物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 7
-カリン-
エルビエント山脈を下ってアルカン湖の傍を通ると、湖の上空にマカニ族の戦士たちが何人も旋回しているのが見えた。
皆、夜通しレンのことを探し回ってくれていたのだろうか。それとも、朝に交代した面々か。カリンはその中にガウラの姿を探したが見当たらない。
昨夜族長の家で食事をしてから戻ると、ガウラがセージを伴って訪ねてきた。二人とも暗い表情で、揃ってカリンに頭を下げた。カリンが幾らレンの無事を信じていると言っても、レンは自分の役目を全うしただけなのだと説いても、セージの今にも泣きだしそうな表情は変わらなかった。
レンの不在は、村のあらゆる場所に影を投げかけていた。
捜索の邪魔をしないようにそっと通り過ぎようかとも思ったが、地上にも隈なく目を配っている筈の戦士たちにそれは通用せず、近くに居た数名の戦士たちがカリンの近くまで降りてきた。
「アグィーラまで、気をつけてな。レンのことは俺たちに任せておいてくれ。必ず見つけるから」
「うん、ありがとう。無駄だって分かりつつ、私も此処に来るまで周囲を気をつけて見ていたけれど、やっぱりレンの手掛かりは何も見当たらなかった」
「そうか。……あまり気を落とすなよ」
「あの、ガウラさんとセージのことも気をつけていてあげてほしいの」
「勿論だ。その辺りはシヴァが心得ているさ。……じゃあ、俺たちは捜索を続けるから」
戦士たちと別れてアルカンの森へ入る。カリンは森の主の所へ寄っていくつもりだった。
「残念ながら、わしも力になってはやれぬ。風の化身は、今はわしの力の届かぬところに居るようじゃ」
レンが居なくなってしまったと話したカリンに、森の主はそう言った。
「レンは無事なの?」
「それも分からぬ」
「そう……」
「わしはな、カリン。未来は見えぬのじゃ」
「それは……見えるのは過去だけということ?」
「そう。よく考えてごらん。大地とは、物質の記憶の集積じゃ」
「大地は、物質の記憶の……集積……」
「そう」
なるほど。様々なものが堆積して大地は生まれる。それは確かに様々な物質の記憶そのものだ。動物も植物も、勿論人間も皆、土に還る。稀に形を残したまま石になる物質があり、それらは化石と呼ばれるが、それ以外のものたちも、風化し、分解され、最後は塵のようになって、大地の一部になるのだ。
森の主は、大地に張り巡らした大きな根を通してその物質の記憶を読むのか。植物の根が届く限り。しかし、では森の主の力の届かない場所とは何処なのか。
「でも、主様は今生きている人たちの記憶も読むでしょう?」
「ほっほっほ。記憶はすでに其処に存在するからのう。しかし未来はまだ無い。存在しないものは見えぬ」
「あ……」
違う。森の主が伝えようとしてくれていたのはそのことだけではない。
「分かったかね」
「レンは、生きているのね?」
「さてな。しかし、少なくとも大地の上では死んではおらぬ。さすれば風の化身の記憶も大地となろうからなあ。しかし……はて……何も感じぬとはどういうことか」
森の主なりに手掛かりをくれようとしていることは分かった。カリンは森の主に礼を言って、いつものように森の主の幹を抱きしめる。
此処は子供の頃から……レンに出逢う前から居た場所だ。
アグィーラへ向かう自分はもしかしたら、レンの不在から逃げているのだろうか。マカニから遠ざかるにつれて、余計にレンの不在の現実感が薄くなっていた。
しっかり、しなきゃ。
カリンは昨日から何度となく繰り返している言葉を再び心の中で呟いた。
自分がいよいよおかしいのだということは、ヨシュアに会って分かった。ヨシュアの表情が微かに不安そうだったのだ。
「どうかしたか?」
「あのね、ヨシュアさん。レンが居なくなっちゃったの」
「居なくなった?」
これまでの経緯を話したカリンを、ヨシュアは不安そうな表情で見詰めた。
「……ああ……そろそろお城に行かなくちゃ、陽が暮れてしまう……」
「おい、カリン、大丈夫か?」
「ヨシュアさん、私、やっぱり変?」
「いや……なんというか、これまでレンと何かがあったり、レンに何かあったりしたら大きく取り乱していたお前が、淡々と話していることが反対に心配だ。心が此処に無いようにも思える」
「そう……なのかもしれない。何だか、何もかもが現実感が無くて……夢の中に居るみたいで……でも、これは現実なのよね?」
「少なくとも……お前が俺のところを訪ねてきたのは現実だ」
「うん……とりあえず、お城へ行くわ。仕事はたぶんできるから」
「そうだな。また夜にでもゆっくり話をしよう」
人柱の夢を見ていた頃のように眠れないというようなこともなかった。昨日は早めに休んで、今朝もすっきりと目覚め、朝早くにマカニを出て来た。アグィーラへ向かう時のいつもの朝だった。
しかし、アグィーラに着いてガイアを降りた辺りからそうだったのだが、足元がふわふわして地に足がついていないように感じる。
城の門をくぐり、そのまま医局へ向かうと、薬師室は大きな騒ぎになっていた。いつもは退屈そうに受付に座って居るユウガオが珍しく立ち上がっていて、カリンが入って来たのを見ると大きく手招きをした。
「ユウガオさん、こんにちは。何かあったのですか?」
「お前、いい所に来た。ちょうど今、ワイから患者が到着したところだ」
「ワイからの患者?」
「医療事故だってさ」
「医療……事故……」
「今朝一番で、まずは伝令が来た。ワイでは手に負えない患者をアグィーラの医局へ送りたいという主旨だったのだが、蓋を開けてみれば所謂医療事故ってやつさ。麻酔の量を間違えたんだろう。術後に目覚めないままになっているそうだ。今、アオイ様が看てる。麻酔関連だからそのうち薬師にも声が掛かるぞ」
話を聞きながら、じわじわとことの重大性が感じられてきた。医院開放に向けて動いて来たワイで医療事故となったら、色々と風向きが変わるに違いない。しかも麻酔とはまた厄介だ。
「麻酔……我々の治験にも関係してくるでしょうか」
「俺たちにとっては寧ろ追い風さ。安易な全身麻酔の危険性を知らしめるいい機会だからな。しかしまあ、確かに麻酔そのものに焦点が当たってしまったらやりにくくなるかな」
「いずれにせよ、大きな事件ですね……あの、シレネ殿はいらしているのですか?」
「ああ、患者と一緒に来てた。ちらりと遠くから見ただけだけど、どっちが患者か判からないくらい憔悴してたよ。気の毒に」
それはそうだろう。エリカはどうしているだろうか。シレネに対してはどのような態度で接したのだろうか。
「あの、大変な時に何ですが、いつもの仕事は?」
「そっちもあるにはあるんだがなあ……」
ユウガオはいつも目録が置いてある棚に目をやり、小さく溜息を吐く。
「仕方がない。そんな気分ではないが、とりあえずお前に引き継いでしまおう。そうすれば、少なくとも俺の仕事がひとつ終わる」
にやりと笑うユウガオに、カリンは少しだけほっとした。ユウガオはいつもどおりだ。
薬草の処理室に入ると、少しだけ地に足がついたように感じた。此処は自分の居るべき場所だ。そう考えて自分自身で苦笑する。
自分は、何故いつも居場所ばかり探しているのだろう。
レンの居ない今それを考え始めてしまうと危険な気がしたので慌ててその考えを頭から追い出し、ユウガオから引き継いだばかりの目録をあえて音読しながら薬草に向き合った。
薬草の処理室の扉が控えめに叩かれ、カリンは我に返った。カリンの返事を待たずに入って来たのはユウガオだ。
「いくら何でも根を詰め過ぎじゃないか? そんなに急がなくていいんだぞ」
時計に目をやると、もうすっかり夕飯の時刻も過ぎている。
「すみません。集中していたらこんな時間に……」
「またおせっかいの虫が動き始めているんだろう」
「え?」
「いつもの仕事はさっさと終わらせて、アオイ様の手伝いだのワイのごたごたの手伝いだのをするつもりなんだろう?」
「あ……いえ……実はあまりそこまで考えてはいなくて……」
「ふぅん。まあいいや。今日はそろそろ終わりにしようぜ。ワイの患者も、今日は薬師まで話が来なさそうだ。明日に備えて今日はそろそろ引き上げよう」
そう言いながらカリンが印を入れた目録に目を通したユウガオが小さく口笛を吹く。
「おお凄い。よくここまでやったなあ。これで明日、医師たちから何か余計なことを依頼されても大丈夫そうじゃないか。優秀優秀」
薬師室にはすでに夜勤の職員以外居なかった。
カリンは遅くまで付き合ってくれたユウガオに礼を言い、共に薬師室を出る。よく考えたら、途中までとはいえユウガオと一緒に帰るのは初めてのことかも知れなかった。
「レン殿は元気か?」
当たり前ともいえるが、いきなり核心を突くような質問をされて、カリンは言葉に詰まった。
「どうした? 喧嘩でもしたのか?」
「いえ……それが……」
仕方なくカリンが事情を話すと、ユウガオは足を止めた。
「おいお前……いや、そうか……。まあ、マカニに居るよりはいいかも知れないな。なるほど。それであんなに必死に仕事に集中していたわけか」
「ええ、たぶん……」
「それは悪かったな」
「いえ……何だか、色々なことがよく分からなくて……」
「お前、どうする? 明日、薬師に声が掛かったらお前に行かせようかと思っていた。でも、そんな気分じゃないかな」
「いえ、私で良ければ行かせてください。何かしていた方が気が紛れるので」
「そうか。でもな、アオイ様ならきっと俺と同じこと訊くぜ? レン殿は元気かって。それで、事情を知ったら……」
優しいアオイはきっと心を痛めるだろう。カリンにも気を遣ってくれるに違いない。自分は、行かない方が良いだろうか。
また少し、足元が崩れてゆくのを感じたが、どうすれば良いのか分からない。
「お前、ごまかせない奴なんだよなあ」
レン殿は元気か?
ええ、まあ……。
そう答えられれば良いのだ。相手にとってはただの挨拶だ。本来ならばそれだけで済むのに、自分はつい、本当のことを答えてしまう。それが、相手の負担になることだと知っていながら。
思わず俯いたカリンの肩をユウガオがぽんと叩く。
「まあいいや、あまり考えなくていいよ。明日になれば俺が何か考えてやる。今日は忘れよう。その代わり、今日はよく休んでおけよ。明日何があるか分からないが、いつもより大変なのは確かだ」
いいな、休めよ。
何度も念押ししながら、ユウガオはいつものようにひらひらと手を振りながら、自分の家の方へ去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、カリンは再びふわふわと地上を漂うような足取りで、ヨシュアの家への道のりをひとりで歩き始めた。
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