物語の欠片 象牙色の城郭篇 12
-レン-
イヌワシの岩へ到着すると、確かに厚い雲が眼下を覆っていた。スグリの言うとおり、夕焼けに映える雲海を見ることができるかもしれない。
スグリはいつもの飄々とした雰囲気で、この辺りかな、と言いながら先に腰を下ろした。レンは黙ってその隣へ腰を下ろす。
「で?俺の翼の話を聞きたいって言っていたな。」
「スグリさんは僕に何か話があって待っていたんじゃないの?そっちが先でいいよ。」
「いや、特に。暇だったから待っていただけだよ。」
「何それ。…まあいいや。じゃあ改めて訊くけど、スグリさんの翼は誰が造っているの?」
「父だ。」
「ああ、やっぱりそうだよね。カラタチさん、翼技師だもんね。でも、あそこの工房で造っているものに見えなかったんだ。カラタチさんが働いているの、ポプラさんの実家…カタクリさんのところだよね?」
「特別仕様だからな。これは、父の意地の結晶だ。」
「なるほど。工房で標準的に造っている翼とは別に、スグリさん専用に造っているんだね。それなら納得だ。」
レンは疑問が解消してすっきりしたのだが、スグリの表情は曖昧だ。何かを迷っているように見える。スグリにしては珍しい表情だった。
「ねえスグリさん、やっぱり何か話したいことがあるんじゃない?」
「…まあ、別に話さなくてもいいんだが、お前がポプラと親しいから話しておいた方がいいかもしれないと思ってさ。」
「ポプラさんに関すること?」
「実は従弟なんだ。」
「え?ポプラさんが?スグリさんの?…ということは…。」
「ポプラの父親が俺の父の弟。」
「弟?」
「弟が工房を継いで、兄はその下で働いている。あまり格好いいことではないだろう?だから…父はそれが話題になることを好まない。まあ事情は色々あるらしいが。ポプラは、多分俺と従兄弟であることを知らないと思う。兄のトネリコの方は知ってるけどな。」
「そんなことって…。」
マカニならば、あり得ないことではなかった。マカニは小さな村だ。村人たちは皆、家族のように関りが深かった。その分、親族との差があまりない。子供たちは成人すると独り立ちして自分の家を持つ。その時点で、たとえひとりであったとしても親とは別の家庭を作ったことになる。核家族として親との結びつきは残るが、”親族”という考え方はあまりないのだ。まるで鳥の巣立ちのようだと最近学んだことに関連してふと思う。
だから村の中では、誰が誰の子供であるということは知っていても、誰と誰が親戚とは普段意識しない。意識する必要性が無いのだ。誰かの家に子供が生まれたり、病になったり、怪我をしたり、手伝いが必要となれば村全体で協力をする。
レン自身、ミントにもスミレにもそれぞれひとりずつ姉がいることは知っていたが、叔母というよりは村人のひとりとあまり変わらぬ意識である。
例えばアグィーラ人は、職業が基本的に世襲制であり、血統を強く意識する民族だ。王家でなくとも、何世代前までも続く家系図があるのだという。
ポハク族は女系を軸に一族が同じ敷地内に居を構えるなど、親族の繋がりが深かった。もっともその慣習に関しては、パキラがイベリスを解放するために無くしてしまったが、ほとんどの人々がまだその慣習に則って暮らしているだろう。
それらに比べたら、マカニは親族の繋がりがぐっと薄いと思う。
それにしても驚いた。まさかスグリとポプラが従兄弟同士だったとは。
「ポプラが生まれたのは俺が三歳の時だ。ちょうどその年、工房の後継者問題が勃発した。まあ俺も小さかったから何も憶えてないが、父の話を信じるとすれば、技術に拘った自分は後継者に選ばれず、経営に力を入れた弟が工房を継ぐことになった。独立も考えたそうなんだが後継ぎになれないくらい経営の能力が無いわけだから、独立したとしてやっていけるか分からない。結局弟の下に甘んじる形になったらしい。」
なんだか最近ポプラに聞いた話に似ていると感じた。結局技術が進歩しても人の営みはあまり変わらないのかもしれない。ひとまずスグリの話を全部聞くことにして相槌を打つ。スグリは話を続けた。
当時その他の工房と大差の無かった工房を、今では村一番の大きな工房に育て上げたのは、確かに現在の工房主である弟のカタクリ、つまりポプラの父親なのだそうだ。それ以前はそこで働く技師はそう多くはなかった。二人のしがらみを知る者も少なかった。だからスグリの父であるカラタチは、カタクリの兄であることをなるべく隠すことにした。カタクリも、兄の気持ちを汲んでそれに協力した。二人とも成人済みだったから、それはそう難しいことではなかった。次第に、他の村人も二人の間柄を気にしなくなった。
スグリの父は、弟の「多くの人に一定以上の品質の翼を届ける」という理念に反対はしなかったが、自分の技師としての腕を試したいとずっと思っていた。それを結集させたのがスグリの翼なのだった。
「俺が翼技師ではなく戦士になると言った時、最初父はがっかりしたそうだ。俺が技師になるなら、その時点で独立して二人で工房を持ってもいいと考えていたみたいだな。そしてこの話をしてくれた。まあ勿論そんな話で俺の意思は変わらなかったが。…だってそうだろう?聞くだけで面倒な話だ。面倒なことが嫌いな俺は、孤独が許容される戦士を選んだってわけだ。」
「でも今ではカラタチさんも誇りに思っているんじゃない?マカニ有数の飛行の名手が、自分の造った翼で飛んでいるのだから。」
「その通り。俺がこの翼を身に着けて戦士として活躍することが、父の生き甲斐になった。」
ああ面倒くさい、と言いながらスグリは空を仰いだ。空は、うっすらとオレンジ色に染まり始めていた。スグリの深緑色の翼にもオレンジ色の光が射す。緑にオレンジを混ぜたら茶色っぽい色になるはずなのに、不思議なことに、それは鮮やかな緑色に見えた。
「ポプラさん、工房の跡継ぎ問題で悩んでたよ。」
「だろうな。」
「スグリさんはポプラさんとは親しいんだっけ。従兄弟としてではなく。」
「両親があそこの工房で働いていたから、子供の頃は俺もしばしば遊びに行ったんだ。ポプラとはよく一緒に遊んだ。トネリコよりは気が合ったよ。でもあいつは、早くから技師の仕事を憶えることに夢中になったから、次第に疎遠になった。俺も訓練場に通い始めたら工房からは足が遠のいたし、何しろその頃には俺はいっぱしの面倒くさがり屋になっていたしな。」
「スグリさんが心配してたって伝えておくよ。」
「余計なことはするな。お前が相手をしてやっているならそれでいい。」
「味方は多い方がいいと思うけどなあ。」
「あいつはそうでもないだろう。ひとりでも味方が居れば頑張れる。なんなら自分ひとりでも何とかしてしまう種類の人間だ。」
「暗躍型。」
「そう、暗躍型。」
「僕の周りには暗躍型が多いみたいだよ。」
「お前みたいなのは一緒に居て楽なんだよ。」
「何で?」
「面倒くさくないから。」
「それはスグリさんの基準だ。」
レンが笑うとスグリも声を出して笑った。漸く笑った、とレンは思った。それは、いつもの余裕の笑みではなく、心の底からの笑いに感じられた。
スグリは、シヴァの前ではこれまでもこんな風に笑えていたのだろうか。
そう尋ねようとした時、スグリが突然立ち上がった。
「見ろよ。」
立ち上がったレンの目に、一面オレンジ色の雲海が飛び込んできた。
雲海とはよく言ったものだ。レンはつい最近海というものを知った。雲海と名付けた人は、海を知っていたのだろうと思う。ただ、本物の海は夕日を反射して眩しくて、目を開けているのがやっとだった。雲海はもっと穏やかに眺めていることができる。
そう長い時間ではなかったが、陽が沈み、雲がその光を映さなくなるまで、二人は黙ってその様子を見詰めた。その間、少なくともレンは、今抱えているすべてからひと時だけ解放されたように思う。
ふと気がつくと、雲は疎らになっており、その雲の向こうに朧げな月の灯りが見えた。
「…スグリさん。どうしてイヌワシの岩だったの?もしかしてこれまでもたまに来てた?」
「いや、ほとんど来た記憶は無いな。ただなんとなく、来てみたくなったんだ。いつも真っ直ぐなお前の、特別な場所とやらに。」
「どうだった?」
「よく分からない。でも、雲海は良かったな。」
「本当は他にも何か思うところがあるんじゃないの?ポプラさんのことだけ?」
「何だよ、お前も面倒なやつになるつもりか?」
「今日だけはね。…スグリさんは、シヴァさんの前では本気で笑う?」
「何だそれは。俺はいつでも本気だ。本気で面倒を回避しにかかっている。」
「ああ、なるほど。」
「シヴァは面倒なやつだ。マカニの中でも一番面倒なやつかもしれない。言っただろう?根負けして仲良くなったんだって。」
シヴァはスグリが友人になるというまで毎日つきまとい、友人にならない方が面倒だぞと脅したのだという。当時の二人を想像すると可笑しいが、お互い真剣だったのだろうと思う。
不思議な信頼関係だ。羨ましくもあるが、謎でもある。
「色々な意味でシヴァは特別なんだよ。」
「そうだね。僕にとってもシヴァさんは特別な人だ。」
シヴァはレンにとってずっと、一番身近な憧れの人だった。族長のことも心から尊敬しているが、自分からは遠すぎて、どう考えても自分が族長のようになれるとは思えない。
あの、昏い昏い湖の底のような、果てしなく黒く深い瞳。
一度だけ見たあの表情を思い出すと、レンはいつも無防備な子供のように心細い気持ちになる。自分の無力さを思い知らされる。自分には決して手の届かない湖の底。
「…族長は…。」
呟いたものの、自分でも何が言いたいのかよく分からなかった。
「族長は族長さ。俺たちは、俺たちのできることをやろう。」
「そうだね。…何だか癪だなあ。」
「何がだよ。」
「今日は僕がスグリさんの話を聞いてあげようと思ってここに来たのに、結局僕の方が色々すっきりしたような気がする。」
「十年早いよ少年…というのは嘘だ。俺もすっきりしたよ。」
「本当に?」
「ああ。お前はまた、シヴァとも違う意味で貴重な人間だ。」
「面倒くさくないから?それって単純ってことじゃないの?」
「悪いことじゃないだろう。少なくとも俺からすれば最大の賛辞だ。憶えておけ。…さて、そろそろ帰って休まないと、明日シヴァに叱られるぜ?」
スグリは愉快そうな表情でそう言うと、レンの返事を待たずに羽ばたいた。訓練場まで競争だと言って先に飛び始めるスグリを、レンは仕方なく追いかけた。
そしてレンは、結局のところスグリとこうして競いながら飛ぶことを、楽しいと感じてしまうのだった。単純。そうだった。自分は子供の頃から複雑なことが苦手で、できるだけ複雑にならないように生きてきたのだ。
関わる人が増えて、関わることが増えて、知らず知らずのうちに自分も複雑になりかけていたかもしれない。単純。それはある意味自分の心に素直だということでもある。自分のことだけは見失わないようにしよう、レンは改めてそう思うのだった。
