果代の山が呼んでる・7 この道を行けばどうなるものか
果代の町場探訪後編。前編はこちら↑
再び果代の町に戻る。
視覚によらないイメージの伝達という、書き手の鍛錬に今しばしお付き合い願いたい。
荒町の穀留番所前を東から歩き、左に角を曲がるとそこから「竪町」、南の方からは観音堂を目指してまっすぐ上がってくる道沿いの町並みになる。曲がり角の正面には、江戸時代に宿屋をしていた家の門構えが今も残っていて、この辺りは昭和30年代頃までは江戸時代の様子を伝える建物もあったらしい。
果代宿は正式な宿場ではない。そのため旅籠のようなものはなく、藩が指定した間宿だったときく。また、これから通る竪町筋の脇街道は、実は果代を通るこの道とは別にもうひとつルートがあり、戦国時代や江戸初期には今歩いている果代を通ってこの地方の中心的な城下町へと向かうルートが当国への正式な進路だったとされ、時代が下るにつれ商業地として発展した門前町などを通る道の方へ主たる地位が移っていったようである。
しかしこの道が全く無用となったかと言えばそうではなく、メインルートが越える大きな川が雨天で渡れなくなった際、果代で一泊をとる客がいた。このためこの間宿は「雨降り宿」とも呼ばれていたそうだ。
今度は下り坂。まず二、三軒目の辺りの左手に地区の公民館、隣にむかし酒店だった建物がある。公民館は瓦葺きの屋根に赤いトタンをかぶせた当地の農家でよくみる作りの建物と、その下には火の見櫓。先ほどの荒町本陣跡にも公民館があり、徒歩一分程度の距離に二つ施設がある。それぞれ近隣の地区を束ねる拠点となっているが、江戸時代からそうなのか、荒町と竪町はそれぞれ別の町会や公民館に属しているようだ。
それらの建物の向かい側から右に向かって伸びていく道と、枡形跡がある。この向かいに、当時のものと思われる各街道の行き先を示す石碑も残されている。荒町からの街道が今度は西へ、西町付近を通るとすぐに旧村境を出て門前町のある盆地の中心部へと向かっていく。果代の町場は南北に細長い村の西端だ。時期によって多少の変動はあるがここは藩領の西端でもあり、天領や他藩と境を連ねる地だったようだ。
さらに降っていくと家並みが続き、番所跡からこれまた二百メートルほど坂を下りると、新聞店の前を通り少し行ったあたりで先ほど荒町の入口で分かれた用水路がここで再び合流、町並みはここまでとなる。用水路は細い道幅を守って小径が並走し続け、竪町上手の南枡形から西へ出て行った街道とほどなく合流する流路をとっている。
道をさらに南へ行くと、右手に見える小高い丘に神社があり、こちらは中世の頃に果代から分かれた村が祀った神がいる。江戸時代には幕府の裁定で果代村からも交代で氏子を出すようになったようで、両村は明治初期に合併し、同じ大字になっている。
神社左手には駅や市の商工会議所、さらに昭和の頃まで駅前商店街として栄えた地区を横目に見つつ、目の前は一旦線路で遮られ、跨線橋の向こうからまた街道が続く。鉄道駅は明治の中頃に開業し、主要幹線とローカル線の分岐点となったことから商店街がかなりの賑わいを見せていたようだが、現代では店を営むところも一、二軒まで減ってしまった。今では街道の眼下一キロほどのところに国道と新幹線、さらに川の向こう側に高速道路が走っていくのが見える。
果代坂を背に、今度は坂を下り川が流れる盆地の中心へ向かっていくが、この辺りにくるとかつての水害を受けた低地が連なる。道端のところどころに祀られる馬頭観音を眺めながら歩くと、支流の川を跨ぐ橋のところで隣村との境となる。
街道はこのあと川を掘代わりに整えた戦国時代の城を基礎とした村などを通り、川を渡って当地随一の城下町へと向かっていく。
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