オートマ社会を、マニュアルで走ってきた
ーNTとASDを、AT車とMT車で考える話ー
■ 前回書いたこと
前回、「境界線上」という感覚について書きました。
天才でもなく、凡人でもなく、定型発達でもなく、典型的なASDでもなく、ADHDだけで説明し切れるほど振り切れているわけでもない。いくつもの境界線の上にいたからこそ、見えているものがあるのではないか、という話です。
今回は、その「境界線上」の立場の感覚から、できるだけわかりやすい比喩で、発達特性(特にASD)について説明してみたいと思います。NTとASDを、AT車とMT車にたとえる話です。
■ いちばん古い「置いていかれる」記憶
ぼくは幼稚園の頃、先生から「賢くて器用、絵が上手」という評価をもらっていたそうです。同時に、「今何をすべきときなのかが、わからなくなっている時がある」という評価があったことも、母から聞いています。

たしかに覚えています。ふと顔を上げたら、さっきまでと周りの景色が変わっている、という感覚。気づいたら、教室にも園庭にも自分以外誰もいなかったり。気づいたら、自分以外の全員がもう並んで歌っていたり。気づいたら、自分以外の全員が着替えを終えていたり。
たぶん、何かに集中しすぎていた部分もあると思います。でも、それだけではなかったはずです。
先生からすれば、ぼくはただ「トロい子」で、「そのうちみんなに合わせてできるようになる」と見えていたのかもしれません。でも、ぼくの中ではそうではありませんでした。
言葉にして伝えてもらえれば、ちゃんとわかるんです。でも、「みんなの様子」だけから、今何をすべきかを推察することができなかった。少なくとも、幼稚園児だった当時のぼくには、それができませんでした。
これは、たぶんぼくの中にある劣等感の、一番古い原体験です。そして、これから生まれてくる子どもたちには、同じような思いを、できればしてほしくないと思っています。
今なら、この感覚をこう説明できます。
ぼくは、オートマ社会を、マニュアルで走っていたのだと思います。
■ AT車とMT車の違い
AT車、つまりオートマチック車は、エンジンの回転数や速度に応じて、車自体がギアを自動で切り替えてくれる車です。運転する側は、基本的にはアクセルとブレーキを踏んでいれば進めます。操作がシンプルな分、覚えることが少なく、渋滞や信号の多い普通の道ではかなり楽です。
一方、MT車、つまりマニュアル車は、ギアを運転する側が自分で選び、クラッチを踏んでつなぎ直しながら走る車です。覚えることも操作することも多く、慣れるまでは大変です。ただ、自分でギアを選べるので、状況に応じて細かく調整できる感覚があります。坂道や悪路のような、車任せにしにくい場面では、自分で判断して操作する余地がある。
もちろん、これは車そのものの優劣の話ではありません。AT車にはAT車の強さがあり、MT車にはMT車の強さがあります。
ここで言いたいのは、「どちらが優れているか」ではなく、「操作体系が違う」ということです。
■ NTはAT車的、ASDはMT車的かもしれない
名付けて、「AT/MT理論」です。
この「ギアチェンジが自動かどうか」という違いを、人の認知に置き換えながら考えてみる、という試みです。
定型発達、つまりNTの人は、たぶん「今、自分たちの集団がどこに向かっているか」「場の空気が今どのフェーズにあるか」を、AT車のギアチェンジのように、かなり自動で感じ取っているのではないかと思います。誰かにいちいち説明されなくても、周りの様子から「あ、今はこういう場面だ」と察知して、体が勝手に合わせにいく。
一方、自閉スペクトラム、つまりASDの人は、この部分が自動化されていないことがあるのだと思います。言葉で説明してもらえれば、ちゃんと理解して動ける。でも、「みんなの様子」や「場の空気」だけから、次に何をすべきかを推察する部分、つまり言外の意図を読み取る部分が、自動では動いてくれない。
これは、頭が悪いとか、やる気がないという話ではありません。ギアチェンジが手動か自動か、というくらい、仕組みの話なのだと思っています。
■ 「わかっているのに、できない」のではない
幼稚園の頃のぼくは、「みんなと同じように動きたくない」と思っていたわけではありません。わざと遅れていたわけでもありません。何をすべきかが言葉で共有されていれば、ちゃんとわかったはずです。
でも、周囲の動きから場面の変化を読み取り、自動で行動を切り替えることができなかった。
ここが、たぶんAT車的な人には伝わりにくいところです。
AT車の人から見ると、「みんな動いているんだから、見ればわかるでしょ」と思うのかもしれません。でも、MT車の側からすると、「今ギアを変えるべき」という情報が、自動では入ってこない。言われればわかる。でも、言われなければ切り替わらない。
その結果、気づいたら周りだけが先に進んでいて、自分だけが取り残されている。ぼくにとって、幼稚園という小さな社会は、そういう場所でした。
■ ハードウェアとソフトウェアを分けて考える
ここまでの話は、車で言えば「ハードウェア」の話です。つまり、車両そのものの話です。AT車なのか、MT車なのか。
ただ、実際に走るときには、もう一つ別の軸があります。それは、「運転手が誰か」「運転技術がどれくらいか」という軸です。これは、ソフトウェアの話です。
知能や身につけてきた技術と、生まれ持った認知の特性は、本来は別のファクターだと思います。この二つを分けて考えると、誰が何に困っていて、逆に何が得意なのかが、もう少し見えやすくなる気がします。
たとえば、MT車でも、運転手の技術が高ければ、AT車が得意そうな平らな舗装路をかなり上手に走れるかもしれません。逆に、運転技術の高い人なら、AT車のまま、かなり難しい道を走ってしまうこともあると思います。
つまり、人の特性は単純ではありません。発達特性は、よく「スペクトラム」という言葉で一面的に語られますが、実際には、ハードウェアの軸とソフトウェアの軸が別個に存在する、二軸のグラデーションになっているのではないかと思います。
■ 車種と道が合っていないだけかもしれない
この二つの軸が別々に見えて、それを統合して考えられれば、適材適所がもう少しスムーズになる気がします。
AT車に、ブレーキペダルの踏み分けだけで無理やり山道を走破させることもなくなる。MT車に、渋滞したハイウェイの上で延々とシフト操作をさせ続けることもなくなる。
自分に合わない場所に長くいると、運転手は消耗します。やがて、運転そのものが難しくなっていきます。
でも、それは必ずしも運転手の問題ではありません。
設計上決まっている車両の得意不得意と、道が合っていない。
そういう話なのだと思います。
人間も、たぶん同じです。その人が怠けているわけでも、劣っているわけでも、社会性がないわけでもない。ただ、その人の認知の仕組みと、置かれている環境が合っていない。それだけで、人はかなり苦しくなるのだと思います。
そんな中で、人生の歩みを止めざるを得なくなっている人、今にも止まりそうだったり、止めてしまいたい衝動に駆られながらも、それをひた隠しにして苦しんでいる人、あるいは、自分でもその苦しみに気づいていない人が、案外と多くいるように思います。
■ AT社会の中で、MT車はエンストする
人間社会は、概ねAT車向けに作られているように感じます。
場の空気を読むこと。説明されなくても察すること。今がどういうフェーズなのかを、周囲の動きから自然に理解すること。相手の表情や沈黙から、次に何をすべきか判断すること。こういう能力が、かなり前提にされています。
もちろん、それができる人たちにとっては、そのほうが速いし、楽なのだと思います。いちいち全部を言葉にしなくても、集団が動いていく。たぶん、それは人間社会にとって、とても大事な機能です。
でも、その前提で作られた社会の中にMT車が入ると、エンストします。周囲から見ると、「なんでそこで止まるの?」と思われる。でも、本人からすると、「いつギアを変えるべきだったのか、誰も言ってくれなかった」と感じる。
このズレが、たぶんいろいろな苦しみを生んでいるのだと思います。
■MT車は、外見では判りづらい
厄介なのは、その車両がATなのかMTなのか、概ね外見ではわからない、ということです。
だいたいにおいて、自分の車以外の構造は知りませんから、他の車両も自分と同じように動いているのだろう、と見えてしまいます。
つまり、元々AT車しか運転していない人は、相手がまさかギアチェンジを手動でやっているとは思いません。逆に、元々MT車しか運転していない人は、相手のギアがまさか自動で切り替わっているなんて知る由もありません。
だから、苦手な道でも、相手からはその運転の困難さが見えない。
結果、時にクラクションを鳴らされ、煽られ、すれ違いざまに怒鳴られたりもする。最悪、事故を起こすこともある。
やがて、「皆が走れる普通の道を、普通に走れない自分」に劣等感を抱きます。そのうちに、道路に出ることが怖くなっていきます。
ちなみに、ぼくはASDなのでMT車に相当するわけですが、運転に一定の器用さがあって、さらに並走する他の運転手たちが優しかったために、たまたま普通の道でも大きな事故は起こさず、これまで生きてこられました。これは相当ラッキーです。
他方で、ぼくは他の人間がオートマであることを知らなかったので「みんな器用だなあ」などと思いつつ、たまに見かけるエンストや事故を見て、「大変だなあ」「かわいそうだなあ」などと、正直思っていました。
だって、普通学級では「マニュアル車向けの走り方」は教わりませんでしたし、健康診断では「自分の車両のミッション部がATかMTか」は判りませんでしたから。
自分を含めた誰も、気が付きませんでした。おそらく、同じように「気が付いていない」人が、実はものすごくたくさんいるのではないか、とも思っています。
(これはよく言われる「発達障害が増えている?」という話と接続されるように思いますが、ここで触れると散らかってしまうので、また別の機会にします。)
■ MT車が優れている、という話ではない
この話をすると、「どっちが優れているのか」という話だと受け取られてしまうことがあるかもしれません。でも、それは違います。
ぼくは自分がMT車であることが判っている立場ですが、MT車だけの社会がよいとは思っていません。むしろ、MT車だけの社会は、かなり大変だと思います。すべての運転手が、毎回すべてのギアチェンジを意識しなければならない。ちょっとした移動にも認知コストがかかる。大量輸送や、日常的な移動には向いていないかもしれません。
AT車があるから、社会はスムーズに動いている。NT的な認知があるから、集団は速く、効率よく、たくさんのことを処理できている。それは間違いなく、社会にとって必要な力だと思います。
一方で、MT車にしか入り込めない道もある。
自動でギアが変わらないからこそ、細かく意識できることがある。みんなが自然に通り過ぎてしまう違和感に、立ち止まれることがある。「普通ならそうするよね」という前提を、いったん分解して見直せることがある。
それもまた、社会にとって必要な力なのだと思います。
■ いろんな車が混ざっている方が強い
大事なのは、AT車もMT車も、「必要だから存在している」ということです。これは、そのまま発達特性についても言えることだと、ぼくは思っています。
ASDは、たまたま紛れ込んだ欠陥品ではなくて、一定数生まれてくる必要があるから、生まれてきているのではないか。
もちろん、これはぼくの仮説です。
でも、少なくとも、人間社会という大きな交通網を考えたとき、全員が同じ車種である必要はないと思っています。
道路を走る車が全部AT車だったら、日常の移動はかなりスムーズかもしれません。でも、そこに山道や悪路や、普通の道ではたどり着けない場所が出てきたとき、MT車が必要になるかもしれない。
逆に、全部がMT車だったら、細かい道には強いかもしれませんが、日常の移動がかなり疲れるかもしれません。
いろんな種類の車が混ざって走っている方が、交通網全体としては強い。
ぼくにはそう見えています。
■ 完全にわかり合えなくてもいい
ぼくがどれだけこの構造を説明しても、たぶんAT車に乗っている人には100%は伝わりません。逆に、ぼくもAT車で走る感覚を、100%は理解できないと思います。
それでいいのだと、最近は思うようになりました。
完全にわかり合うことを目指すのではなく、違う車で、違う運転の仕方をしながらも、同じ道の途中でたまたま並んだとき、「いいクルマですね」「いえいえ、あなたこそ」と、互いに認め合えたら、それってすごく素敵な世界だな、と思っています。
前回までに書いてきた「誰も悪者にしない」という願いも、たぶんここにつながっています。
AT車が悪いわけではない。
MT車が悪いわけでもない。
AT車の道をMT車で走ってきた人が悪いわけでもない。
MT車がエンストする理由を知らなかったAT車の人が、必ずしも悪いわけでもない。
ただ、車種が違った。道が合わなかった。説明の仕方が違っていた。
そう考えられたら、誰かを責める前に、もう少しできることがあるのではないかと思います。
■ 次回の話
次は、まだちゃんと言葉にできていない「ラーメン理論」を書こうと思っています。
これも似たような話なんですが、もう少し射程が広くて、役割の違いということを、チェーン店と専門店、スープや麺にたとえて考えてみたい話です。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
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必要としている誰かに、この話が届けばいいなと思っています。
