ぼくは「普通じゃない凡人」だった

ーWAIS-IVで見えた、数多の境界線の話ー


■ 前回書いたこと

前回、「誰も悪者にしない世界を作りたい」と書きました。そのために、構造を見たいとも。

ただ、そのための視点を、なぜぼくが持てると思っているのか、まだ説明していませんでした。

数えてみると、ぼくは驚くほどたくさんの境界線の上に立っています。
天才と凡人のあいだ。定型発達(NT)と自閉スペクトラム(ASD)のあいだ。注意欠如・多動症(ADHD)と、そうでない発達特性のあいだ。社会人とバンドマンのあいだ。

よく誤解されてしまうので、先に断っておきます。
これは、誓って「自分はすごい」という話ではありません。

むしろ逆で、「特別な能力があったからではなく、平均的だったからこそ、いくつもの境界のあいだに立つことになった」という話です。

そしてこれは、自己認識だけの話ではなく、実際に検査を受けて、数字としても出てきたことでした。

今日は、そのデータの話をします。

■ 自分が何者なのか、数字で知りたくなった

「自分が何者なのか」を、本気で知りたくなる時期が、人生には何度かあるように思います。

ぼくにとってその一つが、2026年の初め、WAIS-IVという知能検査を受けたときでした。

きっかけは単純なものではなくて、他者や、その集合体である「世間」みたいなものに対する「伝わらなさ」や、そこから受ける「理不尽さ」のようなものを、幼い頃からずっと、どこかで抱えていたからです。

良かれと思ってやったことのはずが、気づけば相手を追い詰めていたり、傷つけていたりすることが何度も何度もありました。
誠実に、相手の幸せを願って考え、理知的に、建設的な話として伝えているつもりでも、相手には攻撃や拒絶として届いてしまうことが多々ありました。

ちょうどそれに悩んでいる頃、自己分析を続けている友人と話す機会がありました。
彼はフロイトやラカンの知見を借りながら、自分が何者なのかを深く掘り下げ、言語化しようとしていました。

それを見ていて、ぼくも自分の輪郭をちゃんと知りたくなりました。
感覚や物語だけでなく、できれば数字で。

正直に言うと、期待していました。

もしかしたら自分は「天才」の側の人間なのかもしれない、と。
それが数値で判れば、「世間」を黙らせるための印籠になるのではないか、と。

結果は、そう単純ではありませんでした。

■ WAIS-IVの結果

全検査IQ、つまりFSIQは103。

言語理解(VCI)は119。

知覚推理(PRI)は105。

ワーキングメモリー(WMI)は94。

処理速度(PSI)は79でした。

VCIが119という数字を見たとき、正直かなりがっかりしました。

心のどこかで、130でも140以上でも、とにかく「これで説明がつく」という称号が欲しかったんだと思います。
でも出てきたのは、そこまで極端な数字ではありませんでした。

PSIの79についても、担当した心理士さんの見立てでは、能力がそのまま数値化されているわけではなく、ケアレスミスを過剰に警戒する癖が数値に表れているのでしょうね、とのことでした。
それでも、実際の作業スピードとして79が出ているのは、一つの現実です。

さらに、PRIもWMIも105、94と、ごく普通の範囲でした。

突出していたのはVCIとPSIの二つだけ。あとは驚くほど「普通」。

FSIQ103とは、つまり、ほぼ平均のど真ん中のことです。

それもそのはず、「凡人の中の凡人」であることを、ぼくの人生そのものがずっと証明してきています。

そうして、だんだんと冷静な気持ちで受け入れられるようになりました。

■ ぼくは天才ではなかった

少し時間が経ってから、大事なことに気づきました。

ぼくがずっと感じてきた「伝わらなさ」や「理不尽さ」は、いわゆる「天才が抱える孤独」とは、たぶん別のものだったんです。

実際、ぼくの人生は孤独ではありませんでした。

友達もいたし、家族もいた。寂しいと感じたことも、もちろんゼロではありません。
でも、自分の人生全体を振り返ったとき、孤独だったとはあまり思いません。

あの感覚は、孤独というより、ある種の徒労感や諦念に近いものだったと思います。

説明すればわかるはずなのに、伝わらない。

筋道を立てれば共有できるはずなのに、なぜか話が別の方向へ行ってしまう。

誠実に向き合っているつもりなのに、相手にはそう届かない。

その根っこにあったのは、"ASD特性を、VCIというかたちの言語能力でずっとカバーし続けてきた"という事実でした。
つまり、ぼくはずっと頑張って「普通の人」に擬態しながら生きてきたのです。

■ AQで見えたASD(自閉スペクトラム症)傾向

↑ チャートの大きさが「困難さ」の大きさ。「想像力」だけ困難さがなく、一般平均以上。

AQでも、ASDの強い傾向があるという結果が出ました。

でも、ぼくは、いわゆる「空気が読めない」とか「共感性がない」といった像には、あまり当てはまってきませんでした。

それは、なかったのではなく、表に出ていなかっただけなのだと思います。

多くの定型発達の人が、感覚として即時的に感じ取っている「空気」や「共感」を、ぼくは言語と論理と文脈で、あとから再構築していました。

「空気を読む」ではなく、「他人が感じているであろう"空気なるもの"を"予測"する」。

「共感する」ではなく、「相手の文脈を論理的に再構成することで、"追体験"する」。

そうやって、定型発達の世界の中を、定型発達のふりをしながら生きてきたのだと思います。

あとから思い返せば合点がいくような経験が、ぼくにはたくさんあります。

■ 予測できるのに、信じてもらえなかったこと

子どもの頃から、「いつかこうなるだろうな…」と感じることがよくありました。
わるい予感も、いい予感も。

でも、それを言っても信じてもらえないことが多かったんです。

はたまた、子どもの頃は、どう考えても嘘だとわかるはずの「刺激的な嘘」を、いたずらとして言うこともありました。
しかし今度は、それを頭から信じられてしまったり、「楽しいいたずら」のつもりが「裁くべき虚言」として扱われたりすることもありました。

そのうち、確実性を説明できないことは言わない、というふうになっていきました。

感じたことをそのまま口に出すのではなく、根拠を言葉にできるまで黙っておく。

そういう癖がついたのだと思います。

それでも、何年か経ってから「やっぱりそうなったか」となる経験は、これまで何度もありました。

細かい違和感に気づく力と、それを論理立てて説明する力が組み合わさると、こういうことが起きるのだと思います。

ただ、それを口にした瞬間には、だいたい信じてもらえないですし、誰でも数を打てば当たりますし、そこをもって自分を特殊だとは思っていません。

■ CAARSで見えたADHD(注意欠如・多動症)傾向

↑ 落ち着きだけギリ平均・・・

ADHDについては元々自覚があって、何年も前に大きな失敗をして悩んだとき、心療内科にかかったこともありました。
そのときは、簡単な問診と心理テストだけでしたが、「典型的なADHDグレーゾーン」と診断されました。

今回は、CAARSという、より精密にADHDの傾向を見る検査をしましたが、やはり「不注意」と「衝動性」が平均より高く出ました。

世の中的には、たぶんASDよりもADHDの方が話題になりやすいと思います。
「片付けられない」「忘れ物が多い」「衝動的」みたいな話の方が、共感を集めやすい気がします。

そして、ぼくの中では、ASDとADHDは、一部では相反するように見えながら、内部的にはかなり地続きになっていると感じます。

ただ、世の中的に、この二つの違いは、まだそこまではっきり認知されていない気もしています。
(それぞれどう違うのかは、また追って説明していきたいです。)

今回出たADHD傾向も、いわゆる典型的なADHD像というより、VCIとPSIのミスマッチ、つまりASD由来の凹凸の結果として出ているものだと考えています。
(この違いも、ちゃんと言葉にする価値があると思っているので、また別の機会に詳しく書くつもりです。)

面白かったのは、「自己概念」の指標も高かったことです。

自己評価が安定しにくい、という意味なんですが、自分の見た目や性格について、良いと思う瞬間もあれば、そうじゃないと思う瞬間もある。

そのアンビバレントさは、単なる性格の癖というより、こうやって数値にも出てくるものなんだなと、妙に納得しました。

■ 説明のつもりが、攻撃として届くこと

ここまでの結果を見て、ひとつ痛いことにも気づきました。

ぼくの側では「説明」のつもりでも、相手の側では「攻撃」や「拒絶」として経験されていたことが、おそらく自覚より多くあったのだと思います。

誠実に、論理的に説明しているつもりでも、実際には相手を追い詰めていた。

ぼくの中で筋が通っていることが、相手にとっては威圧になり、拒絶になり、傷になっていた。

それに気づいてから、できるだけそうしたくない、という気持ちの方が強くあります。

ここは、前回書いた「誰も悪者にしない」という話ともつながっています。

ぼくが悪者だった、という話にしたいわけではありません。

相手が弱かった、という話にしたいわけでもありません。

ただ、ぼくの内側で起きていたことと、相手の内側で起きていたことが、別の現実として存在していた。

そして、そのズレに気づけなかった。

そこに、苦しみが生まれていたのだと思います。

■ 「境界線上」という感覚

ここまで書いて、ようやく「境界線上」という言葉がしっくりくるようになりました。

IQが20違うと会話が難しくなる、という話をどこかで聞いたことがあります。
よく言われる話ですが、もちろん、俗説の域を出ないと思っているので、鵜呑みにはしていません。

ただ、会話の速度や前提が合わない相手と話す難しさそのものには、実感として心当たりがあります。
だとすれば、平均的な人とも、かなり言語能力の高い人とも、ある程度言葉を交わせる位置にいるということでもあります。

PSIの79は、処理速度という領域に限れば、かなり低い数字です。
だから、「普通にできるはずのことができない」という苦しさも、実感として知っています。

天才でもなく、凡人でもなく、定型発達でもなく、典型的なASDでもなく、ADHDだけで説明し切れるほど振り切れているわけでもない。

全部、ちょうど境界のあたり。

だから、いくつかの世界のあいだを行き来してきた実感があります。

天才のことも、凡人のことも、処理速度の低さに苦しむ人のことも、NTのことも、ASDのことも、ADHDのことも、それぞれ部分的にではあるけれど、実感を伴って理解できるし、言葉にできる気がしています。

■ 社会人とバンドマンのあいだ

もうひとつ、ぼくには「社会人とバンドマンのあいだ」という感覚もあります。

社会のルールの中で生活しながら、音楽や表現の場では、少し別の価値観の中にいます。

会社や組織の中で求められる言葉と、ステージや表現の中で求められる言葉は違います。

社会人としてのぼくと、バンドマンとしてのぼくは、まったく別人ではありません。
でも、同じ場所に立っているわけでもありません。

ここにも、境界線があります。

だから、ぼくは「普通の社会」の中で生きる人の幸せや苦しさも、「表現する人間」の幸せや苦しさも、どちらも少しずつ知っている気がしています。

■ ぼくは「普通じゃない凡人」だった

ここまで書いてきて、自分のことを一言で表すなら、ぼくは「普通じゃない凡人」だったのだと思います。

天才ではありませんでした。

でも、ただ普通に生きていくには、少し凹凸がありすぎました。

障害者として守られてきたわけでもありません。

でも、何の困難もなく定型発達社会に適応できていたわけでもありません。

ASDとして見られてきたわけでもありません。

でも、定型発達者と同じ方法で世界を処理してきたわけでもありません。

ADHDだけで説明し切れるほど尖りきっている感じでもありません。

でも、不注意や衝動性や自己概念の揺らぎは、たしかにありました。

全部、少しずつ当てはまる。

でも、どれにも完全には当てはまらない。

だから、ぼくは「普通じゃない凡人」だったんだと思います。

■ なぜこのnoteを書くのか

このnoteを書いているのは、その翻訳を、ちゃんと言葉にしたいからです。

誠実にやっているつもりで、気づけば大切な人を傷つけていた。そのことに悩んでいる人にも。

逆に、ぼくのような人間に傷つけられて悩んでいる人にも。

どちらか一方を悪者にするのではなく、そのあいだに何が起きているのかを、できるだけ丁寧に言葉にしたい。

ぼくは天才だから、これが見えているわけではありません。

天才ではなかったから、そして、いくつもの境界線の上にいたから、見えているものがあるんだと思います。

次回は、この「境界線上」という感覚を、もう少しわかりやすい比喩で説明してみたいと思います。

NTとASDを、AT車とMT車にたとえる話です。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

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