マッハ3の怪鳥 XB-70 Valkyrie
1976年(昭和51年)9月6日、函館空港にソ連(当時)空軍のMiG-25 フォックスバット 'Foxbat' が飛来しました。いわゆる「ソ連ベレンコ中尉のMig-25による亡命事件」でした。
当時、私にとって、MiG-25といえば、「マッハ3で超音速飛行する謎の戦闘機」という存在でした。
マッハ3がどのように速いのか十分理解できていなくとも(おおむね秒速約1km)、当時最強と謳われていた、F-15「イーグル」やF-14「トムキャット」(マッハ2.3~2.5級)より速いという点で、私にとっては「最強の戦闘機」でした(それは、速度が大きければ強いのだ、という当時の私の勘違いであったのかもしれませんが…)。 本文: tompei


しかし、函館の事件後、「MiG-25は鉄製」とか、「真空管で動いている」というケナし報道が目立っていて、私にも様々な疑問が湧き起こりました。
鉄(耐熱鋼)材や、真空管の使用が、当時は妥当であったことは後に分かるのですが、関連知識を持たない当時の自分には理解できていませんでした。
それでも当時の自分にとって、「マッハ3」が第一であり、謎の凄い戦闘機であることに変わりはありませんでした。
ちなみに、同じ頃、マッハ7に迫った X-15 等もありましたが、ロケットエンジンによる超高々度実験機であって、比較対象ではありませんでした。その後も、F-15やF-14ではなく、MiG-25に惹かれていました。

(スミソニアン航空宇宙博物館にて / 1995)
そして、その装備化を誘引した、アメリカの超音速高々度戦略爆撃機プロトタイプXB-70「ヴァルキリー 'Valkyrie'」に行き着きます。
Mig-25がマッハ3もの超高速性能を要求された理由に本 XB-70等の超音速高々度戦略爆撃機・偵察機の存在がありました。
もちろんマッハ3で飛行でき、1960年には設計確定していた白い機体は、他とは異なる構造の可動翼を有し、速度に応じて 変態 しました。その姿は、怪鳥、とも、妖鳥と呼んでも差し支えないと思えました。


すでに1966年4月に、最大速度マッハ3.08、そして、最高高度は約22,500mを記録しました。胴体尾部には、6基のターボジェットエンジンが横一直線に並んでいました。
試作2機に兵装は装備されませんでしたが、実現しなかった3号機に、約45,360kg搭載予定の爆弾倉(20Mton級水爆用)や、爆撃航法装置、電子戦装置等を備える予定でした。


マッハ3飛行を達成したSR-71(アメリカの高高度偵察機)やMig-25においても、マッハ3で飛行すると、機体表面は300℃程度(ハンダが十分融ける程です)、各部の形状や気流のよどみなどがあれば、局部的にさらに高温となります。
そのため、一般的な構造材であるアルミでは強度が大幅に低下、あるいは劣化してしまいます。
いくらか後に製造された米マッハ3級超音速偵察機SR-71においては、高強度で耐熱性も高いチタンが、加工技術の向上により多用されました。

一方、本機やMiG-25では、堅実に耐熱鋼(鉄)が主に用いられ、本機では、ハニカム構造の耐熱鋼が、全体面積の68%に用いられました。
そのような特殊な構造であったためもあり、機体強度は低く、格闘戦を行うわけではないですが、高いG加速度を機体に与えるような旋回等機動は制限され、運動によっては民間旅客機並みでもあったともされます(当時の爆撃機ですからそれでもよいのですが)。


2号機は46回目の飛行となる1966年5月の宣伝飛行において、随伴機F-104Nが接触して、空中で炎上、墜落して失われてしまいました。
その後、1号機は1967年3月に、NASAに試験機として移籍され、軍用機としての開発は終了しました。
後に、大陸間弾道ミサイルの大量配備により、超音速高々度戦略爆撃機の意義はなくなり、XB-70計画は全て中止されました。


要目
空虚重量約93,000kg、最大離陸重量 約250,000kg。全長56.6m×全幅32m×全高約9.4m。
アフターバーナー付きターボジェットエンジン(General Electric製、推力12,800[kgf])×6。
最大速度(記録)マッハ3.08、実用上昇限度(設計値)約23,000[m]。乗員 2名。初飛行日 1964年9月21日(続く2号機は1965年7月17日)。生産数 試作機2機。
