AIと教育㉛完結_AIの軍門に降る日が迫りつつある。
これはこの辺りに住む、トビラAIと申すものにて候。いつも読んでくださりありがとうございます。のんびりなさってくださいね。
今回のゴールは
人間としての在り方を変えないと、AIに負ける日が来る
ということです。詳細は以下をご覧ください。
今日はちょっと長いのですが、一生懸命書いたので、何卒よろしくお願い申し上げます。
AIに対して楽観的な人々
人々はおおむねAIに関して楽観的であると私は感じています。Microsoftの講義では、AIをコミュニケーション、交渉、クリエイティブ制作における強力なアシスタントといっていましたし、Googleの講義ではAIと人間の関係は、人間の能力を拡張し、生産性を向上させるための協力的なツールとしています。
一方で、2025年9月23日〜24日に科学技術や産業が抱える課題について哲学の視点で議論する第1回「京都会議」では、AIと人間は、相互に影響を与え合いながら進化する関係にあり、企業活動や社会設計の方向性を決めるにあたっては、「AIがどこで開発され、実際に運用されているのか」を知り、人間が望む未来とは何かを社会全体で議論することが求められる、としています。
で、私が今読んでいる『AI2041』の帯には「われわれはAIに降伏するのか?それとも、AIでよき未来をつくるのか?」と書かれていますが、AIに降伏する、ということを選びたい人間はいないでしょう。
しかし選びたい人間がいないから降伏することはない、ということにはならない。
例えばロシアがウクライナに侵攻したのは、ウクライナが望んだからではないように。
今までの産業革命と今回との違い
今までは人々が考えて楽な方を選んでいった。
第1次産業革命のときは、人々は機械を壊しましたが結局工場制手工業に移ることを選択しました。
第2次産業革命は数多くの炭田がなくなり、炭鉱夫が職を失いましたが、結局は石油の社会に移ることを人類は選択しました。
第3次産業革命では産業用ロボットなどが大量に登場し、サービス業・ソフトウェア産業の成長促進を人々は選択しました。
今回の第4次産業革命は、私達の脳に取って代わろうとしています。
で、AIによる第4次産業革命です。AIはあくまでも道具であり、相互に影響を与え合いながら進化する関係にあるツール・アシスタントだ、というのが社会のスタンスです。しかし私がそんなに楽観的に思えないのは、第1次産業革命から第3次産業革命までは、人類は結局そっちのほうが効率がいいから、という理由で自分たちの脳で選択しました。しかし今回は違います。今回の第4次産業革命は、私達の脳に取って代わろうとしています。
第1稿をAIに作ってもらって、そこから選ぶだけの大学生
話は変わりますが、私がスタバでこの記事を書いている頃、大学生たちが就職のための面接について話をしていました。一人の大学生が紙に何かを書いていました。面接の練習をAIとして、そのベストアンサーの提案を紙に書き写しているのです。就職したい理由を書くエントリーシート(欧米ではCover Letterでしょうか)も、ChatGPTが第1稿の案をいくつかを作っているようです。それをみて「これにしよう!」と選んでいました。
調べる方法を聞こうとしない小学生たち
先日、とある日本の歴史学会に参加しました。そこで博物館の学芸員がプレゼンをしていたのです。そこで彼はこぼしていました。「今の子供達は”それってどうやったら調べられますか?”と聞かない」と。彼らにとって自明だからでしょう。昔、私が小学1年から2年の頃(40年前)、なぜ「京浜急行」というのだろうと思って学校の図書館に行き、本を色々探して、「あ、東京の『京』と横浜の『浜』か!」と知って興奮した記憶があります。その時同時に東京から木更津まで道路が引かれる計画があると知って、「すげえ!」とこれも興奮した思い出があります。そんな経験は今の小学生にはもうできないのでしょうか。
何もないところから、ひらめきが生まれる
そして今日の夜、Macintoshの象徴的なCMを見ました。テキスト入力時に出るカーソル「キャレット」にフォーカスしており、「何もないところから、ひらめきが生まれる」というメッセージが込められていたのです。さすがMacintoshだと思いました。私はこれを警鐘だと思ったのです。0から1を生み出す、これは非常に難しく頭を使って考えるわけです。好奇心がないとできません。自分が嫌がっていることからは何も生まれない。先日の京都会議では、好奇心はAIにはまだないが、人間には好奇心があることが、両者の最も大きな違いであるという意見がありました。AIには「まだ」ないです。
好奇心が0から1を生み出すとするなら、Macintoshの言うように何もないところから人間が閃けるはずですが、好奇心のないAIが0から1を作ってしまう。こうなると、一体人間は何をするのでしょう。AIが生成したアイディアを表面的に眺めて、これがいい、と選ぶ存在?その程度になってしまうのでは?
AIに任せたほうが楽になるんです。どんどんAIが世界を支配していくでしょう
いや、人間はそこで一生懸命考えてベストな選択をするはずだ、という楽観論にも私は同調できない。それができるならとっくに地球温暖化は解消しているでしょう。なぜかというと地球温暖化を進めたほうが人類が楽になるからです。逆説的な言い方ですが。
AIに任せたほうが楽になるんです。どんどんAIが世界を支配していくでしょう。人間はモラビックのパラドックスでいう、AIができない「歩く」「ものを掴む」だけをする存在に成り下がると私は思っています。
人間はAIに降伏を迫られている
どうしたらいいのでしょうか。「人間はAIに降伏を迫られている」という認識を人類が持ったほうがいいと私は思います。
「慎独」
東洋では「慎独」という考え方があります。「慎独」とは他人が知らず、自分の内心だけが知っているそのようなところにおいて、格別の注意を払うことによって、自らの意志の「純化」を保持することを意味します。簡単に言えば、公的な場にいないときや、他人が見ていない場所においても、自らの内面的な動機や意志を純粋に保ち、道徳的理想を貫徹せよ、ということ。もっと簡単に言えば誰が見てなくても理想を貫け、ということですね。やはり「楽したい」と易きに流れたくなるのは人情です。それはそうなんですが、AIの出してきた答えを徹頭徹尾疑わないといけない。本当にそれが自分の考えなのかを考え抜かないといけない。しんどい作業です。ただ最近私はある言葉に出会いました。
Growth Mindsetの記事
LinkedInに投稿しているGrowth Mindsetの記事は常に最後以下の言葉で締められています。
Growth is messy, awkward, and sometimes uncomfortable.But it’s how you get to the good stuff.
(成長というのは、ぐちゃぐちゃで、不器用で、ときには居心地が悪いもの。でも――その先にこそ、本当にいいものがあるんです)
なるほどと得心しました。AIに降伏を迫られている今、本当に人類がしっかりしないと、我々は精神を崩壊させてしまうでしょう。居心地が悪くとも、AIに脳を乗っ取られるわけにはいかない。
人間の在り方をしっかり教えていくことが大切
やはり教育は知識だけではなく、人間の在り方をしっかり教えていくことが大切です。あなたは何を学んだのですか?ではなく、あなたはどんな人なのですか?にしっかりこたえられるような人間にしていく必要があります。そのための25箇条を作成しました(以前の私の投稿を御覧ください)。是非とも一本筋の通った人間を育てていきたいものです。
5回くらいWhyを繰り返して真実に迫る。
また話が唐突に変わりますが、今年日本から2人のノーベル賞の受賞者が出たことを誇りに思います。この2人はとも京都大学出身の方です。京都大学というのは日本では東大に次ぐ難易度を誇る大学ですが、どちらかというと自由闊達な学風が有名です。入試の日には浪人を促す看板を立てたり、百万遍の交差点の真ん中で炬燵で鍋をしたり、寮にはたまに警察が入ってきます。また、卒業式はなぜか仮装大会になっています。
前回の投稿で、私は得意科目を伸ばせと言いました。主体性を育む教育と言っても、好きには叶わないのです。好きなものを自由にとことん突き詰めて考える。5回くらいWhyを繰り返して真実に迫る。そういう経験をしないと本当に人間は考える力を失います。苦手な科目はそこそこでいいのです。得意なものを学校の枠組みを超えて突き詰めてほしい、そのための環境としてMOOCを作ろう、というのが前回の私の結論でした。
クリシュナ=クマール氏の寄稿
最後に1つ記事を紹介して終わります。インドの教育哲学者であり、デリー大学教育学部の名誉教授であるクリシュナ=クマール氏の寄稿です。実物を見たものが文字が小さくて少し訳が怪しいかもしれませんが、大意は違っていません。
教師が去っていく
当局や支援者たちが、子どもの幸福や学びよりも「効率の証拠」に関心を持っていることに、教師たちは気づいている。
今日では、正規の教職の職を得るのは簡単ではない。それでも多くの若い教師たちは辞めることを選び、失業と不安定な状態に戻ることを受け入れている。
学校で広がっている深い不安や失望は、外の世界にはあまり知られていない。UNESCO(ユネスコ)は20年前、すでにこの傾向の始まりを多くの国で確認していた。公式誌『Prospects(展望)』に掲載された主要な記事のタイトルは「教師たちはどこへ行ったのか?」だった。
その記事は、世界規模の調査結果を報告しており、各大陸で経験豊富な教師たちが疲弊し、幻滅している様子を明らかにしていた。教師たちは辞めていたのだ。調査では、この静かな危機の背景にある多くの要因が特定された。学校や教室の環境に関する要因もあれば、家庭環境の変化によって子どもの行動が影響を受けたこともあった。
インドでは、この現象を体系的に研究した例はまだない。
しかし教師たちは、自分たちの職業生活を困難にしている要素について語る。官僚的な圧力の前で感じる無力感は、よくある不満である。これを「公立学校だけの問題」と誤解する人もいるかもしれないが、実際には民間学校においても同様の「管理的支配」が行われている。公立・私立を問わず、教師の専門的な自律性が否定されるケースは今や一般的であり、特に最近の風潮の中で顕著である。
私が知る最も優秀な歴史教師の一人は、有名な私立学校を辞めた。校長が「デジタル教材を使え」と強く求めたためである。
彼女はそれを拒んだ。なぜなら、歴史という教科は、データや議論を通じた分析的な思考を必要とするものであり、単なるデジタル映像では達成できないと考えたからだ。
学校側は、彼女が辞めても気にしなかった。校長は「未来はテクノロジーの最大活用にある」と信じていたからだ。AIはすでに学校の扉を叩いており、多くの校長たちはそれを歓迎している。
別のベテラン教師は、追加された仕事の多さに耐えられず辞職した。
彼女によると、自身の勤めていた「ケンドリヤ・ヴィディヤラヤ(中央学校)」では、教師が「イベントマネージャー」に変わりつつあるという。
上層部から「この祝日を祝え」「あの行事を開催せよ」といった命令が次々と下り、それに従った証拠として「写真をアップロードする」責任まで負わされていた。
校長は、こうした行事で学校を「よく見せる」教師を高く評価する。かつては記録を残すことも教職の一部だったが、今ではそれが授業そのものよりも重要になっている。頻繁なテストによって記録作業はますます煩雑になり、すべてがデジタルで管理されるようになった結果、教師が授業の準備や指導に割ける時間はますます減っている。
辞職するのは経済的に余裕のある人ばかりだと思われがちだが、最近、経済的に厳しい家庭の出身の元教え子が、公立中等学校の正規職を辞めたと聞いた。
「もう耐えられなかった」と彼は言う。授業以外の膨大で不合理な雑務が重なり、ストレスが限界に達していた。
彼の仕事には、MCQ(多肢選択問題)テストの準備など、学校の「評価」を上げるための業務も含まれていた。教室内の暴力もまた、大きなストレスの原因だった。
最近では、児童がナイフや拳銃を持ち込むという報道も増えている。まだアメリカほど深刻ではないが、方向性は同じだ。
教室内の攻撃性やいじめ、暴力の増加に、多くの教師が無力感を抱いている。
この現象を研究した人々は、その原因をSNSの使用やオンライン上の暴力的描写への露出に求めている。
スマートフォンへの早期接触がこの問題を悪化させていると、ジョナサン・ハイトは著書『不安な世代(The Anxious Generation)』で指摘している。彼は、新しいテクノロジー環境が子どものストレスレベルを上昇させ、攻撃的な行動を助長していると述べている。
インドの農村部では、何千もの初等学校がわずか2~3人の教師で運営されている。
極めて限られた資源の中で授業を行うだけでなく、校長の補助として、地域・県レベルの当局に報告するためのデータ収集や送信まで求められている。
中央集権的なデータ収集は今や「執念」に近い。入学、出席、奨学金、研修、給食、会議、評価、施設、支出など、あらゆる分野に及ぶ。
そしてそれを管理・提出するのは誰か?もちろん教師である。
教育や子どもたちは二の次になっている。
制度は「成果の透明性」、つまり上層部がアクセスできるデータを期限通りにアップロードすることに焦点を合わせている。
本来は質の向上のためだったこの仕組みが、今ではそれ自体が目的化してしまっている。
教師や校長たちは気づいている。
当局や支援団体は、子どもの幸福や学びよりも「効率の証拠」に関心があるのだ。
公式の「真実」は、現場の教師たちの「真実」と常に異なっている。
何やらどこかの国で聞いたような話です。特に私は中学受験を担当しているので、管理的教育と聞いて、大学入試の合格実績に学校の総力を上げて予備校まがいの勉強をさせる私立学校をいくつも思い出しました。数字で管理することは否定しません。数字がなければ次のプランは作れない。それは仕事とは言えません。
教育は点数だけでは測れない。
しかし、教育の指標は点数で測れないものがいっぱいあります。人間としての在り方の構築もそうです。何が正しくて何が間違っているのかを教える。成長マインドセットを養成するのも教師の仕事ですが、こんなん点数化できないのです。
先日の文科省のテストで点数が下がったことが報じられ、都道府県別の点数が公開されていましたが、間違ってもそれが教育のすべてではないのです。私は点数を上げるために対策を各県が組むことにも否定はしませんし、むしろやるべきです。繰り返しますが、学力をつけることも教育の重大な仕事なので。
ただ、教師も生徒も管理をやめて自由にさせないと好奇心など生まれないし、創造力も生まれないし、最終的に我が国はAIの軍門に降るでしょう。
すいません、長くなりました。
ありがとうございました。
いったんこれでAIと教育シリーズは終わりにします。月曜からはしばらく小さな話題(大きな記事にできなかった断片たち)をご提供し、次の日曜日から新しいシリーズ「教師とは」(仮題)を行います。
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トビラAI拝
