「番外編」聲-Koe-1
「つばさ。100点では足りない。
テストの紙の裏側まで埋めろ。」
父は言った。
「教わったことが答えられるのは当たり前だ。
それは、ただの暗記だからな。
思考しろ。どうすれば100点以上をもらえるのか。
俺は小学生の時に、解答欄の隙間まで埋めて、105点、110点を教師につけさせていたぞ。」
わたしは震え上がった。
まだ努力が足りないのか。
無理だ。これ以上は。
爪を噛む。
「噛むな、不衛生だ。汚い。」
わたしの爪は常にボロボロだった。
ドヴォルザーク交響曲第9番
From the New World
大地を揺さぶるような荒々しい第一楽章が終わると、イングリッシュホルンが「家路の歌」をそっと奏で始める。父は、この第二楽章をとりわけ愛していた。
文化芸術そして草木を愛した父。
美しいものが好きだった父。
わたしが『独りでも生きのびる』ことができるように、苛烈なまでの愛情を注ぎ、教育を施した父。
わたしに底なしの恐怖を与えた存在だ───。
✳︎
わたしはある地方都市で育った。
里山と街の暮らしが共存している場所だった。
父が『教育』のために、選び抜いて決めた場所だ。
実家は、裕福な家庭だった。
わたしは、ほとんど父の手で育てられたと思う。
母もいたけれど、親しく言葉を交わした記憶が、ほとんどないのだ。成長してからのわたしにとって、母はそばにいるけれど、目に見えない空気のような存在だった。
✳︎
「俺は義理の父親や兄弟から、ずっと虐待されていた。ごはんもほとんどもらえず、死ぬほど殴られながら、母と一緒に奴隷みたいに働いて……立場の弱い母親を守り続けてきたんだ。」
父は、赤子の頃に両親が離婚し、しばらく母子家庭で育っている。やがて彼の母は再婚したが、新しい家庭では、義父と、その連れ子による、壮絶な暴力とネグレクトが待っていた。
まるで地獄のような日々だったという。
父の背は低かった。
成長期のほとんどを栄養失調のまま過ごしたからだ。背が低いのは不利だ、と彼は言った。発言力に差が出るから、と。けれど、その不利をも力でねじ伏せてきたのだと言う。
「弱い立場のままでは、生き延びられない」
そう言い切った父は、常人では、過労で、すぐに死んでしまうほど働く人だった。
目的のためなら、睡眠も食事も、生理的欲求も、平気で後回しにできる人だった。
彼はずば抜けた人だった。
一言でいうと、天才だ。
人からほとんど教わらなくても、勝手に吸収できる。そして、途方もない集中力の持ち主でもあった。
現に虐待を受けながらも、県内でもトップクラスの高校を主席で卒業している。
大学に進めば未来は開ける───そう信じていたらしい。けれど、貯めていた学費は義父が使ってしまった。
仕方なく、父は就職の道を選んだ。
その体験は、のちのち彼に強い学歴コンプレックスを刻みつけることになる。
かつて自分より劣っていると思っていた同期たちが、学歴を武器に社会的評価を得て、次々と出世していくのだ。
その姿は、彼の心に暗い影を落としたが、それでも彼は諦めなかった。
生き延びるために身につけたカリスマ性が彼にはあった。人を観察する眼が鋭く、考えを読み取るのが上手かった。
誰が、どんな時に心を動かし、どんな理由で行動を起こすのか───その心理を知り尽くしていた。
彼は最初、高卒で零細企業に就職したが、すぐに頭角を表す。彼を引き抜こうとする人は後をたたなかった。彼は仕事においても、突出していたのだ。
誘われるがままに、徐々に規模の大きい会社へと、4回の転職を経験し、ある程度の規模の企業からの引き抜きに応じ、その中でさらに実績を積み上げて、会社と一緒に自身も大きくしていった。
そして、最終的に大企業の会社役員にまで上り詰めた。
まさに、父はリアル島耕作だったのだ。
父はわずか数名の子飼いの部下を厳選して、彼らを手足に、国内外で子会社をいくつか立ち上げた。そして、事業が軌道に乗るまでの経営を行うこともあった。
父はわたしの知る限りで、少なくとも5つくらいの国の言葉を操っていた。
全ての知識を、誰かに教えられたものではなく、仕事の中で自然と身につけたらしい。
彼は国内や世界を飛び回り、仕事をしていた。
その時の彼の仕事の話は、しばらくしてから日経新聞に載ることもあった。
──わたしの父は、そういう人だった。
✳︎
父は、孤独な人だった。
だから、誰よりも家族を渇望している。
第一子の女の子が生まれた時に、彼はその女の子を、血を分けた唯一の『本当の家族』だと思った。
それが、『つばさ』だった。
つばさが生まれた日、彼は初めて泣いた。
物心ついた時から大人だった彼が。
泣いたことがない彼が。
──泣いた。
『私』の本当の名は、『癒しの場所』を意味する。
『私』の名を、考えたのは父だ。
『つばさ』は、父が名づけの候補に上げた、二つの名のうちのもうひとつだ。
彼が望んでいたのは、『癒しの場所』と『自由の翼』だった。
つばさが生まれた日から。
彼の『愛情』は、全てつばさに注がれることになった。
母を置き去りにして。
✳︎
[あとがき]
いつも、つばさの人生の物語を読んでくださりありがとうございます。突然ですが、本編の前に、番外編を始めることにいたしました。
番外編は、つばさの家庭の話になりますが、本編の内容理解が深まりますので、よろしければこちらもぜひご一読いただけたら嬉しく思います。
それでは、今後とも、よろしくお願い申し上げます。
✳︎
『つばさのような子どものあやうさ』
世の中には、法の外側の仕事…つまり『裏稼業』というものがいくつかありますが、私は、その『裏稼業』のお手伝いをしていた方と、直接話をしたことがあります。
「つばささん、ご存知です?
世の中には、公にはできない危険な仕事があるんですよ。」
「公にはできない…。」
「だいたいの子どもは家庭環境が悪ければ半グレになります。あっ、半グレっていうのは、ヤンキーのことです。ですが、それは実は可愛い方なんですよ。」
私はこくりと頷いて、先を促した。
「本当に危ないのは、暴力的な引きこもりです。僕はその引きこもりから、そのご家族を守る人のお手伝いをしてきました。
常に命の危険が伴うので、格闘技の知識が必要なんです。
例えば、自分の部屋の棚に動物の生首をならべる牛刀おじさんとか、世に放つと犯罪者になりかねない危険な引きこもりの人間を、時に暴力を使って踏み止まらせ、そしてそのご家族の命を守るのですよ」
「彼らはどのような家庭なのですか?」
「……まさに貴方のような家庭ですよ。
会社役員、医者、政治家の子息などが圧倒的に多いんですよ。本当にヤバい奴が生まれる家庭というのは共通点がある。金と権力のある家です。
それでね、そのご家族は、そういう地位についているが故に、このことを世の中に公表できないのですよ。」
そういって彼はこちらを見ました。
「踏みとどまれる人の方が圧倒的に少ないんです。
あちら側に転がり落ちる方が簡単だから。
貴方みたいな人は、薬中…薬物依存になることが多いですね。僕の経験上。」
わたしが今現在、平穏に生きているのは、きっと奇跡なのです。
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次回
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