションが、また一つ浮かび上がってくる気がしていた。

多くを口にせず、より多くを作品越しに語る。それは今回訪れた美術展で展示されている数々の作品のみならず、此処noteでも通ずるものは少なからずあるのだと確信したのであった。


また、次の機会が訪れた時は、お互いの思考を共有できる相手と来られたら…なんて密かに考えつつ、美術館を後にしたのだった。





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タダノツカサ 最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!