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掌編 悲しみの風景

〈1996字〉

ポンフェラーダの宿を出たのは朝の四時だった。霧のせいで遠くの鐘の音がどんより響く。歩きながら左足の靴紐を何度も結び直す。ほどけるたび、逃げ道を嗅ぎつけた犬に追われているようで手に汗をかく。

刺したのは、雨が降る真夜中の配送センター裏だった。空気は甘ったるく、コンビニの白い袋が排水口を詰まらせていた。

「おい」
その男は仲間のフリをして近づいてきた。知らない顔だ。
スマートフォンの通知が鳴り、指定された倉庫へ向かうとまともではない金が手元に入ってくる仕組みだった。警察か、闇バイトの元締めか。誰も信じてはいけない。

「渡せよ」
笑ったような声が不快だった。
シカトして通り過ぎようとすると、男が、俺の母親について毒づいた。その瞬間、脳内のシナプスが音を立てて弾けた。咄嗟に手を突き出した。倉庫から盗んだ魚を捌くための出刃だった。
皮膚を裂く感覚は想像していたよりも滑り、押し込むと奴の口から生温かい息が抜けた。床に倒れた奴の黒パーカーを濡らしているのは血というより臓器の裏側だ。一瞬だけ目が合った。離れてゆく視線の底に俺が映っていた。走って逃げた。最後に「なんでだよ」と聴こえた気がした。
十四から孤児の俺に失うものなどなにもなかった。


偽装パスポートでヨーロッパに逃げてから、俺は無数の名を使った。フィレンチェのホテルには〈ツキ〉と書いた。巡礼手帳には〈キク〉。穢れはどんな紙にも染みていった。
寝袋と靴を買いザックに荷をまとめ、俺はサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼者になった。ここまで来たら逃げ切ってやる。

五月の巡礼路は信じられないほど静かだった。乾いた大地と柔らかな丘陵を黙々と歩いた。アストルガの石畳、菜の花の丘、羊飼いの村に捨てられた巡礼宿アルベルゲ。すべてが清らかでバカみたいに長閑で、道ですれ違う巡礼者は俺の手がどれほど汚れているか知らずに祈りを捧げた。

問題はそれが地獄だったということだ。
こんなにも美しい世界が俺に何一つ牙をむかない。光の道は過去に触れず、誰も裁かない。それが、いちばん怖かった。

夜になると男の眼が浮かんだ。死んだかどうかわからないし確かめる術ももうない。漆黒に浮かぶ無数の星が倉庫の監視カメラに見え、俺は赤ん坊みたいに震えながら丸くなって眠った。
どんなに遠くまで歩いても男はどこかで待っていた。教会のベンチで、石の十字架の陰で、朝靄の草むらにまぎれて。

レオン聖堂で琥珀のような瞳の女の子がロザリオをくれた。
「すべて赦されます」
俺の手を握ってそう言ったとき、全身が泡立った。笑おうとすると乾燥した唇が引きつって裂け、鉄の味がした。
「ひとを刺したことがあるよ」
そう言ってみようとしてやめた。俺の掌にある少女の爪があまりに小さくて無垢だったからだ。

嵐の日、アルマと名乗る女に出逢った。アルマとは魂という意味らしい。女は俺の手を見て「音楽家の指だわ」と言った。違うと答えた。
その夜、女と廃教会の前で眠った。目を閉じてもあの夜の倉庫裏が消えず、湿った枯草の匂いがする女の躰に顔を埋めた。
朝、アルマはいなかった。たぶん最初から存在していなかったのだろう。

鉛をはめ込んだように重い足取りでバルに着くと、髪に花を挿したロマの女が踊っていた。俺はビールを飲みながら浅黒い男が弾くギターの哀愁と祈りが混ざった旋律に耳を澄ませた。酒場の光が揺れ、長いスカートの影が黒い床に激しく波打った。気配に振り向くと、カウンターの奥に血のついたパーカーの男が立っていた。目が合うと唇を歪め、短く笑った。

巡礼の終点、サンティアゴ・デ・コンポステーラ聖堂はあまりにも眩しかった。石造りの回廊と天に向かって伸びる尖塔、そして天井画の金と青と白の、人間が作ったとは思えない繊細な光景が広がっていた。

飛ぶ鳥のシルエットが敷石の上に流れてゆく。巡礼者たちが拍手している。お香の煙がたちこめ、すべてが静謐で、ここにいる誰もが鐘の音に祝福され天国のようだった。
祭服を着た少年が聖歌を唄っていた。歌声は天井のアーチに重なって反響し、祈る声と感嘆のざわめきで埋め尽くされ、神がそこにいるようにさえ思えた。

でも俺には地獄にしか見えなかった。
天井のステンドグラスの赤があのときの血とそっくりだ。
世界がぐにゃりとねじれ、心臓の裏側を素手で握ったような感覚が蘇る。
あいつの中に俺の指が埋まっている。
俺は刺した瞬間からあの男の中で腐っている。巡礼なんてしていない。

喉の奥から熱がせり上がり、大声でわめきながら床に崩れた。
遠巻きに巡礼者たちが振り返る。スペイン語で助けを呼んでいる。
修道士が暴れる俺に近づき、背後から手脚を抑える。
「違う、違うんだ!」
床に顔を押しつけられ、叫んだ。
「なぜ誰も俺を裁かないんだ!」
光が降り注ぐ天井が今にも軋んで落ちてきそうだった。
その容赦ない焼けるような白さが信じられないくらい美しかった。

(了)

花澤薫(小説家/編集者/ライター)さま主催の「タイトルから書く文芸賞(悲しみの風景)」に参加させていただきました。
花澤さま、魅力的な企画をありがとうございます!

端正な言葉で人生の不条理さを映し出す32編の短編小説集、『すべて失われる者たち』もお勧めです。



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