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律法から学ぶNo.27『タズリア』

2026年3月22日

 今日はパラシャット・ハシャブアの第27週目、「タズリア」といわれるパラシャ(聖書箇所)について考えていきます。「タズリア(תזריע)」とは「身重になる」、「妊娠する」という意味になり、女性が妊娠して出産する時、または月経の際の汚れの期間について語られるところから今回のパラシャがはじまります。
今回の箇所は現代において理解の難しい部分だと思います。恐らく、教会でレビ記のこの箇所が取り上げられて語られることはほぼ無いと思います。

 ■今週のパラシャ
   レビ12:1~13:59
 ■ハフタラ(預言書)
   列王記下4:42~5:19
 ■新約聖書
 (メシアニック・ジューの方々が参照する新約聖書の箇所)
   ルカ2:22~40

※バイブルクラスのスケジュールの関係で本来のパラシャット・ハシャブアの朗読週間とは一致していません。


1.女性の清めのための期間

レビ記12章では女性が月経の際、また出産の際に一定期間、汚れるとしています。月経は出血が止まる7日間、汚れるとされて、その間に幕屋や神殿に入ることは許されません。出産も男の子の場合は生んでから7日間は汚れているとされ、その後はまた清めのため33日間、自宅で過ごさなければなりません。さらに女の子を産んだ時は汚れの期間が倍の14日間、そのための清めの期間も倍の66日間と定められています。

これに対して現代キリスト教の主な考え方は当時のイスラエルの医療観・文化的象徴性を反映したもので、女性を蔑視したものではなく出産時の母体を休ませるために定められたと解釈、レビ記12章は儀式律法であるのでキリストによって守る必要がなくなったとされています。
敢えて意地悪な言い方をしちゃいますが、いろいろな理由や解釈をつけながらも、キリストが十字架に掛かったことで古い戒めとしてまるごと片付けられてしまっているという状況です。

もう少し、出産に関してキリスト教の観点を抜きにして現代医学の見地から調べてみました。
実は男の子を生む方が出産リスクが高く、母体の回復は遅いそうです。また、女の子の出産は代謝負担が大きくなりますが出産後の回復は早い傾向があるようです。
なので、レビ記とは逆になりますね。
(※個体差があり歴然とした差がある訳ではないようです。)

次に古代イスラエルの時代はどうだったかというと、月経や出産の際に女性が汚れた状態にあるという概念は出エジプト時代以前のエジプトやメソポタミアにもありました。そして、その後も近代に至るまで世界各地でそのような概念が人間社会において持ち続けられ、場合によっては女性自体を不浄として考える社会もありました。
これが主なる神がモーセに告げたレビ記12章の背景です。

この女性の清めのための期間をどう捉えるべきかというのが今回の第1のポイントです。


2.重い皮膚病からの回復

続いてツァラーアト(צרעת)と記されている重い皮膚病についての定めが語られています。
このツァラーアトについて以前はハンセン病と解釈されていたこともありましたが、記されている症状に合致しないため今は別な皮膚病、あるいは複数の皮膚病を総称していると考えられていて正体はわかっていません。
しかし、出エジプト時代にこれほど明確に伝染性のある皮膚病に対しての処置を定めとして明確にした例はなく、同時代のエジプトでも伝染性のある皮膚病に対して隔離するようにという指示の手紙は見つかっているそうですが、法的医学的にルール化したという形跡は見つかっていないそうです。さらにレビ記13章ではツァラーアトから回復、コミュニティに復帰する際の診断基準が書かれていますが、伝染性の病気に対しては隔離して見放すことがあたりまえでした。コミュニティ、社会復帰できるように診断基準ができたのは14世紀、1377年のラグーザ共和国(現クロアチア)の法令によってはじめて明示されるようになりました。
それだけ伝染性の病について長らく正体がつかめず、人々にとって凄まじい恐怖だったということです。

このツァラーアト、ユダヤ人ラビたちの解釈は単なる重い皮膚病ではなく、悪口(悪い話を言い広める中傷)や高慢の罪の結果、生じる病だったというように捉えられています。コミュニティのなかで人間関係を壊し、共同体を破壊する行為の責任は重いとされています。モーセの姉ミリアムが主なる神の御旨を悟らず、モーセに逆らおうと人を集めた(中傷を伝染)ところ神の怒りに触れて重い皮膚病にかかったところの話(民数記12:1~15)などからそう考えられているようです。

さて、ここまで重い皮膚病について説明させていただいたのですが、最後に大きな疑問を投げさせていただきます。実は聖書に重い皮膚病が自然に治癒したという記録はありません。重い皮膚病はほぼ、不治の病なのです。それにも関わらず、ここには回復時の診断について書かれているのです。これが第2のポイントです。


3.神にふさわしくない状態

前回のパラシャから「清い」と「清くない(不浄)」判断について触れてきましたが、ここに私たちクリスチャンがあまり認識できていない概念が存在します。私たちクリスチャンは「清くない(不浄)」=「罪」のように考えてしまいますが、ユダヤ人ラビたちの解釈ではそうではありません。罪は神から離れた状態ですが、不浄は罪ではなく神に対して「ふさわしくない状態」という考え方です。

この考え方は非常に重要で私たちクリスチャンが学ばなければならない霊的概念だと私は考えます。
例えば、私たちは人として生活している訳ですから一仕事終えればぐうたらしたくもなり、お酒も飲みたくなることもあります。このお酒について聖書は「飲んではいけない」とは書いていません。私はクリスチャンがお酒を飲むことは批難されるべきことでないと思っています。でも、私がバイブルクラスの準備をする時間(主に土曜日)に酒を飲みながらやっていたら、それは神の前にふさわしい状態とは言えません。礼拝に2日酔いで参加するのもそうです。誰かが助けを求めて祈って欲しいとやって来た時に人に酔っていることが気づかれなかったとしても神にその取り成しの祈りが受け入れられるでしょうか。
誰かに対してではなく、その人自身が神に近づくことに対して負い目を持つので主の務めを完全に果たすことができなくなるのです。

■1コリント11:27~28
従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

この不浄な状態とは私たちが人である以上、避けることができません。
レビ記を読み進めて行く時に祭司職であっても不浄な状態というのは避けられないということがわかります。ですから、レビ記の本当の主旨は不浄な状態にならないための定めではないのです。クリスチャンとして神にふさわしくない状態というものをどう考えていくべきかというのが第3のポイントです。


【タズリア(身重になる)についてのまとめ】

女性蔑視と受け取られてしまいそうな内容からはじまった今回のパラシャですが、前述したように月経や出産の際に女性が汚れた状態にあるという考えはレビ記特有のものではなく、一般的に持たれてきた認識でした。つまり、人間社会において避け得ない考えだったのです。
その状況においてレビ記は再び女性が清いと認識されるために清めの期間が定められたのです。このことは女性本人にとっても非常に重要でした。もし、清いとされる判断が曖昧だったとしたら女性は神に近づくことに後ろめたさと恐怖を抱えなければならなかったからです。ここからわかることは、レビ記は拒絶するための定めではなく神に近づくために定められたものだということです。

そして、男の子と女の子の出産で違いことについて私の仮説を少しお話しさせていただきます。
医学的に男の子出産の場合は母体のホルモンバランスの変動が大きく、メンタル的に不安定になり易いため産後うつのリスクが高いそうです。現代でもそうであるなら古代においては尚の事だったのではないかと思います。レビ記において、男の子の出産の場合、生まれて40日間は自宅で休養しますが、その後、8日目に男の子は割礼を受けるために聖所にのぼらなければならないと定められていました。
この8日目の割礼は母親に目的意識を与えることになり、ある種の緊張感をもたせてメンタルを支えることに繋がったのではないかと考えます。この考えついてAIのCopilotを使って尋ねてみましたが、現代の医学・心理学・人類学の知見とも矛盾しないとのことでした。

もうひとつ、ユダヤ人ラビたちの興味深い解釈があります。男の子の8日目の割礼について、男性だけ割礼のような儀式があるのは男尊女卑ではなく、女性は生まれながらにして神に繋がっているからだという考えがあります。つまり、男性より女性の方が霊的だと解釈されているそうで、そのために女の子は母親とともに過ごす時間が長く必要なのだそうです。確かにアブラハムとサラを比較してもサラは神と自然に対話して、主の御旨に沿う決断をしましたし、イサクとリベカでも双子が胎内で争った時、自然に神に相談しに行っています。
私も何となくですが、霊的な信仰を掴むのは比較的女性の方が早いように思えます。
ちょっと話が逸れましたが、レビ記12章は人間社会の一般的な認識のなかで女性が遠慮なく神に近づくことができるように定められたものなのです。

そして、ツァラーアトに関しても同じく、社会一般では不治とされていた恐ろしい病に対して回復までの診断が記されました。これもツァラーアトから回復した人が気兼ねなく神に近づくことができるように定められたものになります。コミュニティ全体も祭司のその診断を受け入れるよう定められています。
ただ、このツァラーアトからの清めは主なる神の介入なしにはあり得ない不治の病だったのです。
それでも、回復のための診断方法が記されたのは回復した者は存在するということ。ツァラーアトが伝染性の病でコミュニティを破壊する象徴であることに対して、回復はコミュニティ全体として癒しを受け入れて主なる神の信頼に立ち返ることを象徴しています。
私たちは個人ではなくコミュニティ全体として神の前にふさわしくある必要があるのです。

ちなみに、ユダヤ人ラビたちの解釈では、ツァラーアトは自然界の病ではなく霊的現象だったとしており現代には存在しないと考えているそうです。
そういう訳で私たちクリスチャンにとってこれは霊的信仰の概念になると言えます。

最後に「神にふさわしくない状態」をクリスチャンがしっかり認識する必要があると言ったことについてですが、これは神に近づくという霊的成長のプロセスにおいて非常に重要だと思います。
現代のキリスト教界では聖霊なる神についての認識が曖昧です。聖霊のバプテスマを受けることについても「祈り続けなさい」、「求め続けなさい」としか語られません。教会全体の益となる預言についても「熱心に求めなさい」としか語られないのです。
何故かというと、新約聖書にはそのくらいしか書かれていないからです。

現代のキリスト教界においてその霊的成長のプロセスは失われてしまっているのです。
確かに聖霊の恵みにあずかる人は少なからずいますし、個人においては預言の賜物を得る人もいますが、多くの人は聖霊を受けて異言を少し語りはじめたところに留まって満足してしまっています。でも、そこに至るためのプロセスを明確に示す教えを聞いたことがありません。

初代教会時代の弟子たちやクリスチャンはそうではありませんでした。彼らと私たちでは何が違うのでしょうか。

よく考えてみてください。
初代教会時代の弟子たちやクリスチャンは新約聖書にほぼ、触れていないのです。

これはどういうことかと言うと、彼らはすでに語られた言葉によって霊的信仰に立ち、神に近づいて霊的成長を遂げたということになるのではないでしょうか。つまり、霊的成長の鍵は旧約聖書のなかに語り尽くされているということになるのです。その最たるはレビ記だと私は思っています。
では、新約聖書になぜ、そのことが書かれていないのか。
それはユダヤ的背景を持つ人々にとって、書くまでも無いあたり前の聖書知識だったからです。彼らは聖書を持っていなくても文字が読めなくても毎週、安息日に会堂(シナゴーグ)で律法を繰り返し、繰り返し聞かされていたからです。彼らにはキリストが例えで言われたように霊的成長の種がまかれていました。

残念ながらキリスト教界はある時点でユダヤ的な文化、考え方を故意に排除してしまいました。いろいろな側面がありますが、律法主義という言葉に過剰反応してしまったのもそのひとつだと思います。

■ガラテヤ3:10
律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。

パウロは「律法の実行に頼る者は」と言っています。律法を単に実行するだけのものだと考えているなら、それは律法主義と何ら変わらず、その人にとって足かせとなるのではないでしょうか。
もう1度、言いますが、レビ記にはどのように神に近づくかという霊的成長のプロセスが明示されています。

それを読み解くことはコミュニティの成長を促して広がっていき、神と対話するところまで近づけさせます。それだけでなく、ついにはエルサレムに届いてユダヤ人に語られることが彼らの石の心を砕いて、世界を根底から覆す力になるのではないかと思います。
世界の情勢を見る時に私は今のクリスチャンが用いられて、世界が本当に平和になるか疑問です。ユダヤ人やイスラムの人々が今の私たちを見て、私たちから聞いて、彼らがキリストを受け入れ、平和になるとは思えないのです。主なる神の計画は私たちクリスチャンにへりくだってすべての人に仕える姿勢を求めているのではないでしょうか。
誰も誇ることがないように主なる神の計画は成就するのです。

その時、ヨエルの言葉が成就することになります。

■ヨエル3:1~2
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

今回のパラシャのタイトルの「タズリア(תזריע)」という言葉、ヘブライ語の語源「ザラ(עזר)」は「種をまく」という意味を持ちます。レビ記の学びが私たちの霊的成長の種となりますように。



※このパラシャット・ハシャブアの学びは聖書箇所についての答えを出すということではありません。与えられた聖書箇所についてもう一度、深く考えていくということに主眼が置かれています。

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皆さんの働きが祝福されますように。