物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 10
-レン-
レンは咄嗟に翼を開いた。
周囲が見えないので滑空は危険だ。その場に停止飛行できるように調整すると、右の翼がみしりと軋む。
折れる……
そう思ったが何とか持ち堪えた。小刻みに翼を動かしながら急いで懐中灯を取り出して辺りを照らすと、其処は最初に居た滝の広場に似た広い空間だった。足元にも滝の広場より少し小さめの湖のような水溜りが在る。ただし滝も無く、天井に陽の光の入る穴も見えないので最初の広場とは異なる場所だと知れた。
上方に目を遣ると、かなり上の方に先程までレンが居たと思われる細い横穴が見えた。下は固い岩だ。あそこから下まで落ちたとしたら無事では済まなかっただろう。冷たい汗が額を流れ落ちた。翼が機能して良かった。
その細い横穴の下辺りに少し大きめの横穴が見える。あれはきっと最初に歩いていた横穴だ。
そこまで考えて懐中灯の光が随分弱くなっていることに気がつき、レンは慌てて着地点を探した。滝の広場とは異なり、湖の岸にあたるような箇所は見当たらず、所々岩が突出している程度でほぼ空間一杯に湖が広がっている。仕方なくこれまで歩いてきたのとは反対側の壁にある通路らしき暗闇を目指して飛び、その入り口付近に在った岩に着地した。心許ない光を放つ懐中灯を奥へ向けると、どうやら其処はこの湖の水が下流に向かって流れている水路のようなものらしい。水源はきっとあの滝だろう。これまでレンが歩いてきた道の下を流れていたのだ。
少し考えた後、レンは背中の弓を手に取り、ゆっくりと水路の水に沈めた。弓身の半分程が水に浸かった時点で底にぶつかる。レンの腰より少し上くらいの深さだろうか。水に身体を浸すことは気が進まなかったが、泳がなくても先に進めそうなことには少し安心した。
この先がこれ以上深くならないことを祈りながら水に身体を沈め、ゆっくりと前へ進む。水はひんやりと冷たかった。さいわい水の流れの方向に進むのでそれ程抵抗は感じなかった。
水の中を随分進んだと思う。レンは急に水の流れが速くなったのを感じた。嫌な予感が頭を掠める。また、滝ではないだろうか。レンは周囲の様子を見ようと懐中灯を取り出したが夜光石はうっすらと光るばかりで、とてもではないが遠くを照らし出す力はなかった。此処で光も失うのか。
それでもぼんやりと光る懐中灯を頼りに暗闇に目を凝らした。水の深さは最初よりやや浅くなっていたが、流れは明らかにどんどん早くなり、ともすると足が取られそうになる。
やがてレンの目に、水が一点に流れ込んでいるのが目に入った。しかしその穴はレンの身体に比して小さい。立って進むことはできなさそうだ。あそこへ飛び込むのか? あの先が最初の滝の広場のような滝だったら? 自分はそこから落ちて再び無事でいられるだろうか?
あまりにも危険な賭けのように思われて、レンは穴の少し手前で翼を使った。この水路はそれほど広くはないが、ぎりぎり翼を広げられる程度の幅がある。天井は比較的高い。相変わらずぎしぎしと嫌な音を立てる翼を使って手探りで周囲の壁を調べて回る。
「あった」
安堵のあまり声が漏れた。
水が流れ込んでいる穴の上部の壁に、先程四つ這いで進んできたのと同じような横穴を発見して、レンは身体を滑り込ませた。
今度は何とかレンが壁にもたれて座れる程の高さの穴だ。しかしそれまで水の浮力に支えられていた身体は先程までにも増して重たく感じ、レンは俯せになったまま起き上がることができなかった。実際下半身は水に濡れ、衣服も重い。そのうち昨日感じたような寒さが襲ってくるだろうと思ったが、水気を絞る気力も無かった。
「僕は……マカニの……」
意識が途絶えたのが一瞬なのか長い時間が経ったのか相変わらず分らなかったが、レンは何かの気配で目を覚ました。
何か……居る……
魔物……ではなさそうだ。それは久しぶりに感じる生き物の気配だった。レンは神経を集中させる。レンにとって歓迎できる存在である可能性の方が低い。この重たい身体で、何とかこの場を切り抜けなければならない。それとも、とレンは思う。ついに自分の感覚は狂ってしまい、其処に居ない筈の何かを感じ取ってしまっているのだろうか。その可能性も無きにしも非ずだった。此処はまだ光の届かない鍾乳洞だ。生き物が居る筈がない。
いずれにせよ、レンに分の悪いことに、この狭い場所ではクマタカの弓本来の使い方はできない。高さが足りないのだ。レンは懐を確かめる。其処には水車小屋から持ってきた、邪魔な樹々の枝を落とすための小刀が入っていた。
突然、音もなく何かが顔の前に迫って来る気配を感じた。レンは自由の利く左手で鞘に収まったままの小刀を使い、それがぶつかるのを防ぐ。手ごたえがあった。足元でキィキィと鋭い鳴き声のようなものが聞こえる。
「蝙蝠……?」
レンがもっとよく見ようと顔を近づけると、致命傷は負っていなかったらしき蝙蝠は翼をばたつかせ、再びキィキィと鳴き声を上げながら穴の奥へと逃げて行った。それは確かに蝙蝠だった。
蝙蝠が居るということは、外に通じる穴が近くに在るのかもしれない。そう思って蝙蝠の後を追おうとすると、急に激しく動いたからだろうか、四つ這いになっていても酷い眩暈が襲ってきた。狭い天井と地面がぐるぐると回る。
レンは一度身体を地面に投げ出して深呼吸をした。
「もう……少しだ……もう少し……」
自分に言い聞かせるように呟く。
同時に、蝙蝠がやっと通れる程の小さい出入り口だったらどうするかという後ろ向きな考えが眩暈と共に頭を巡る。
「それでも、進まなきゃ……」
いずれにせよ前に進まなければならない。そういう意味では急いで蝙蝠の後を追う必要もなかった。今のところ道は一本なのだから。
眩暈は空腹のせいかもしれないと考え、レンは仰向けになったまま最後の食料を取り出した。食欲は全く湧かなかったが、すっかり水でふやけたそれを少しずつ口へ運ぶ。
食事を摂ったおかげなのか暫く休んだからなのか分からないが、身体を起こせるくらいに回復したレンは、右腕をしっかりと固定し直して再び四つ這いの姿勢になった。そのまま暗闇を奥へと進む。先程の教訓を生かして一歩一歩地面が続いていることを確認しながら進むので、随分進みが遅くなった。
もはや眩暈なのか痛みなのか吐き気なのか悪寒なのか、判別のつかない漠然とした不快感が全身を包んでいる。自分が助かりたいという思いよりも、単純にマカニへ帰らなければという思いだけがレンの身体を動かしていた。
無理な姿勢で神経を尖らせて暗闇を長い間進んでいると、時折ふわりと自分が宙に浮いているような感覚になる。そのまま奈落へ落ちてしまいそうだ。その度に声を絞り出して正気を保つ。
不意に闇の奥でキィキィと音がした。先程の蝙蝠か……いや、一匹ではない。想定外の数の生き物の気配を感じて、レンの背筋はぞわりと波立つ。蝙蝠の中には生き物の血液を主食とするものが居ると聞くが、先程見たそれがその種なのかどうか、レンには分からなかった。
無駄に生き物を傷つけることは避けたかったが、いずれにせよこのまま進めばレンの翼が彼らに触れる。どいてもらわないことには先に進むことができない。レンは立ち止まり、背中からクマタカの弓を手に取った。弓を立てて構えることはできないので、穴の高さぎりぎりに斜めに立てかけて固定する。右手が不自由な今のレンには、この方が力を使わなくて良いので好都合だった。蝙蝠たちの気配を感じる位置と必要な発射角度を計算して矢をひっかけ、倒れてこないよう左手で弓身を支える。動きの鈍い右手に体重をかけて押し下げるように弦を引き、矢を放った。
突然飛んできた矢に、蝙蝠たちはキィキィと激しい警戒音を出し、バサバサと天井から離れて飛び回る気配がした。レンは可能な限り連続で矢を番え弓を放つ。数匹が此方へ向かってきたが続けて飛んでくる矢に怯み、暗闇の奥へと逃げていった。
十本程矢を放ったところで蝙蝠の気配は絶えた。逃げた蝙蝠たちの声も聞こえないところをみると、穴はまだ随分遠くまで続いているらしい。レンは、たったこれだけ弓を引いただけで荒くなった自分の呼吸に苦笑した。
弓を再び背中に背負い、呼吸を整える間もなく四つ這いになる。蝙蝠たちが戻ってくる前に少しでも前に進まなければ、追い払わなければならない頻度が高くなる。右腕の感覚はほとんど麻痺していた。
狙いどおり蝙蝠自体に矢は当たらなかったようで、蝙蝠の身体が地面に落ちている様子は見受けられない。念のため下に落ちている矢を回収しながら先へ進んだ。
しかし、いつまで経っても先程の逃げた蝙蝠たちの気配がしないことに、レンは次第に不安を覚え始めた。
もしかしたら、これまで進んできた何処かに天井から縦に延びる穴があって、蝙蝠たちは其処から上方へ逃れたのではないか。前ばかり向いて進んできた自分の迂闊さを呪う。しかしこの道も先はまだ続いていそうだ。一度戻って再度天井を確かめながら進むか、このまま前進するか、暫く迷った。
そもそも……
そもそも、先程見た蝙蝠は現実のものだったのだろうか。あれは、長い間暗闇の中をひとり進んできた自分の頭が見せた、幻覚だったのではないかとすら思った。
「落ち着け……」
レンは一度四つ這いの姿勢を解き、壁に寄りかかって座った。左手で膝を抱えて顔を埋める。当然そうしても目の前は闇だ。可笑しくなって思わずふっと笑いが漏れる。
しかし……これは、自分が作っている闇だ。自分で操作できる闇だ。そう考えると、少しずつ心が落ち着いてゆくのを感じた。外側の闇と、自分の中の闇が切り離され、自分の輪郭がくっきりとしてくる。
先程見た蝙蝠が幻覚だったとしたら、取り得る選択肢は前へ進むことだ。幻覚でなかったとしたら、それでも前に進むか、他の道を探すか……。
上方へ延びる穴があったとして、レンが見逃す程の穴ならば、レンが翼を使って上がれる大きさのものとは思えない。岩を這い上がる力は残念ながら今のレンには無いだろう。それならば、先に進むのが採るべき最善の方法だ。蝙蝠たちの出入り口がその上方の小さな穴だけだったとしたら……それでも前に進むしかないのだ。レンは自分が外へ出られる出口を探さなければならない。蝙蝠と出会う前と何ら変わりないではないか。
レンは溜息とも深呼吸ともつかない息を吐き出して再び四つ這いの姿勢をとった。
「僕は、マカニの戦士だ」
そう言葉にして、今度はしっかりと深呼吸をする。あとどれくらい先に進まなければならないか見当もつかない。もしかしたら此処が行き止まりで、最初の分岐点まで戻ってやり直しかも知れない。それでも、力尽きるまでは前に進むのだ。それが今の自分にできる、たったひとつのことだった。
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