伝説の青崩峠 「日本のトンネル技術が敗退」して「リベンジ」に至った話 【だから地図は面白い】後編
こんにちは。ツーリングマップル編集部のマスキです。
前回、ツーリングマップル史上最も有名なコメント「日本のトンネル技術が敗退」がつけられた「青崩峠」にスポットを当て、「青崩峠がなんで崩れるのか」という話、そして「それでも通りたかった理由、通らねばならなかった理由」についてお話をしてきました。
そこには「中央構造線」という1億年前にできた日本列島の古傷があり、「塩の道」があり、「山塩ドリーム」があり、生活や文化の往来がありました。
今回はさらに青崩峠のことを深掘りしていきましょう。
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なお前回記事はコチラ👇

あの戦国武将が通っていた!?
さて、現代では先述の通り、「トンネル技術が敗退した」ことで有名になってしまった青崩峠(そうしたのは我々ツーリングマップルなのかもしれない・・汗)。
実は歴史の名場面、とても重要な局面で登場するんです。それが1572年の武田信玄による徳川攻めです(いわゆる西上作戦)。「戦国最強」とうたわれた武田信玄は、現代の技術でも力及ばなかったほどの難峠を、だからこそ利用して大きな戦勝を得ました。逆に家康にとっては「生涯最大の惨敗」と言われる敗北を喫した戦いとなります。
【信長包囲網】
1572年、世はまさに戦国時代。織田信長が急激に勢力を拡大していた頃。
室町幕府15代将軍・足利義昭は、これに危機感(や恐怖や屈辱?)を抱き、いよいよ全国の有力大名に「信長を倒せ」という命令(=信長包囲網)を出します。信玄はこれを「大義名分」として、元より悲願であった上洛(京都入り)を目指し、西への進軍を決めます。
ちなみに家康にも信長包囲網への参加命令は届いていましたが、家康はこれを拒否し、結果的に【信長&家康 VS 信玄+将軍+それ以外】という構図が出来上がります。

信玄は西へ進むにあたり、上杉や北条との
調整も欠かさなかった。最強に抜かりなし
【3つのルート】
武田軍が西へ進むうえでまず叩く必要があるのが徳川。そしてこれを攻めるにあたっては、3つのルートがありました。
①東海道:現在の国道1号
②秋葉街道(青崩峠):現在の国道152号
③三州街道:現在の国道153号
このうち大本命は①東海道。平地ですでに整備も進んでいた超メジャールート。待ち構える家康も当然ここを最も警戒し、ガチガチに防御を固めていました。③三州街道も、本拠地(岡崎城)にもっとも近いところなので、防衛線を張っていた。残る②青崩峠は、そもそも軍隊が通れるような道ではなかったため、端から警戒対象としては見ていませんでした。

ところが信玄はこれを逆手にとった。22,000人規模の本隊を率いて②青崩峠を通り、大攻勢を仕掛けたのです。家康の「あんな大難所を大軍が越えるわけがない」という油断を突いた、常識破りの電撃奇襲作戦。③三州街道から攻めた5000人規模の別動隊の動きも合わせて、防衛線を真上からすり抜けられた家康はパニックに陥り、その後の「三方原の戦い」での大惨敗へとつながります。
ちなみにこのとき信玄はもうひとつ、「中馬街道」ルート(現在の国道257・418号)も攻めています。こちらもそこそこの難所であったと思われますが、その先にあったのは信長の支配下にある岩村城。これを攻めることで、信長に家康への援軍を出させなくしていたのです。
難所を同時にハッキングする、戦国最強の名は伊達ではありません。
だが実際には通ってなかった・・?かも?
以上が「甲陽軍鑑」という武田氏の戦略・戦術を記した軍学書から読み取れる武田 VS 徳川の戦い。
・・なんですが、実は信玄の侵攻ルートには新説があります。近年発見された新たな資料から、信玄本隊22,000人は①東海道を堂々と通り、猛烈な勢いで防衛線を突破。別動隊5000人が②青崩峠を下り攻勢をかけた、というのが有力だとされています。
旧説(青崩峠を信玄の本隊が通った)の方が、ロマンがあっていいんですけどね。
※いずれも確実と言える証拠はなく、諸説あります。ついでに言うと、現代でも青崩峠を迂回するために使われる「兵越(ヒョー越)林道」という道がありますが、「ここを信玄が通った」という説もあります。だから「兵」が「越」えたで「兵越峠」になっているのですが、これも諸説あり定かではありません。

確かにこの道を22,000人が通るのはキツいかも
まあもしどの説が正解だとしても、青崩峠はやっぱりキーポイントだったことになります。当時からここが難所中の難所として広く知られていたということにかわりないのです。
そんな場所に、昭和の技術者たちは挑むことになります・・。
【国道152号の歴史】
さて、ここから一気に時代は昭和へとくだります(江戸や明治期の話は前編で触れていますので参照くださいね)。青崩峠を通る(通れない)国道152号の歴史を見ていきましょう。
明治・大正・昭和へ入り、第二次大戦があり、戦後復興へと進む中、交通の主役は徒歩や牛馬から鉄道、そして車へとシフトし、これに見合った道路の整備も必要になってきました。
1953年 もともとは違うルートだった
現在青崩峠を通る(通ってないけど・・)国道152号が誕生した(指定された)のは1953年(昭和28年)のこと。実はこの時指定されたルートは青崩峠を通っていませんでした。当時は長野県飯田市からいったん愛知県(東栄町など)を経由し、そこから浜松市へ向かうルートが指定されていたのです。
1970年 「点線国道」の爆誕
転機が訪れたのが1970年(昭和45年)。 国が「愛知を大回りするんじゃなくて、長野と静岡をダイレクトに結ぶんじゃい!その方が早いじゃろ!」ということで、秋葉街道に沿って青崩峠をぶち抜く現在のルートへと指定変更がされました。
青崩峠は、今も昔も大難所。車どころか人が歩くのがやっとの登山道。それを担当者が知らなかったわけはないと思いますが、「何とかなるだろう」とでも考えていたのでしょう。おそらく当時、日本の土木技術は巨大開発をどんどん成功させ、勢いに乗っていたんだと思います。
ルート変更された後、静岡県側(水窪)と長野県側(南信濃)のそれぞれから、車が快適に走れるよう道路の拡幅や舗装の整備がガシガシ進められていきます。しかしやはり、最後の県境である青崩峠、わずか数キロの不通区間だけは、整備が進まない。地図上で浮き彫りになっていく点線国道区間。

【1977年 本腰を入れて調査するも・・】
いよいよ1977年、国は本気でトンネル工事のための調査を始めます。ところが調査の結果分かったのは「アカンわ、やっぱりあそこを掘るんは無理やで・・」ということ。最終的に青崩峠の下を通るルートは断念することになります。
【1983年 東へ逃げるルートで事業化!】
その代わりに東へ迂回するプランを建て1983年に事業化。しかもどうせ通すなら高規格道路「三遠南信道」として整備するぞ、と夢は未だ膨らみます。
【1994年 迂回ルート開通!】
ついに「迂回ルート」として先行開通したのが「草木トンネル」(1989年着工、1994年開通)でした。やったー!
そして「敗北」へ・・
ところがどっこい気合を入れて、立派な草木トンネルを完成させた技術者たちは、ここでさらなる悪夢に襲われます。
「この先をさらに掘って長野へ繋ぐぞ!」と詳細な地質調査をしたところ、なんと迂回したはずの東側の地盤も、中央構造線の影響をモロに受けていてボロボロ。これ以上掘ったら大落盤事故が起きるということが判明。
「やはり無理だったか・・」計画はここで中止・凍結されます。
せっかく高規格道路として作った草木トンネルは、このままだと無用の長物になってしまうため、異例の高規格道路から一般道への格下げ工事を行い、兵越林道へのアクセス道として生きることに。なんたる屈辱・・

これこそが「日本のトンネル技術が敗退」してしまった一幕なのでした。
【まだ、続きます】
すみません、後編で終わるつもりだったんですが、思わず長くなってしまったので、このあとリベンジに至る話と、実際の青崩峠訪問のお話は次回、「完結編」に譲ります。
ここまでお読みいただきありがとうございます。面白かったと思ったら、ぜひ「♡」をぽちっとしていってくださいませ。
それでは次回もお楽しみに!
