「番外編」聲-Koe-3
父は、多くの人から慕われていた。
一方で、気に入らない相手は、言葉ひとつで絡め取り、思いどおりに操った。
そんな父と深く関わった人たちの中には、鬱病や心筋梗塞で命を落とした者もいた。
わたしはそれを、誰よりも近くで見てきた。
父は言った。
自分がどんな言葉を放てば、人がどう動くのか手に取るように分かるのだと。
「みんな、それが分からない。だから、言わなくていいことを言ったり、本当に言うべきことを、その場で言えなかったりするんだ」
そう言って、父は嗤った。
父は周囲の人々の思考を、徐々に管理していった。
管理の対象は、家族や親族、同僚や部下、私の友人知人、そしてときに学校の先生にまで及んだ。
「なにか、悩みはない?」
放課後の廊下で、担任の先生がわたしを呼び止めた。
「つばさはあまり笑わないから、先生は心配しているよ。思っていることがあったら、なんでも話していいんだよ」
衆目の中での言葉だった。
恥ずかしくて、怖くて、私は先生の思いやりを振り切って逃げた。
そして、そのことを父に“報告”してしまった。
父は、どれほど残酷な言葉を先生に浴びせただろうか。私が報告したばかりに。
父からのクレームに傷ついた先生は、三月の終わりに辞職してしまった。
✳︎
父は外では陽気で明るかった。
話上手で人を惹きつける人物だった。
一言で場を支配する圧倒的な力があり、誰もが簡単に彼に魅せられた。
「素晴らしいお父様ですね」
──誰かが言う。
「素敵な方ですね。お嬢様が大好きなのですね」
──彼は常に称賛を浴びていた。
一方で、わたしは内向的な子どもだった。
褒められると余計に隠れてしまうような、普通の甘ったれた子どもだった。記憶力だけは父譲りだったが、肝心の思考力が乏しかった。
──つまり、父のように頭が良いわけではなかった。
それでも、父の子だから普通でいることは許されなかった。誰よりも優れていなければならなかった。父は私を徹底的に管理した。悪い影響を排するという名目で、やがてわたしを母から引き離した。
「母さんは馬鹿だから、お前は母さんに何か相談してはいけない。間違ったことしか言わない。
だから、必ず父さんに相談しなさい」
私はすぐに従った。
次に友だち──誰と付き合っても父は納得しなかった。学校の先生、近所のおじさんおばさんとの交流も、延々と耳元で流される毒の言葉によって、自ら断ち切らざるを得なくなった。
──そうして、わたしは孤立していった。
父はわたしを完璧にコントロールし、自分の思い描く『理想の人材』に育てようとした。
わたしに影響を与える他人は、邪魔だったのだ。
だから、父がわたしを『教育』しようと決めた瞬間から、わたしは父と二人きりで生きることが決定してしまったのだ。
✳︎
我が家はお金に困ったことがない。それでも、食卓は極めて質素だった。
めざし二本に、ごはんと漬物と味噌汁。
あるいは魚の半身に、ごはんと漬物と味噌汁。
お米も漬物も、味噌汁の具も味噌そのものも、すべて頂き物だった。
たまに魚の缶詰やカップラーメンが並ぶことがある。育ち盛りの私には、少々物足りない献立だった。
だが。
「食費がかかりすぎている。ここにこんなに頂き物があるのに、どうして買い物をしてくるんだ!」
「ごめんなさい。」
母が父に頭を下げている。
そんなに倹約しなければならないほど、我が家は困窮しているのだろうか。
父は、たった一円でも余計にお金を使うことに、激しい抵抗を示す人だった。
彼にとって『消費』とは、自分の資産を他人に『奪われる』のと一緒だった。
「スーパーの店員がレジを打ち間違えた。俺が指摘しなかったら、二十円多く払うところだった。レジなんて底辺の仕事だから、人間の質も悪い。
謝罪も心がこもっていない。まるで『窃盗』をしそうになった意識がないんだ。」
父はそう憤った。
父は、一円でも多くのお金を持つことが安心なのだといった。資産の一部をスイスのアセット・マネジメントに預け、自身でも投資信託や大手優良企業の株を買いながら、順調に資産を増やしていった。
高級腕時計や絵画も所有していた。
“価値の失われにくいもの”、“時間とともに資産価値が上がるもの”には、惜しみなく投資をした。
そんな、『投資』は好きでも『消費』は嫌いだった父だが、わたしたち一家は毎年夏、信州の会員制ホテルで数日を過ごしていた。つばさの『教育』の一環であり、父自身も好む景色に出会える場所だった。
わたしもその場所が好きだった。
一人で館内の名画を鑑賞したり──そこにはピカソやミロといった巨匠の作品まで飾られていた──森を散歩したりすると、ほんの少し自由になれた気がした。
ある日、父はオーギュスト・ロダンの作品の前を歩いていた。ロダン──あの『考える人』を生み出した、十九世紀の近代彫刻家だ。
そして、立ち止まった。
その瞬間、場の空気が張り詰めた。
『教育』が始まる。
わたしは無意識に顔を引き締めた。
「誰もが、たどり着けるわけではない場所がある。」
父の目がぎらりと光った。
「この作品は、宿泊者しか見られない。つまり、世の中から隠された作品だ。
このホテルの会員権は数百万円する。『普通』に働いていては絶対に手に入らない。
普通に生きていたら、生涯、この作品に出会うことはできない。」
そう言い、父はしばらく作品を見据えていた。
「人間にとっては環境がすべてだ。どんなに優秀でも、置かれた環境が悪ければ抜け出せない。
もし抜け出そうとするなら、死ぬほどの努力が要る。本当に、一歩間違えば命を落とすほどの。
死ぬほどの努力だ。」
そして父は、穢多・非人、インドのカーストのダリットの名を挙げながら、社会には必ずそうした存在が必要とされ、一度そこに落とされれば這い上がることはまずできないのだと続けた。
「身を置く環境には、くれぐれも気をつけろ。」
それで話は終わった。
✳︎
館内で食事をしたのは『教育』のために一度きりだった。
一人あたり一食一万円を超えるから、必ず外で安く済ませるのだ。ルームサービスの存在をわたしは知らなかったが、きっとあったのだろうと思う。
本当に父は、どこまでも倹約家で、どこまでもケチだった。
✳︎
次回「聲-4」
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