シロクマ文芸部|海の猫がいた日
〝海の猫〟を拾ったのは海岸通りのバス停だった。
得体の知れないヌルついた生き物がゆっくりとこちらに首を向けミュウと鳴いたとき、わたしは反射的にそれを抱き上げていた。手のひらに収まるほど小さく、触れた指先にひんやりとした海の記憶が宿っていた。まだ子どものようだ。
不思議な生き物だった。雛鳥のように体毛はなく、けれど嘴は持たず、ピンク色の皮膚には海藻のような斑点が波打つように浮かび、背中にはちいさな突起がいくつも並んでいた。
仔は、ぬらぬらした大きな瞳でわたしを見上げながら透明な皮膚の下で内臓を静かに動かした。
カーディガンにくるんで自転車のカゴに乗せ、夢中で漕いだ。途中の坂でトラックが横切ったとき小さな生き物がカゴの中でぴょこんと跳ね、E.Tの赤ちゃんがびっくりしてジャンプしたみたいで可笑しくて、ごめんねと謝った。
スマートフォンで「海の猫 育て方」と検索すると、どうやら海水で濡れていないと皮膚がはがれてしまうらしい。
あわてて洗面台に水を張り、家中の塩を入れ、その中に幼い海の猫を放った。仔はしばらくラッコのように這い回ったあと、丸いお腹を突き出して水に浮かび、排水口に流されないよう後ろ脚を縁に引っ掛け、まぶたを閉じてウトウト居眠りをしはじめた。
小さな鼻先から時折上がる泡は深海から立ち上っているみたいだ。
夜中、ミュウミュウと鳴いた。母親を呼んでいるのだろうか。
「海の猫 子ども 特徴」と調べても情報はなかった。
代わりにこの奇妙な生き物が恐竜の末裔だと知った。どうりで怪獣っぽい。
スーパーで生肉と猫缶を買ってお皿に取り分けて床に置いた。
さあ、おチビちゃん、お食べ。
ちいさな生き物は肉の匂いを嗅ぐと、ぬるっと首を伸ばし一気に食べ尽くした。猫缶には見向きもしなかった。
仔は満腹になると、後ろ脚でのろのろとわたしの膝まで登りそのままスカートの上で丸くなって眠ってしまった。野生的なのに、こんなにも軽くて壊れそうでドキドキしてしまう。
ミュウ、と名付けようとしたけれどやめた。母親が心配しているだろう。早く戻さなければ。
次の夜、海に還しに行った。自転車のカゴに乗せ、ブレーキの音をたてないようゆっくりと坂を下る。夜風に混じって潮の香りが濃くなっていく。
夜の海は静かだった。猫の目のような三日月がのぼり、凪いでいて、世界全体が息を潜めているようだった。
バス停まで来たとき、正面からひときわ大きな影があらわれた。のしのしと巨体を揺らしながらこちらに近づいてくる。
母親だとすぐにわかった。空気が重くなり海の匂いが濃くなった。
正真正銘、〝海の猫〟だった。
その姿は何万年も前に失われた生き物の記憶がすべて蓄積されたような形状をしていた。体毛はなく、代わりに濡れた石のような皮膚がぬらぬらと光り、月明かりの下で太古の海を思わせる美しさを放っていた。
口は閉じられ、どんな些細な音も聴き逃すまいとする両耳はピンと立ち上がり、神秘的なモスグリーンの瞳は揺れながらずっとこちらを見つめている。
母親はわたしの目の前までやって来ると、首を垂れ、カゴの中でカーディガンに包まれた子どもを一瞥し、もう一度わたしにふり返ってゆっくりと瞬きをした。時間が止まったようなその動きは優雅さすらあった。
逢えてよかったです。
そう告げたその瞬間、足元がふわりと浮いた。
わたしは母親の濡れた腕に抱かれ、高々と持ち上げられていた。まるで古い映画の中でキングコングが女性を大切に抱えるように──やさしく抗いがたい力だった。
遠くまで一望できた。
海の向こうで花火があがり、三日月が銀色に輝いて海を照らしていた。海面が束ねた絹のように細かく揺れている。潮風が頬に触れて心地いい。
母親の腕から見下ろす景色の中で街の屋根がぬらりと動いた。無数の海の猫たちがその下に身を潜めてミュウミュウと鳴いているようだった。
きっと街にはまだ、この不思議な生き物たちが棲んでいるのだ。
わたしは生温かい躰に揺られながら、恐竜たちと共に生きた遠い記憶が静かに蘇ってくる気がした。
そうだ。これから拾い上げる誰かのために、「海の猫 好きな食べ物 生肉」と残しておかなくては。
母親はかつて恐竜たちが生きていた太古の空気を押し分けるように、悠々と歩きだした。
バス停の前で傾いたまま置かれた自転車のカゴから小さな耳をぴんと立てたあの仔がわたしたちを見上げていた。
了
#シロクマ文芸部 へ参加させていただきました。
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