「番外編」聲-Koe-2
「絶対、買わない。」
3歳のわたしは、おもちゃ売り場の前で号泣していた。父は自分が必要だと判断したものは、つばさが欲しがらなくても買い与えたが、不必要だと感じれば、どんなにつばさが欲しがっても買い与えなかった。
つばさは買って欲しくて、とうとう泣いた。
泣きに泣いた。
泣きすぎて、喉が詰まって呼吸ができなくなった。
「お前の涙は、いつもそうだ!泣いて自分の思い通りにしようとしているんだろう。」
ドキリとした。
『甘え』を見透かされたと思った。
「俺は3歳で大人になったんだ。3歳の時には、母親を守ろうと決めたんだぞ。
お前は甘えてばかりで、守られることしか考えていないじゃないか!」
わたしは羞恥で顔が熱くなった。
それ以来、わがままで泣くことをやめた。
✳︎
「箸の持ち方が汚い。
吐くな。もったいないだろ、食べなさい。」
幼いわたしは、吐き気を堪えて、お茶碗の隅に残った白米を咀嚼する。
父の愛情を一身に受けるわたしに、母がとった行動のひとつは、小さな嫌がらせだ。
わたしは、ねばりとした、のり状の白米を口にして、えずいた。わたしは、ねばりとしたものが苦手だったが、母は毎回、わたしの小茶碗でしゃもじをこそいだ。
父はゲンナリとした顔をする。
「これを全部食べ終わるまでは、器は残しておけ。
お前はものが食べられない経験を知らないから、そんな行動を取るんだ。このまま飢えてみろ。」
母がだまって見ている。
ちゃんと食べなさい、と一言だけ言って。
ねばつくご飯の中に、カピカピに干からびた米粒が小さな塊になって、いくつか入っていた。
噛んだ瞬間、ゴリリと響いて酷く不味い。
どうして、わたしのご飯はいつもこんな感じなのだろう。
お風呂から出た幼いわたしの髪を乾かすのも、母の仕事だった。
「熱い!」
そんなはずないでしょと彼女は言ったが、髪の毛から焦げ臭い匂いがする。
「髪をとかすよ。」
ときに身体が揺さぶられるほどの力で髪をすいた。頭皮が強く引っ張られ、ブチブチと髪の毛が何本もちぎれた。
「嫌だ、痛いよ。痛いよ。」
優しくやっているでしょうと、母は言った。
母は自覚していただろうか。
父の愛情を独占してしまったわたしに、時折向ける視線の厳しさを。無関心さを。
自分のことを
「不器用だから、鈍いから、人の気持ちがよくわからないから」と言っていたけれど。
真実、そうだったかもしれないが…
だが、そこに、偽りの思いはなかったのか。
自覚はなかったのか。
「わたしはあなたを愛してる。」
幼い頃、彼女はわたしにそう言っていた。
彼女は確かにわたしを愛していたと思う。
けれど。それ以上に。
彼女は、父を愛していた。
同じ女のわたしだから……分かる。
︎✳︎
「この絵本を読んでみな。つばさ。」
父が差し出してきたのは、Susan Verleyの『わすれられないおくりもの』。亡くなったアナグマのおじさんを悼む、森の仲間たちの物語だ。
この物語の真の主人公であるアナグマのおじさんは、ほとんど登場しない。
彼が亡くなったあと、多くの仲間たちが彼の生前の話をすることで、彼の生前の様子や存在の大きさが浮き彫りになり、やがて仲間たちはアナグマのおじさんの死を、温かい気持ちで受け入れていく美しい物語だ。
「今はまだアナグマのことを覚えている者がたくさんいるが…その先は分かるか?」
わたしは首を横に振った。
「仲間はやがて、アナグマを忘れる。
その時が、アナグマの本当の死だ。
……死ぬというのは、そういうことだ。」
ひどく真剣な顔をしていた。
わたしはその言葉に、痺れて動けなくなった。
わたしは父の言葉を通じて、生まれて初めて、死の概念を『理解』したのだ。
✳︎
父は言った。
「節分をやるぞ。」
父は季節の行事を大切にしていた。
わたしたちは豆を持った。
そして、放った。
幼いわたしは手を滑らせ、その塊の一部が、思いもしない方向に飛んだ。
父に直撃したのだ。
その瞬間、彼は震え出した。
蒼白になり、無言のまま部屋にこもって、しばらく出てこなくなった。
わたしは、呆然とした。
「【鬼】はどこにいったのだろう。」
奇妙な考えが頭をよぎった。
そのとき。
ぐるりと、お腹の中でなにかが動いた。
わたしの……体の中に【ナニカ】が入ってくる。
その日から、わたしは時折【ナニカ】の声を聞くようになる。【ナニカ】は、私の心の中に住み着いて、心の内側を引っ掻いた。
アナグマのおじさんみたいに【消えたい】と思った、その時のわたしは、わずか5歳だった。
✳︎
母は仕事をしていた。ある分野で、国家資格を有していた。当時としては珍しいキャリアウーマンだった。だから父は、母に仕事復帰をするように言った。
母の仕事は激務だった。
だから、彼女は家庭に居たかったようだが、それを父は拒否した。
「日常は、もろく崩れやすいんだ。今の俺の地位だって、なにかの拍子に失われることだってありえるんだ。夫婦で金を稼ぐのは、リスクヘッジだ。」
父は、一円でもお金を多く稼ぐ方法を常に考えていた。彼女の復帰は、彼女をつばさから遠ざける手段でもあったから、彼女の再就職はなにかと都合が良かったのだ。
「稼げないと社会的弱者に回るんだ」
それは彼の母を、そのまま表していた。
実際、母に収入があったことで、母は最低限の自立性を保っていられたのかもしれない。とはいえ、母も父に、指導と称して毎日叱られていたから、ゆっくりと心を病んでいった。
彼女は、精神安定剤や痛み止めを常用するようになった。飲まないと眠れないのだという。
そして、父から受けるストレスを、こどものつばさにぶつけることもあった。
表立ってはやらない。
やってはいけないと思っている。
つばさのことを愛する気持ちもある。
だから……小さな嫌がらせなのだ。
彼女はギリギリで生きていた。
毎日、自分自身を責めながら。
✳︎
わたしが小学校に上がった、その年。
とうとう『鳥籠』が完成した。
父が、わたしの小学校入学に合わせ、数年前から準備していた『家』だ。
山の中に土地を買い建てられたこの家は、普段は、幼稚園や保育園を建築している建築家に、わざわざデザインを依頼したものだ。
この小さな実家は、家の中心に吹き抜けと階段があった。そして、2階の各小部屋同士が、キャットウォークで繋がっている立体的かつ独創的な作りをしていた。
1階の各部屋から、2階のすべての部屋が見渡せる。
つまり、『すべての部屋からすべての部屋を監視』できる家だ。
家のどこにいても『家族の気配』が感じられる家として、当時のメディアに掲載されたこともある。
この家で、父の『監視』が強まっていく。
「田舎に土地と家を買うなんて、投資としては最悪の選択なんだ。本当は街の駅前にマンションを買ってもよかったのさ。」
わたしを見て、それから上機嫌に言った。
「つばさの『教育』のためだから仕方ない。」
✳︎
実家は、最寄りのバス停まで歩いて30分もかかる山奥だった。車さえあれば、案外街へのアクセスは悪くない。
しかし、家族の手を借りなければ、帰途につくことが意外と難しい、そんな絶妙に辺鄙な立地だった。
わたしが他人から悪い影響を受けないように。
逃げ出さないように。
わたしを厳重に慎重に囲った。
山の中の広い庭には、美しい雑木林と無数の花が咲き乱れていた。
その、ワイルドガーデン。
父が育てた花々。父が建てた家。
美しい。
けれど。
わたしにとっては、地獄の『鳥籠』だった。
✳︎
次回 『聲-3』
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