物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 14 ルクリアの話
-ルクリア-
看護師にならないか。
エリカから持ち掛けられたその話を、ルクリアは断った。
エリカの提案を断ることなど、以前のルクリアならば考えもしなかっただろう。それはきっと、自分の中に自分が居なかったからなのだと思う。
ワイに、大きな医院ができるのだそうだ。運営に人が必要なので、現在雨乞いの宮で働いている雨乞いの女たちは皆、その医院で働くことになるらしい。
ルクリア自身は、数年前に農家である夫と一緒になり、既に雨乞いの女としての仕事は殆どしていなかった。ただ、水の化身でもあるので、雨乞いの女としての籍は残っていたのだ。
発電の方法が確立されたこの現代においては、雨乞いの女に意味が無いのだということは、カリンに聞いた。その時には確かに途方に暮れたが、幸いその時、ルクリアの側には「それでもいい」と言ってくれる今の夫が居た。
雨乞いの女に意味が無くなったからというわけではないが、少し考えた後、農家に嫁ぐことを決めたのだった。
農家の一日は忙しい。
ルクリアが嫁いだ家のある地区では、主に野菜を育てている。盛夏のこの時期は、春撒き野菜の収穫と、秋撒き野菜の苗の準備が同時に必要であるため、最も忙しい時期と言って良かった。
朝、日が昇るか昇らないかの時間に起き出し、食事も摂らず畑へ向かう。二時限ほど仕事をしたら、夫を残してルクリアはいったん家に戻り、朝食の支度をする。それから夫の帰りを待って、漸く少しゆっくりと朝食を摂ることができる。
その後夫は再び畑へ出かけてゆき、ルクリアは家の用事済ませる。昼頃になると弁当を作って畑へ行き、午後はルクリアも畑仕事に参加する。
日が暮れる頃にはくたくただ。これでも漸く慣れてきたのだが、最初の頃は陽の高い日中帯に作業をしていて体調を崩したことが何度もあった。
雨乞いの女が必要と考えられていた時は、婚姻後も雨乞いの女を続ける者が殆どだった。その方が圧倒的に待遇が良いからだ。
必要性が無いと分かった後も、エリカはすぐには制度を変えなかったが、ルクリアは自ら進んで農家の仕事に参加することに決めた。その決断は、ルクリアにとっては大きな冒険だった。
農家との婚姻や、雨乞いの女の職を辞することを決断することができたのは、水の化身としての経験が大きい。
初めてワイの町を出てアグィーラへ行った時、その自由さに眩暈がした。
男女が気軽に話をしているのを見るだけで驚いたが、当然化身の仲間の中には男も女も居た。まさか自分がその輪の中に自然と溶け込んでゆくとは思わなかった。
そしてルクリアは初めて恋というものをした。
今考えるとあれが恋だったのかどうか怪しいが、おそらく恋とはそもそもそういうあやふやなものなのではないだろうか。
レンと話をしている時の自分は、それまでの自分とは全く違う気がした。他の誰と一緒に居る時とも違う心持ちがしたのだ。
レンならば、自分を変えてくれると思った。
その気持ちが、もしかしたらただ単に、ワイの厳しい掟から抜け出したいが故の願望かも知れないと気がつくのに、そう時間はかからなかった。
それでも、誰かを見ているだけで心臓の鼓動が早くなったり、話をするだけで心が高揚したりする経験は、後にも先にもあの時だけだった。
今の夫に感じるのは、この上ない安心感だ。
誰かと長く一緒に居る為には安心感が必要なのではないかと考え、夫を選ぶことができたのも、あの時の経験があったからだと思う。
それが無ければ、ルクリアはいつまでもワイの掟を嫌い、自由な恋に憧れてばかりいただろう。
気がつくことができて良かったと思う。
ルクリアの中に、しっかりとした自分が息づき始めたのはその頃からだった。だから今回は、その自分の心に正直に、エリカからの提案を断ったのだ。
断った際、エリカはいつもの妖艶な笑みを浮かべて、「そう、残念だわ。」とだけ言った。以前は恐ろしくて仕方のなかったエリカのその微笑みが、その時は祝福の微笑みに見えた。
「王の生誕祭はいつだったかな。」
夫であるクルクマの問いに、ルクリアは八月の十五日だと答える。あとひと月ほどだった。
「忙しい時期に、申し訳ありませんわね。」
「いや、いいのだよ。私はまさかルクリアが畑の手伝いをしてくれるようになるなんて、考えても居なかったのだから。」
「雨乞いの女でしたものね。」
「それだけではない。水の化身だ。最初、縁談の話を貰った際には心の底から驚いたよ。」
「農家はワイで一番安定した職業ですわ。」
「しかし、より安定しているのは穀物を作っている所だろう。野菜は他の地域でも採れるが、穀物を大規模に栽培しているのはワイだけだ。まさかうちに声がかかるなんて思わなかった。」
「戸惑いましたかしら。」
「戸惑ったというか…初めて会うまでは緊張していたよ。雨乞いの儀式の際に雨乞いの女たちを遠くから眺めたことはあったが、当然話をした事は無い。先代の水の化身はエリカ様だろう?ついついエリカ様のような人物を想像していたんだ。」
「ふふふ。それは気の毒でしたわね。」
「会ってみたら、別の意味で心配になった。こんなに儚げな女性と暮らしていけるのだろうかと。でも話しているうちに、意外と芯は強いのだということが解ってきて、すぐに安心した。」
「一応命懸けのお役目でしたのよ、水の化身。それなりの覚悟は致しましたわ。」
「そうだなあ。私より、よっぽど強いのかもしれない。」
婚姻を決めた際、ルクリアは闇の浄化へ至るまでのすべてをクルクマに話していた。レンへの恋心を除いては。
聖なる貴石を守る方法を考えつかなければ、自分が人柱になるのだということをカリンから聞かされた時、ルクリアは最初上手く理解ができなかった。それはまるで、どこか遠くの国の物語を聞いているようだった。
そんなことよりも、もう少ししたらこの自由なアグィーラを離れ、再び窮屈なワイへ戻らなければならないのだということの方が、ルクリアの心を占めていた。ルクリアは、対闇使だったカリンに、化身同士が集まる機会を増やしてくれと頼んだ。
その後は、人柱の意味を理解すると同時に、アグィーラで化身の仲間と会う度に、ルクリアの中の自由への憧れは大きくなっていった。
このまま人柱になるのと、一生窮屈なワイで暮らすのとどちらが良いかしら。本気でそんなことを考えていたのである。
人柱になるならばレンも一緒だった。愛した人と一緒に人柱になって、その後三百年、共に役目を果たす。それは必ずしも悲劇だけの物語ではない気がしていた。
今考えれば稚拙な感情だと思うが、当時のルクリアは切実だったのだ。そしてこの妄想のおかげで、ルクリアは命を失うかもしれない事態に取り乱すことは無かった。
闇が浄化された後、初めてカリンの想いを知った。
そして、敵う筈がないと一瞬で理解した。
自分で道を切り拓いていくカリンと、誰かに頼ってばかりの自分。
更には、自分の想いにすら、自分で責任を持たずに居たのだから。
ルクリアはその時初めて、自分と同じ立場であった筈のエリカのことを考えたのだった。エリカは特別なのだとずっと思っていた。けれど、そんなわけはなかったのだ。最初から強い人など存在しない。エリカは今のエリカになる為に、どれ程の経験と努力をしたのだろうか。
それならば自分も、今からでも遅くないのではないだろうかとも思った。仮令カリンやエリカには追い付けないとしても、今より少しは、本当の意味で強くなれるのではないかと思ったのだ。
そう気がつくことができた自分を、褒めてやりたいと思う。
その気持ちを持って戻ったワイは、これまで暮らしてきたのとは全く違う町に見えた。
そして、その更に一年後、ワイの町は本当に変わった。
雨乞いの女に意味が無いのだと分かったのと同時に、エリカがこれまでの古いしきたりを撤廃してしまったからだ。
これまで異性間の交流を厳しく制限してきた法は改訂され、男女完全に別れていた公共の施設も統一された。当然親同士が配偶者を決める義務もなくなった。ただ、義務が無くなったからと言って、人の心がすぐに変わることはなく、未だにワイで自由恋愛で結ばれた人を知らない。
ルクリア自身は、その法改正の狭間にあって、自ら、親の決めた相手と一緒になることを選択した。自由な眼で改めて見詰め直した相手が、自分に必要な相手だと分かったからだ。
カリンは相変わらず国の様々な問題に関わり、各地を渡り歩いているようだ。勿論レンも一緒に。
イベリスやネリネも時折そこに顔を出しているようだが、ルクリアは正式に城から呼び出しがかかる時以外は、できるだけ距離を置くようにしていた。
目の前の生活が忙しく、充実しているからだというのもひとつの理由だが、自分の能力を認識していたからでもあった。
他の化身たちは皆、何か特技を持っている。例えば、ワイ族であるルクリアは武力を持たないが、他の四人は自らの身を守る術がある。
自分は、カリンのような賢さと勇気も、レンのような柔軟な心も、イベリスのような明るさも、ネリネのような強い意思も持ち合わせてはいない。
大地を癒す力も無ければ、空も飛べない。貴石を探す能力も無ければ火山を鎮めることもできない。
かつて雨乞いに必要だった力は、最早不要になってしまった。
自分のやるべきことは、悪戯に難しい国の問題に関わって皆に気を遣わせるよりも、農家である夫を助け、エルアグアのひとつの大きな事業である農業に力を注ぐことだ。
そう。新しい医療という事業の他に、ワイ族にはずっと昔からエルアグア地方のみならず、国の食糧庫を支えてきた農業という一大事業があるのだ。そこに関わることができることを誇りに思おうと思った。
だから、ルクリアは看護師にならないかというエリカの誘いを断った。
「今後、水の化身も医療従事者から選ばれますのかしら。」
そう考えるとなんだか可笑しくなって、ルクリアはくすくすと笑いを漏らした。クルクマは穏やかな笑顔で否定する。
「それは無いのではないかと私は思う。寧ろ、農家が見直されるのではないだろうか。農業は、自然の恵み…特に水に左右される仕事だ。水が多すぎても少なすぎてもいけない。だからワイ族は昔から治水に力を注いできたのだよ。その象徴が雨乞いの宮であり、雨乞いの女たちだった。そうだなあ、そう考えると、ルクリアが農家へ来てくれたのは、その前兆だったのかもしれない。ルクリアがうちへ来てから、水害も旱魃も起きていない。私にとっては水の女神様だよ。」
「買い被り過ぎですわ。申しましたでしょう?わたくしが貴方の元へ嫁ぐ前、カリンが雨乞いの秘密を解き明かしましたの。ですから、治水が上手くいっているのですわ。」
「それでもいいのだ。私にとっては同じことだよ。」
それでもいい。
クルクマは、雨乞いの女が必要ではなくなった際にもそう言ってくれた。自分は決して、雨乞いの女と一緒になりたかったわけではないのだからと。
他の化身のように特別な力は無いのだと話した時も、その方が安心だ、と笑った。
「わたくしにとっては、貴方の方が特別な力を持っているように感じますわ。」
「ほう。それはどうして?」
「作物が良く育つ土を知っている。種を蒔く時期や、苗を植える間隔、間引く葉っぱの量、必要な日照時間、水の量、葉や茎の状態、収穫の時期まで、野菜ごとによくも全部把握していると感心しますの。美味しい野菜を生み出す魔法を使っているみたいですもの。」
「ははは。それは長い長い経験が成せる業だよ。私の代だけではない。ずっと昔から、少しずつ積み重ねてきた知恵の集大成だ。」
「それならばわたくしでも、時間を掛ければ魔法を使えるようになれそうですわね。」
「なれるとも。ルクリアは真面目だから、すぐに使えるようになるさ。」
やはりここが自分の居る場所だ。
ルクリアは心からそう思った。
水の化身は、闇の浄化のお役目が無い時期であっても、比較的若い世代の各種族の代表の意味合いがある。その役目は果たすつもりだ。
城から召集がかかれば参上するし、ワイへ公使が来た際には相手をするのも苦ではない。
何より、化身の仲間たちのことは皆大好きだったから、時々会うことができるのはルクリアも嬉しかった。
あの仲間たちと居る少しの間だけ、ルクリアは種族も性別も立場も関係なく、心の底から自由な気持ちで友情を交わすことができる。
仲間たちはルクリアの過去の稚拙さを受け入れてくれ、非力なルクリアを責めもせず、いつだって対等に扱ってくれた。
現在でも、農家でのルクリアの生活の話をすると、興味深そうに聞いてくれる。半分呆れながら皆の武勇伝を聞くのも楽しい。
それは、自分にはできない何かを羨む為のものではなく、今の自分の地に足のついた生活を改めて感じる為のものだった。
人の動く気配を感じて目が醒める。
窓の外はまだ薄暗かった。
夫は不思議とその日必要な時間に目覚めるので、その夫がベッドから出る気配でルクリアは目を醒ます。
「おはようございます。」
「おはよう。今日はトマトの収穫だから少し早いよ。大丈夫かい?」
「勿論ですわ。すぐに支度しますわね。」
まだ薄暗い道をクルクマと二人で歩く。それぞれ必要な荷物を持っているので、手を繋いだりはしないが、そこには程よい安心感があった。
畑へ向かう途中で、同じ地区に畑を持つ人々が次々に合流した。同じ地区に畑を持つ面々は、自分の畑の世話をするだけではなく、相互に助け合っている。それも、長い時間の中で自然に生まれた関係のようだった。
ルクリアは、その共同体の中にもすぐに受け入れられた。クルクマも言うとおり、水の化身ということで最初は随分気を遣われたが、ルクリアが積極的に関わろうとすると、すぐにその壁は崩れた。
昔の自分だったら、気を遣われるがままにこちらも遠慮して、いつまでたっても農家の人間にはなれなかったと思う。
そして、自分は農家にはなれないのだと悲観して、まだ残っていた雨乞いの女としての庇護の下に戻っていたかもしれない。
クルクマはそれでもいいと言ってくれそうではあったが、そんな状態で、今のような満たされた生活が送れているとは思えなかった。
結局は自分の意思なのだ。
守ってもらうのが当たり前だった雨乞いの女。
あの時、気がつくことができて本当に良かったと思う。
気がつかせてくれたレンには、礼を言わねばならない。
レンは、その話はもう止めてくれと言うだろう。カリンはそれを見てくすくす笑うのだ。イベリスはレンを揶揄い、ネリネがそれを諫める。レフアは困ったような笑みを浮かべ、その隣でローゼルはいつもの難しい顔をしているに違いない。
来月のレフアの生誕祭で、皆に合うのが楽しみだった。
