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正解という誤解

らいおんさんが正解について興味深い話をされていたので、それに乗っかってみようと思います。

娘は小学2年生。


といえば、そう。九九ですね。相変わらず九九カードが教材としてあり、あまつさえひとつひとつに名前をつけて持たせなければいけないわけです。そうすると名前シール屋が儲かる癒着構造でもあるかもしれません。(うちもお世話になりました)


言いたいのはそこじゃない。


たし算やひき算と違い、かけ算のルールを覚えるのもそこそこに発音で連呼して計算を覚えさせる教育。いつまでやるんでしょうね、これ?
さらに反復練習が大キライな娘が機嫌の悪い時に九九をやらせ、計算間違いだけでなく発音間違いに突っ込んでもカードが飛んできます。危ないですね。


いや、発音別にいいじゃんね。


学校で九九の記憶コンテストが例によってあるんですが、計算ミスではない発音ミスは大目に見てくれるのでしょうか?というか、かけ算の本質を無視していざ応用問題になったときに困るのでは?と疑問に思うのです。この教育、正解なの?

まだあります。


書き順です。娘は左利き。僕も母も祖母も左利きなので4代遺伝していますが、娘は右書きを矯正されず(というかできず)今も左手で書いています。
書き順は正解ではなく、あくまで右利きの人がきれいな字を書く目安だと思っています。しかし、当初奥さんは矯正させようとしました。最終的に懇談会で担任の先生に聞き、あまりこだわっていないことを聞いて今では自由に書かせています。奥さんは相変わらず指摘が細かいですが。


まだまだ。
実はこれが一番腹が立っています。


娘は葉物野菜が苦手で、家では全く食べません。困った困った。1年生で給食を無理に食べて戻したこともあります。確かに食べる努力はしてほしいし、チャレンジは称賛すべきもの。


ところが2年生の担任の指導がどうも気になるのです。


給食を残さず食べないとデザートに手をつけさせないのです。かしわもち、鬼まんじゅう、最近はみかんまで。

食育という観点では正しい側面もあるでしょう。
しかし、親が給食費を払い、管理栄養士さんが栄養を考えて用意したメニューを先生が取り上げるやり方はどうにも納得いかないのです。

さらに腹が立つのは、夏の懇談会で「そんなことはしていない」としらばっくれたこと。去年は問題になっていないのでこの担任特有のやり方だと思います。

僕は、小学生のうちは、楽しくおなかいっぱい食べるのが本当の意味での食育だと思っています。さすがに残り物のデザートを食べるのに嫌いなものを残すのはいけませんが、与えられた範囲では自由じゃなかろうか?


有休に余裕があれば冬の懇談会で尋問してこようと思いましたが、病院祭り、体調不良祭りでそれどころでなく奥さんに任せます。何なら一筆書こうか。それでも納得いかなければ市長にメールしてやろうか。


と、いうように、人によりそれぞれ正解があるのです。厳密には1+1も2とは言い切れない。実はどこかで四捨五入している可能性もありますしね。


で。
ここまで引っ張って結局何が言いたいかというと、「自分の正解を他人に押しつける前に、ちょっと考えてほしい」ということです。


学問の世界ではその進度により正解を決めることはやぶさかではありません。「あ」は「あ」で、それ以上でもそれ以下でもないわけですから。

ただ、その人のやり方やマナー、文化の類に過度に正解を求めると諍いが起こることがあります。最たるものが宗教戦争であり、人種差別です。


「そこまで言ってないよ、大げさだな」と思ったあなた。


正解を押しつけられることで、こころを壊した人間がここにいます。

2年かけて復職しましたが、どうにもいろんな人の話に納得できないことが増えました。うつ病で感情の許容範囲が狭くなっているのかもしれません。
その度に頭痛を起こし、鎮痛剤が切れるのを恐れる生活を送っているのです。

逆に僕が発した一言で、怒りや反感を買ったことも一度や二度ではありません。

さて、あなたの言う正解は、本当に「正解」なのでしょうか?

一歩立ち止まって考えてみると、違う世界が見えて興味深い体験ができるかもしれませんよ。

(了)

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