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小説「恋する葦」前編②

雪乃は、私が所属する文芸部に入ってきた一つ下の後輩だった。歳でいうと3つ離れている。文芸部といってもここは理系単科大学であり、文芸に熱を入れる人間は少ない。大体は同じ科の先輩がいたからとか、雰囲気が良さそうだったからという理由で入ってくる。雪乃もそんな新入生の一人だった。私のような、ヘッセにトルストイ、漱石に嶽本野ばらなんて、そんなものを読み漁る人間はここでは珍獣である。

雪乃は、ある種派手目なグループに属しながらも、一歩引いたような、少し控えめな女の子であった。どうやら雪乃は、私の一つ上の先輩でとても顔立ちの良い男を目で追っていたようである。この時の私と雪乃は、お互い何も特別な感情はなく、ただの先輩と後輩だった。新入生歓迎会と、その後部室で何度か当たり障りのないことを話した程度の仲である。

私と雪乃の関係性、ないし接点というのは、夏合宿の準備を境に少しずつ変化することになった。私の所属する文芸部では、毎年夏合宿で散文コンテストというものを開催していた。いわゆるエッセイ大会であるが、今回その取りまとめを行っていたのが他ならぬ私であった。雪乃から、夏合宿の参加を迷っている、エッセイも書ける自信がないと相談された。
「迷ってるなら、是非参加してほしいと僕は思う。同学年とも仲良くなるきっかけになるし、きっと楽しい思い出になるから。それに、エッセイは出さなくてもいい。でも書くことは自分を見つめ直すきっかけになるし、匿名投票だから、2位までに入らないと誰が書いたかは、取りまとめてる僕しか分からない。気楽なもんでしょ?それに、どう書くか悩んだら相談してくれても良いし。」
私はそう答えた。
「先輩がそういうなら、参加してみたいかもしれないです。」
と彼女は言った。
「うん、まあ考えてみてよ。今決めなくても良いから、連絡まってるね。」
と私は返した。

それから雪乃は度々私のところに話をしにに来るようになった。私はなんとなく空いた時間はよくサークル棟の部室で本を読んで過ごしていた。文芸部の部室は、ローテーブルの両脇にソファが置かれていた。壁には歴代の部員が置いていった様々な書籍が本棚いっぱいに詰まっていた。人が動けるのは四畳半程度の小ぢんまりした部屋である。雪乃は時々そこにやってきては、
「先輩、今日はどんな本を読んでるんですか。」
と尋ねた。
その時、私が読んでいたのは、オスカー・ワイルドの短編集であった。
「これは、短編集なんだけど、その中で『幸福な王子』の話が僕はとても好きなんだ。もう何度も読んだけど、時々また読み返すんだよ。」
そう言うと、彼女は
「どんな話なんですか?」
と聞いた。
「言ってしまえば簡単な話で、ある王子の銅像は黄金と宝石でできていて、それは自我を持っているんだけど、そこに1羽のツバメが羽を休めにやってきたので、王子はツバメに、私の身体を作っている宝石や黄金を苦しんでる人々に届けてほしいと頼んだ。ツバメは南へ渡ることもやめて賛同し、次々に王子の身体を人々へ届けるんだよ。やがて王子は瞳のルビーも失い、何も見えなくなり、みすぼらしい姿になる。最後に残った鉛の心臓とツバメの死体は、街のごみ捨て場に捨てられてしまう。物語の最後では、天界の神がこの世で最も尊いものを2つ持ってきなさいと天使に言うと、天使はこの鉛の心臓とツバメの死骸を持ってきて、2人は天国で幸福に暮らしましたとさ。って感じの話なんだけど。」
と私があらすじを話すと、彼女は少し考えて、
「ありがちな話…ですね?」
と言った。
「そう。そうなんだけど、この話は僕の原点なんだよね。確か小学校の4年生くらいだったと思うんだけど、父親がこの話を読み聞かせてくれたことがあって。僕はとても感動して大粒の涙を沢山流したんだよ。」
こんなことを誰かに話したのは初めてだったし、そもそも、僕が読んでる本について何かを聞かれたのも、これまで殆ど無かったかもしれないと思った。
「確かに綺麗な話ですけど、私にはそこまで良く分からないです。」
と雪乃は言った。
「それは、そうなのかもしれないし、でもこの本はとても売れているから、僕の様に刺さった人も多いのかも知れない。もしくはキリスト教的な教えとしてお手本的という理由で流行っただけかも。」
後者であるとするなら、少し寂しい気がした。自己犠牲の精神はキリストの教えの根幹であるのに、ならばヨーロッパに戦争が絶えないのはなぜだろうかと。
「どうなんでしょうか。ちょっと私には難しいです。そこまで考えたことはなかったです。」
彼女の儚げな雰囲気は、私の目に映る寂しさを、少し汲み取ったような気もした。

そのとき、4限の終わりを知らせるチャイムがサークル棟に鳴り響いた。夏の夕暮れ、外ではツバメが低く飛んでいた。

彼女は夜間部の学生で、夜間部の1限は、昼の部の5限に重なる。
「次、授業なのでいきますね。あと、エッセイ書いてみたので一度見てもらえませんか。」
と言って、彼女はコピー用紙に印刷されたエッセイを渡して部室をあとにした。
「もちろんだよ。」
といって私はそれを受け取った。
そこには、『私の大切なもの』という題名で、実家の犬のことが書かれていた。確かに書き慣れてない印象は受けたが、自信がないといいながらも、よく自分と向き合って、その思いが綴られていた。私は一応頼まれた身だと思って、赤ペンを取り、少しだけ誤字を直したあと、犬が寄り添ってくれた時の描写をもう少し具体的に、背景に色を持たせるように書いてはどうか、とコメントを残した。この紙をどうしようかとしばし見つめて、写真を撮り、部の全体LINEから彼女の連絡先を見つけて送った。彼女からは、“ありがとうごさいます。完成したら提出しますね。”と絵文字付きで返事が来たので、‘’待ってます‘’と返信した。

それから時々彼女は私に、勉強でわからないことがあるとか、科の誰々ちゃんと誰々ちゃんの仲が悪く間に挟まれているなどと言って、連絡してくるようになった。そうして私は、時折部室に顔を見せる彼女に勉強を教えたり、彼女の愚痴を聞いたりするのだった。彼女はいつも部室のソファーで、私の隣に座った。

8月も半ばに差しかかった頃、二泊三日の文芸部夏合宿が始まろうとしていた。外では相変わらず蝉が鳴いていた。彼女は直したエッセイをちゃんと提出していたし、私も主催者ながら、あの向日葵の花を題材にエッセイを書いていたのである。もちろん文章にも自信はあったが、ある意味匿名性を使って票を集めるというずるいやり方だ。だって知りたいと思うだろう、誰が向日葵の花で、それを書いたのが誰なのか。大学生とはそういうものだ。

合宿地の長野県までは、大型バスを借り切っての移動である。新入生が自己紹介をして、先輩が色々と質問をするというのが毎年恒例の流れだった。誰かが雪乃に、一番良くしてもらってる先輩は誰かと聞いた。何を聞いてるんだと思ったが、雪乃は恥ずかしそうに私の顔を見つめ、それを見た質問者が、
「おぉ」
などとのたまわっている。やめてやれと思ったが、確かに仲良くはしていたので、悪い気はしなかったし、先輩として頼られるのは私としては本望だ。
「まあ、勉強とかもたまに教えてるしね。」
と私はフォローをした。誰かが、
「ふーん?」
と意味深な相槌を打った。

合宿地は広い宿舎で、大きなロビーを囲むように個室が配置され、それぞれ2人部屋となっている。到着後はあらかじめ決められた部屋割に従って荷解きをした後、簡単な全体説明、そして庭でのバーベキューからスタートした。

私は、特に外向きには底抜けに明るく振る舞っていた。それはこの頃特に顕著で、暗黒だった浪人時代を抜けた私の心はとても前向きだったのだと思う。

合宿でも常に場を盛り上げ、いつもその場の中心にいた。新入生グループが話をしているのを見て
「お肉足りてる?なんの話してるの?」
と話しかけ、少し場を温めてから、ちょこんと立っていた雪乃、田口雪乃を手招いて、
「田口さん、こっち、こっち」
と自分が座っていた椅子に座らせ、
「川野くん、同じ学科でしょ?話したことある?」
と言った。
「新歓でちょっと話したくらいですかね。」
と彼が言うので、
「そうなんだ、川野くん実家で犬飼ってるって言ってたでしょ。田口さんもチワワいるんだって!」
なんて私が言うと
「えー、そうなの、写真ある!?」
と周りが盛り上がる。心配ないかな、と思ったら私はその場を離れ、今度は先輩を茶化しに行く。そんなお調子者であった。よく晴れて、星のきれいな夜だった。

エッセイコ大会の開票は、次の日の夜のパーティーで行われた。パーティーといっても、まあとにかく飲んで、ビンゴ大会と、エッセイの表彰という流れだ。ちょっとずるいやり方をしたので、予想していた通り、私は圧倒的票数で優勝し、自分で商品券を掲げ、
「これはみんなに還元します!」
と言った。2位は川野くんで、商品は洒落た写真立てである。あとでみんなの飲み代にできるよう1位は商品券にしておいたのだった。みんなの前で読めなどと先輩に言われ、一行読んだところで流石に恥ずかしくなり頭をかいて、
「代わりに飲みます!」
と私はグラスを空にするのだった。私は2浪しているので、2回生たがそろそろ21になろうとしていた。
「いいぞー!」
と誰かが声を上げ、拍手があがった。このとき雪乃がどんな顔をしていたのか、私は知らない。

全体の宴会がお開きとなった後、
「飲み足りないやつは集まれ」
と自分で集合をかけておきながら、一番最初にダウンした私は、ロビーのベンチで眠りに落ちた。

深夜に目が覚めると、ロビーの喧騒はすっかりと静まっており、数人がトランプをやっているのを除けば、あとはどこかで、私のように全員がベッドとは言わないが、寝ているのであった。ただ、私の隣には、私の顔を心配そうに覗き込む雪乃がいた。
「あー、おはよう?」
といって笑ってみせる私に、
「大丈夫ですか?」
と雪乃は聞いて、ペットボトルの水を渡してくれた。
「大丈夫、大丈夫」
と言って、それを飲み干し、
「ありがとう。まだ寝てなかったんだね。」
と言うと、
「先輩、外いきましょうよ、肝試し!!」
と急に雪乃は立ち上がり、私はよろよろとついて行った。田舎の夜はロビーよりもうるさく、虫の声や川の流れる音が響いていた。去年も来ているので私にとっては勝手知ったる場所ではあるが、雪乃には面白いのか、カサカサと草が擦れる音や、動物の声を聞いてはきゃーきゃー言ってはしゃいでいた。私は隣でそれを見て、微笑むのであった。

程なくして合宿も終わり、そのあと直ぐに2学期は始まった。相変わらず雪乃は、時々勉強をみてもらいに部室に来たり、LINEで他愛の無い話題を送ってくるのであった。あるとき私は、雪乃から誕生日を聞かれた。あんなにうるさかった蝉の大合唱は終わり、向日葵畑には耕運機が入った。10月も半ばの少し肌寒い日も出てきた季節である。

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