【世界のオンチェーンプロジェクト File.008】Project Ensemble/EnsembleTX
香港はなぜ、トークン化預金で実価値取引へ進んだのか
資産・銀行預金・中央銀行マネーをつなぐ、香港の段階的実装
最終更新:2026年8月
これまで取り上げてきたProject Guardian、Project Agorá、Pontes/Appiaの多くは、金融市場の将来像や、その実現可能性を検証するプロジェクトでした。
香港のProject Ensembleも、当初はサンドボックス上の実験として始まりました。
しかし2025年11月、香港金融管理局、HKMAはProject EnsembleをEnsembleTXへ移行させました。
「TX」はTransactionを意味します。
実験用のトークンではなく、実際の価値を持つ香港ドル建てトークン化預金を使い、トークン化資産を決済する管理されたパイロットです。
参加銀行と市場事業者は、トークン化預金を使って、トークン化MMFなどの金融資産をDelivery versus Payment、DvPで決済できるようになりました。
Project Ensembleは、次の問いに答えようとしています。
トークン化された資産を、銀行預金で本当に購入・決済できるか。
さらに、その先には、
銀行ごとに異なる預金、異なる資産基盤、中央銀行マネーを、24時間利用できる一つの金融市場として接続できるか。
という問いがあります。
EnsembleTXは、香港が「トークン化は技術的に可能か」という段階から、「実際の顧客資金を使い、商用化を阻む問題を洗い出す」段階へ進んだことを示しています。
Project Card
正式名称
Project Ensemble/EnsembleTX
主催者
Hong Kong Monetary Authority:HKMA
開始時期
Project Ensemble:2024年3月
Ensemble Sandbox:2024年8月
EnsembleTX:2025年11月
対象資産
トークン化MMF
債券・債券型商品
グリーン・サステナブル資産
貿易・サプライチェーン金融資産
その他のトークン化金融資産・実物資産
決済資産
香港ドル建てトークン化預金
将来はトークン化中央銀行マネー
現在の段階
実価値取引を行う管理されたパイロット
初期ユースケース
トークン化MMFの決済
リアルタイムの流動性管理
企業財務・資金管理
トークン化預金を提供する銀行
Bank of China(Hong Kong)
China Construction Bank(Asia)
Fubon Bank(Hong Kong)
Fusion Bank
Standard Chartered Bank(Hong Kong)
Bank of East Asia
HSBC
これら7行は、香港の顧客へトークン化預金を提供し、銀行をまたぐ取引についてEnsembleTXを通じた実価値決済へ参加する銀行として公表されています。
Project Ensembleは何を解決しようとしているのか
金融資産のトークン化は、すでに技術的には珍しいものではありません。
債券、ファンド、売掛債権、不動産持分などを、DLT上のトークンとして発行することはできます。
しかし、資産をトークン化しただけでは市場は完成しません。
例えばトークン化MMFを購入するときには、
投資家が購入を申し込む
本人確認と投資資格を確認する
購入代金を支払う
MMFトークンを投資家へ移転する
ファンドの権利者記録を更新する
銀行・運用会社・カストディアンの帳簿へ反映する
という処理が必要です。
資産側だけがDLT上にあり、資金側が従来の銀行振込であれば、資産と資金は異なるシステムと時間帯で動きます。
その結果、
資金を払ったのに資産を受け取れない
資産を渡したのに資金を受け取れない
資産と資金の照合が必要になる
夜間・休日には処理が止まる
複数の帳簿間で不一致が生じる
という問題が残ります。
Project Ensembleの目的は、トークン化資産とトークン化された銀行マネーを接続し、資産と資金を同じ取引条件で処理できる市場基盤を作ることです。
HKMAは2024年のSandboxで、固定利付商品・投資ファンド、流動性管理、グリーン・サステナブル金融、貿易・サプライチェーン金融の4領域を検証しました。
SandboxからEnsembleTXへ
Project Ensembleは、二段階で進められています。
第1段階|Ensemble Sandbox
Sandboxでは、実験用のトークン化預金を使って、資産取引のエンド・ツー・エンド処理を検証しました。
主な目的は、
トークン化資産を発行できるか
銀行のトークン化預金と接続できるか
DvPを実行できるか
異なる基盤間でデータを連携できるか
法務・規制・会計上の課題は何か
共通の技術標準を作れるか
を確認することでした。
この段階では、技術的な実現可能性の確認が中心でした。
第2段階|EnsembleTX
EnsembleTXでは、実験用資産ではなく、実際の銀行預金とデジタル資産を使います。
実価値を使うと、PoCでは見えにくかった問題が現れます。
顧客資産を誰が管理するのか
どの時点で預金債権が発生・消滅するのか
誤処理を取り消せるのか
障害時に誰が損失を負担するのか
取引をどの帳簿へ計上するのか
24時間の運用・監視を誰が担うのか
規制当局へどのように報告するのか
商用サービスとして費用を回収できるか
EnsembleTXは、技術実証を繰り返す場ではなく、商用化を阻む法務、規制、運用、技術、事業上の問題を実取引で確認する場です。
トークン化預金は、どのように使われるのか
トークン化預金は、ステーブルコインとは異なります。
銀行が顧客に対して負う預金債務を、DLT上で利用可能な形にしたものです。
保有者は、原則として発行銀行に対する預金債権を持ちます。
通常の預金と同様に、
発行銀行
顧客口座
本人確認
AML/CFT
残高
発行・償還
凍結・取消し
を銀行が管理します。
違いは、預金をプログラムから操作できる点です。
例えば、
MMFトークンが移転した場合だけ支払う
指定された相手だけに移転する
条件成立まで資金をロックする
満期に自動償還する
企業の残高が一定以下になったら補充する
といった処理へ組み込めます。
ただし、銀行ごとのトークン化預金は、同じ香港ドル建てであっても、異なる銀行に対する預金債権です。
HSBCの1香港ドルとStandard Charteredの1香港ドルは、額面は同じでも法的債務者が異なります。
したがって、異なる銀行の顧客間で支払うには、トークンを移転するだけでなく、銀行間決済が必要です。
EnsembleTXの現在のアーキテクチャ
EnsembleTXの初期構成は、すべてを新しい共通台帳へ載せるものではありません。
主な構成要素は、
各銀行のトークン化預金基盤
各市場事業者のトークン化資産基盤
Ensemble Interoperability Layer
香港の既存RTGS
です。
各銀行が自行の預金を管理する
預金は各銀行の負債です。
そのため、各銀行は自行のトークン化預金について、
発行
移転
償還
顧客管理
残高管理
鍵・権限管理
を維持します。
資産基盤は一つに統一しない
トークン化MMF、債券、貿易資産などは、異なるプラットフォームで発行される可能性があります。
Ensembleは、一つの指定チェーンに全資産を集めるのではなく、複数の基盤を接続する構造を採用しています。
Interoperability Layerが状態を同期する
Ensemble Interoperability Layerは、異なる資産基盤と銀行の預金基盤を接続し、資産と資金の取引状態を同期します。
ここで重要なのは、相互運用が単なるメッセージ転送ではないことです。
資産がロックされた
資金が確保された
コンプライアンス確認が終わった
取引を実行できる
取引が確定した
失敗してロックを解除した
といった状態を、複数の基盤間で揃える必要があります。
銀行間決済には既存RTGSを利用する
買い手と売り手が異なる銀行を利用する場合、銀行間の最終的な香港ドル決済が必要です。
EnsembleTXの初期構成では、既存の香港ドルRTGSを銀行間決済に利用します。
これは、中央銀行マネーを直ちにDLT上へ移すのではなく、実績のある既存インフラを決済のアンカーとして使う現実的な構成です。
トークン化MMFを購入する取引
概念的な取引フローは、次のように整理できます。
Step 1|投資家がMMFを購入する
A銀行の顧客が、運用会社のトークン化MMFを購入します。
銀行と運用会社は、
顧客本人
投資資格
制裁・AML
購入金額
商品条件
を確認します。
Step 2|資金を確保する
A銀行は、顧客の預金をロックするか、対応するトークン化預金を発行します。
同じ資金を別の取引へ使えない状態にします。
Step 3|MMFトークンをロックする
運用会社または資産基盤は、投資家へ移転するMMFトークンを確保します。
Step 4|取引条件を同期する
Interoperability Layerを通じて、
資金が確保された
MMFトークンが確保された
参加者確認が完了した
という状態を同期します。
Step 5|銀行間決済を行う
運用会社側の銀行がA銀行と異なる場合は、既存RTGSを使って中央銀行マネーによる銀行間決済を行います。
Step 6|DvPを確定する
資金決済が完了した場合にだけ、MMFトークンを投資家へ移転します。
資金決済が失敗した場合は、MMFトークンと預金のロックを解除します。
実際のEnsembleTXの詳細なスマートコントラクト、状態モデル、タイムアウト処理は公開資料だけでは確認できません。
このフローは、公表されたアーキテクチャに基づく概念整理です。
なぜ最初の対象がMMFなのか
トークン化MMFは、オンチェーン金融において実用性が高い資産です。
企業や金融機関は、預金として保有する必要のない余剰資金を、短期のMMFで運用できます。
しかし、従来のMMFには、
申込み時間
締切時刻
基準価額計算
受渡日
償還時間
銀行口座への入金
という時間差があります。
MMFをトークン化し、預金と即時に交換できれば、
余剰資金を自動運用する
必要な時点で自動償還する
担保として利用する
夜間・休日に資金を移す
決済直前まで利回りを得る
といった利用が可能になります。
MMFは、単なる投資商品ではなく、預金と市場性資産の間をつなぐ流動性管理手段になります。
HKMAはEnsembleTXの初期対象として、トークン化MMFの決済とリアルタイムの流動性・財務管理を明示しています。
デジタルツインからデジタルネイティブへ
現在のトークン化資産の多くは、Digital Twin型です。
トークンとは別に、従来の権利者名簿や帳簿が存在します。
例えばMMFトークンを移転しても、運用会社や名簿管理人のオフチェーン記録も更新しなければ、正式な権利移転が完了しない場合があります。
この構成では、トークン化によって処理を自動化できても、DLTと既存帳簿の照合は残ります。
HKMAが目指す将来像は、Digital Native型です。
トークン自体が権利の正本となり、その移転によって法的な所有者記録も変わる構造です。
デジタルネイティブ型になれば、
二重台帳
オフチェーン名簿との照合
権利移転の時間差
手作業による更新
を減らせます。
ただし、これは技術だけでは実現できません。
証券法、信託法、ファンド規則、カストディ、倒産法などで、DLT上の記録に正本性を持たせる必要があります。
HKMA自身も、EnsembleTXの初期構成は実用化へ進むための現実的な第一歩であり、デジタルネイティブ型は将来の到達点だと整理しています。
次の段階は中央銀行マネー
現在のEnsembleTXでは、銀行間決済に既存RTGSを利用します。
しかし、資産基盤とトークン化預金が24時間動いても、銀行間決済がRTGSの運用時間に制約されれば、完全な24時間市場にはなりません。
そこでHKMAは、次の段階として、
トークン化預金の銀行間決済を、トークン化中央銀行マネーで行う
構想を示しています。
これが実現すれば、
銀行のトークン化預金
トークン化MMFや債券
中央銀行マネー
をDLT環境で同期できるようになります。
銀行間決済まで24時間動かせれば、オンチェーン資産市場の取引時間と決済時間を一致させられます。
HKMAはEnsembleTXの環境を段階的に拡張し、トークン化預金をCBDCで決済する24時間365日の構成へ進める方針です。
GBTDとの違い
英国のGBTDも、複数銀行のトークン化預金を外部の資産や契約条件と同期します。
ただし、重点が異なります。
GBTD
オンライン購入
住宅ローン
デジタル債券
消費者・法人を含む支払い
詐欺防止や契約履行との同期
EnsembleTX
MMFや金融資産
機関投資家・企業財務
流動性管理
資本市場のDvP
将来の中央銀行マネー決済
GBTDが銀行預金を日常取引の条件付き決済へ広げるのに対し、EnsembleTXは金融市場と企業財務を中心に実価値利用を進めています。
Project Ensembleが示したこと
Project Ensembleの重要性は、香港がトークン化預金を発行したことだけではありません。
重要なのは、
資産基盤、銀行預金、既存RTGSを接続し、すべてを新しい基盤へ移さなくても実価値取引を始めたこと
です。
EnsembleTXの初期構成は、完全なオンチェーン金融市場ではありません。
既存RTGS、オフチェーン帳簿、デジタルツイン型資産も残っています。
しかし、完成した理想的な基盤を待たず、
相互運用レイヤーを置く
既存中央銀行決済を利用する
実価値取引を限定的に始める
運用で判明した問題を次の設計へ反映する
という段階的な移行を選びました。
タイトルの問いへの答えは、次のようになります。
香港が実価値取引へ進めたのは、すべてをDLTへ置き換えたからではない。
既存RTGSを残し、異なる基盤を相互運用レイヤーで接続したからである。
次回予告
次回はProject mBridgeを取り上げます。
Project Ensembleが香港のトークン化資産と銀行預金を接続するのに対し、mBridgeは複数国の中央銀行デジタル通貨を一つの基盤で交換します。

