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物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 10 アオイの話

-アオイ-

 アオイの一日は、ほぼ城門の内側で完結する。
 朝、官舎を出て少しだけ城の中庭を散歩する。その後、官吏食堂で朝食を食べてそのまま医局へ向かう。
 稀に城の外で会議があったり、動けない患者を訪問診察したりもするが、仕事の殆どが医局の中であり、昼食も夕食も特別な約束がない限りは官吏食堂で済ませる。夕食が済めば官舎の自分の部屋に戻るだけである。
 一人の時間はひたすら本を読んでいる。
 おそらく他人から見たら相当につまらない日々に映るだろう。しかしアオイは今の自分の生活を気に入っていた。
 休日は城の図書室へ行くか、あるいは気が向けば外へ散歩に出ることもある。必要に応じて買い物をしたりもする。
 アオイの存在は比較的人に知られているので、挨拶をしてくる者も多いが、知られているが故に深い話をしてくる者は居ない。
 アグィーラの医局長の息子として生まれ、普通に生活していればいずれ、医局長を継ぐことを約束されながらにして、その人生を棒に振った愚かな男。
 アオイが家を出た詳しい理由を知る者は居ないだろうが、母親リリィの怒りに触れたのだということは皆推測していると思う。あれ程までにアオイの将来に固執していた母親が、途端にアオイのことを無視し、アオイが家を出て間もなく養子探しを始めたのだから。
 「この家を出ようと思います。」
 ツツジリリィが揃っている夕食の席でアオイがそう静かに宣言すると、父親は片方の眉を上げ、母親は顔色を変えた。
 「一人暮らしをしたいということか。まあ、お前はもう中級官吏だ。ひとり立ちするのも悪くあるまい。」
 「ちょっと待ちなさい。貴方、おかしなことを考えているのではないでしょうね。」
 「おかしなこととは何でしょうか。」
 「あの女と一緒に暮らそうなんてことを考えているならば、絶対に許しませんよ。」
 「…カリンは私に興味などありません。父上の仰るとおり、一人で暮らすつもりです。このままこの家に居たら、私は人間ではなくなってしまいます。私はきちんと自分の生を生きたいのです。」
 「なんてことを言うの!」
 「リリィ、少し落ち着きなさい。」
 「落ち着いていられるわけがないでしょう?一人暮らしなんかしたら何を始めるか分かったものではないわ。貴方は余計なことをしている場合ではないのよ。先日も貴方とあまり年の変わらない官吏がひとり、上級官吏試験に受かったと聞きます。貴方も…」
 「それが…嫌なのです。もう私は、母上の操り人形では居たくない。私は今のところ上級官吏になるつもりはありません。親子の縁を切ると言うならば切っていただいて構いません。いずれにせよ私はこの家を出ます。」
 母親は怒りのあまり言葉を失った。呼吸の仕方さえ忘れてしまったような母を、父は使用人に申し渡して部屋へ連れて行かせた。
 「いつから考えていた。」
 「…鬱々とした気持ちはずっと抱えてきました。しかし先日、私の中で、何かが決定的になったのです。」
 さすがにその時は、闇に心を売ったのだとは言えなかった。
 「そうか。」
 「ここまで育てていただいた御恩を忘れたわけではありません。しかし、それ以上に、このままではいけないという思いが大きくなってしまいました。」
 「思えば…お前が自分で何かを決断したのは、これが初めてのことかもしれんな。…好きにすればいい。ただし、今後この家からの援助は無いと考えた方がいい。」
 「元よりそのつもりです。」
 「リリィが何かしようとしても私は止めんぞ。あれはあれで、思うところがあるだろう。」
 「…はい。」
 アオイを支配下に置くことに慣れており、暫く放っておけば考えを改めるだろうと高をくくっていた母は、いつまでたってもアオイが戻らないことに業を煮やし、何度も医局へ詰めかけた。それで、医局の人間にはアオイが家を出たことが広く知られてしまった。父は宣言したとおり、それに対して何もしなかった。
 母は、アオイが本気で家に戻る気が無いのだと理解するとぱたりと来なくなった。その代わり、あからさまに法務局へ通い詰め、堂々と養子探しを始めたのだった。
 アオイはそのことに特に傷ついたわけではなかったが、周囲は次第にその話題に触れなくなっていった。

 「あの…。」
 新薬の治験の計画を練っていると、遠慮がちに声を掛けられた。机から顔を上げてアオイは少し驚いた。そこにセダムが立っていたからだ。
 アオイが家を出た後、代わりに養子として迎えられたセダム。アオイよりも早く母親の支配に耐えられなくなり、先日事件を起こしたのだと聞いた。
 しかしセダムはその後も父母と共にあの家で暮らしており、医局での勤務態度も至って真面目なようである。アオイはこれまで言葉を交わしたことが無かったので、どのような人物なのか全く知らなかった。
 周囲がちらちらと好奇の目を向けているのを肌で感じる。
 「何かご用でしょうか。」
 どう接して良いのか分からず、他人行儀な応対になった。
 「お忙しいところ申し訳ありません。今、ビオラ様より医術の研修を受けているのですが、新薬の治験を経験できるのは貴重な機会だから是非こちらの治験に参加してみてはどうかと言われまして…。」
 「ああ、確かに、良い機会かもしれませんね。」
 普通はそのような場合、講師であるビオラがアオイに相談してくるのが筋だが、アオイとセダムの関係を鑑みて話を持ち掛けにくかったということだろう。直接アオイに声を掛けなければならなかったセダムを気の毒に思った。勇気が要ったのだろう。アオイの回答にセダムはほっとした表情を見せた。十三歳と言っただろうか。まだ幼い印象がある。
 アオイがカリンと初めて出会ったのは、アオイが十三歳の時だった。あの時の自分も、こんなに幼なかったのだろうか。
 「それではセダム殿も参加者に加えておきます。丁度今、詳細な計画を練っている所ですので、後程ビオラと薬師室の方へは私から話をしておきましょう。」
 「有難うございます。あの…。」
 「はい。」
 「あの…私は何とお呼びすれば…。」
 「は?…ああ…お好きなように。名はアオイと言います。」
 「はいそれは存じ上げております。…あの、では、アオイ様と…。」
 もしかしたら、兄上とでも呼ぶつもりだったのだろうか。
 好奇の視線にさらされたまま戻るセダムを暫く見送ってからアオイは考える。医務室に居た面々はアオイと目が合うと気まずそうに目を伏せた。
 そういえばツツジに聞いたところによると、アオイの戸籍は抹消されずにまだツツジの下に残っているようだ。確かに書類上は兄弟だと言えなくもなかった。
 アオイとセダムが共に参加するこの治験の計画書を見たら、父はどう思うだろうか。
 父とは時々言葉を交わす。仕事に関わることだけではなく、時折昼食に誘われて、近況報告をしたりもする間柄だ。しかし、同じ家に居た時からアオイはこの父親が何を考えているのか、全く理解ができなかった。
 すぐに感情を爆発させる母親とは反対に、アオイは父親が声を荒げるのを聞いたことが無かった。しかし同時に、笑顔も殆ど見たことが無いように思う。いつも不機嫌そうな顔をしているのだが、これが通常の表情なのかもしれない。そうだとすると、ひたすら穏やかな人物なのだとも言える。
 仕事の上では慎重でそつがないので、周囲の信頼は厚く、医局長としての評判もまずまずらしかった。ただ、やはりその不機嫌そうな表情と、滅多に人を褒めないことから、部下からは恐れられていた。

 いつもの通り官吏食堂で夕食を摂った帰り、遅い時間であるというのに中庭に庭師のシラーの姿が見えた。当に仕事は終わっている筈である。
 シラーは基本的に城の庭師だが、年に数回、父に乞われてアオイの生家の庭へも手入れに来ていたので、顔見知りだ。どうしたのかと声を掛けると、困ったような表情をそのままアオイに向ける。
 「ああ、アオイ様、ご無沙汰しております。実はこれのやり場に困っておりまして。」
 そう言うシラーの足元を見ると、大きな鉢がひとつ置かれていた。
 「それは?」
 「陛下のお部屋の観葉植物が枯れかけていたので代わりを探したのですが、昨日カリン様がいらした際に診ていただいたら、どうやら元気を取り戻したようで…。行き場を失ったこれの行き先を色々と検討していたのですが一向に決まらず、いっそ中庭に地植えしようかと思っても良い場所が定まらず、途方に暮れていたというわけです。」
 「良かったら私が貰おう。」
 反射的にそう口にした自分に、アオイは自分で驚いていた。
 植物など育てたことがないし、これまで特別な興味を持ったこともなかった。しかしそういえば、父親はどうやら植物が好きらしく、家の庭には様々な植物が植えられ、いつも綺麗に手入れされていた。
 年数回はシラーに任せるものの、普段の手入れは使用人ではなく全て父親がやっていたことを、今更ながらに思い出した。
 シラーもアオイが植物に興味を持っていないことなどお見通しだったのだろう。不思議そうな表情を浮かべた。
 「困っているのだろう?」
 「ええ、それはアオイ様に貰っていただけるならば、こんなに嬉しいことはありません。」
 「世話は難しいのか?お前の思っている通り、私はこれまで自分で植物など世話した事は無い。それが何の植物かも分からない。しかし、何となく魔が差した。あの殺風景な部屋に、植物のひとつでもあっても良いかもしれないと思ったのだ。」
 「これはポリシャス・フルティコサと申しまして、今はこのくらいですが大きくなれば六フィート半程にはなりましょう。しかし幸い世話は楽です。日陰でも育ちますし、寒さには弱いですが室内で育てる分には、水のやり方さえ間違えなければ長持ちします。細い鳥の羽根のような葉が沢山茂って、それはそれは美しい木ですよ。」
 「悪くないな。ではいただこう。支払いは直接文化局宛にすれば良いな?」
 「あ、いえ、陛下からは、折角手配してもらったのに悪いから、私の好きなようにして良いと言われています。ただ、自分で引き取るには大きすぎまして…。ですから、貰っていただけるだけでいいのです。」
 「そうか、これも縁かも知れんな。」
 自ら鉢を抱えようとすると、シラーはとんでもないというようにそれを奪い取り、部屋まで運んでくれると言う。
 年老いていながらも、普段から庭師の仕事で鍛えられたシラーの身体を見て、素直に甘えることにした。
 実際、部屋の何処に置けばいいのかさえ分からなかったので、配置も任せてしまった。シラーは鉢を設置し終えると、ペンと紙を所望し、詳しい世話の仕方を書いてくれた。それを見る限り、確かにそう面倒なものではなかった。
 礼を言ってシラーを送り出し、改めて部屋を眺める。
 僅かに緑の色彩が入っただけで、部屋は全く別物のように感じられた。月並みな表現をするならば、冷たい石造りの部屋に、命が宿ったようだ。
 厳しい城の出世競争を勝ち抜き、それを維持し続けている父親が、植物を大切にする気持ちが何となく理解できたように思う。
 植物と言えば、それはカリンの象徴のようなものでもあった。
 闇に心を売るほどにカリンを求めていたにも拘らず、カリンの愛する植物に目も行かなかった自分は、やはり独りよがりだったのだろうと思う。
 母親の支配の下で窮屈な生活を送りつつ、そこを自分の意思で抜け出すことのできなかったアオイは、変わり者と言われても、魔物の子と疎まれても、自分の正しいと思う道を貫いているカリンに惹かれはしたが、カリンを理解しようとしては居なかった。そんな一方的な想いが、受け入れられる筈がない。
 そっと緑色の葉に触れてみると、それは柔らかく、確かな生命を感じた。医師として自分が救いたいと思っている人の命と、等しくそこに在るように感じられる。自らの部屋の中に生命を感じられることは、医師としての自分をこの先支えてくれるような気がした。

 「では、あの子はアオイ様の所へ行ったのですね。良かった。わたくしのせいで行き場所を失ってしまって、かわいそうだと思っていたのです。」
 翌日、マカニへ戻る前に医局へ挨拶に来たカリンに鉢のことを話すと、そう言って嬉しそうに微笑んだ。
 「かわいそう、か。お前にとっては、やはり人も植物も変わらないのだな。」
 「ふふ。わたくしにとっては、時に植物の方が近しいくらいです。」
 「そうだな。今回、お前や父上の気持ちが少しだけ分かった気がした。」
 「ツツジ様、ですか?」
 「意外かもしれないが、父上は植物が好きなのだ。家の庭の手入れはほぼ全てご自分でなされている。」
 「それは存じ上げませんでした。でも…。」
 「でも?」
 「いえ、先日初めてツツジ様とゆっくりお話ししたのですが、随分印象が変わりました。ですから、わたくしの存じ上げないことはまだまだ沢山あるのだろうと。」
 「そうか。」
 「時々、アオイ様にお声を掛けていらっしゃいますよね。きっと、アオイ様のことを大切に思われているのだと思います。」
 「気がついていたのか。」
 「はい。…あの、こう言っては何ですが、やはり気になりますから。」
 「家を出たのはお前のせいではないと言っているだろう?…と幾ら言っても無駄だということが、さすがに私にも分かってきた。」
 カリンは再びふふふと笑う。
 一時期カリンがアオイに向けていた固い笑顔とは違う、ごく自然な笑みだった。
 カリンと母親リリィの確執は依然として解消していない。つまり、この笑顔が見られるようになったのは、アオイが変わったからなのだろう。カリンが以前向けていた固い笑顔の原因は、母親ではなくアオイ自身だったということだ。
 ついでに、セダムが治験に参加することを告げると、カリンは目を丸くした。素直なその反応に、アオイはいちいち安心を覚える。
 「薬師室側はユウガオさんが音頭を取っていらっしゃるから、セダム様もご参加しやすいかもしれませんね。」
 「ああ、そういえばユウガオ殿は薬学の講師だったな。私自身も、以前ワイで行動を共にして以来何かと頼りにしている。…お前、これから薬師室へ行くのか?」
 「はい。レンが先に行っていて、まさにユウガオさんと話しているのです。気が合うみたいで…。」
 「そうか。それならばユウガオ殿に、セダム殿が治験に参加する旨、先に一報入れておいてくれないか。」
 「かしこまりました。」
 変わったのは自分の方だ。
 軽やかに去って行くカリンの後ろ姿を眺めるのを止め、手元の書類へ目を戻す。
 カリンのことは相変わらず好きだったが、自分のものにしたいわけではなく、カリンの幸せを願うことができるようになった。カリンの幸せな人生に自分が少しでも役に立てるならばそれでいい。それは最早好意というよりは、恩返しなのかもしれない。
 カリンは、アオイの過ちを諭し、罪を赦し、新しい人生をくれた恩人だ。本来、医師として人を救うべきであるはずの自分は、人を救うどころか四人の人間の命を奪ってしまうところだった。なんと愚かだったのだろう。
 カリンのおかげで踏みとどまることができたものの、その愚かさは、その後何人の命を救っても帳消しにはならないように思う。
 だからアオイは、その愚かさを胸に抱えたままで生きている。必要以上に愚かさに囚われてしまわないように気をつけながら、常に自分自身を戒める材料として。他人に寛容になるための材料として。

 部屋に戻ると、ポリシャス・フルティコサの鉢が迎えてくれた。
城門の内側で殆どが完結する生活。しかしそこには自分が全力を尽くすべき仕事と、豊かな読書の時間と、必要最低限の人間関係、そして緑がある。
 他人にとってはつまらない生活かも知れないが、アオイは自分の生活をとても気に入っていた。


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