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律法から学ぶ『パラシャット・ハシャブア』

2025年8月24日

 今日から新しい試みをスタートします。以前からお伝えしていたようにユダヤ人の聖書の読み方であるパラシャット・ハシャブアに沿って旧約聖書からの学びをユダヤ人視点も交えて捉えてみたいと思います。
パラシャット・ハシャブアとは律法(モーセ五書)を54に区切って、毎年、仮庵祭から1年かけて通読するもので全世界のユダヤ人が毎週、同じパラシャ(聖書箇所)を読んでいます。その起源は古く、エズラ記の律法復活の時期にまで遡るようです。

はじめるにあたって、私がちょっとアタマを抱え込んだのはどうして54に区切るのかという疑問…
1年間は52週しかありません。ユダヤ歴に至っては1年間が350日前後、50週しかないのです。ユダヤ歴でパラシャット・ハシャブアを進めていくと4週分読めずに1年経ってしまうのです。この点をメシアニック・ジューの信仰をもっている知り合いに聞いてみたら、閏年に合わせているからということでした。
なるほど!! 
ユダヤ歴では閏年(19年に7回)があってアダルの月の後に1か月加えて13か月になるのです。4週、増えることになって…ちょうど54週となる訳です。
それじゃあ、普段の年はどうしているかというと、1週間で2週分のパラシャを読むタイミングが4回ほどあるそうです。前から疑問だったんですが、これで謎が解けてスッキリ取り組めそうです。

このバイブルクラスでパラシャット・ハシャブアを学ぶきっかけとなったのはヘブライ人への手紙をみんなで学びたいという要望があったからです。ヘブライ人への手紙への手紙は著者が判明していません。せめて、著者がわかれば背景などもわかってくるのだと思いますが、わからない部分が多い。それじゃあ、その前に当時のユダヤ人の聖書感に触れてからにしようと思いパラシャット・ハシャブアにいきついた次第です。


1.なぜ、パラシャット・ハシャブアを学ぶのか

何故、クリスチャンである私たちにパラシャット・ハシャブアの学びが必要なのか。
この習慣はキリスト時代にすでにあり、初代教会時代のユダヤ人の弟子たちもパラシャット・ハシャブアを持って律法に触れていたからです。自由に聖書を読むことができなかった当時の彼らにとって、聖書とはユダヤ人会堂(シナゴーグ)で毎週、安息日に朗読されるパラシャット・ハシャブアがすべてだったのです。
当然、パウロも異邦人伝道に注力しながらもこれをないがしろにすることはありませんでした。ユダヤ人会堂で語ったのはパラシャによってキリストを証したのです。

パラシャット・ハシャブアはすべての聖書の土台なのです。私たちクリスチャンは新約聖書から学んでキリストを信じる信仰を育んできましたが、初代教会時代のクリスチャンはパラシャのなかでキリストがメシアだということを見出したのです。そして、キリストを信じて尚、彼らはユダヤ人会堂でパラシャに学びながら信仰を強めていきました。
キリスト時代から起こったことはすべて律法に予め記されていた預言の成就だったからです。


2.新約聖書に見るパラシャット・ハシャブア

ルカによる福音書にはキリストが安息日にユダヤ人会堂に行って聖書を朗読したことが記されています。(ルカ4:16~21)ルカではイザヤ書が手渡されたとありますが、パラシャには預言書(ハフタラ)が組み合わされており、この時に読まれたのはイザヤ書61章から63章前半だったと思われ、パラシャ50週目「ニツァビーム」といわれる箇所にあたります。パラシャは申命記29:10~30:20、申命記31:1~30の箇所になります。つまり、この時に申命記も読まれていた筈なのです。
ではなぜ、福音書に申命記の箇所が記されていないかというと、当時のユダヤ人にとってこのハフタラとパラシャの箇所はセットになっていたので、あえて記す必要がない、誰もがピンと来る当たり前の律法の箇所だったからです。

■申命記29:14~15
わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。

それだけではありません。この申命記の箇所に「呪い」という言葉が出てきますが、50周目のパラシャということから仮庵祭が近いことがわかります。仮庵祭は最終的な収穫の祝いであり神の裁きを意味するものでもあるのです。その上でキリストは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語ったのです。見える景色が違ってくるのを感じないでしょうか。

また、使徒言行録では初代教会のなかで異邦人に対して律法を守らせるべきか議論が起こり、教会会議が開かれました。結論としてヤコブはキリストを信じた異邦人に対して「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」とだけ伝えればよいと言いました。(使徒言行録15:19~21)
けれども、これはほかの律法を無視してよいという意味ではありません。ヤコブはその理由を「モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです」と説明しています。この部分がパラシャット・ハシャブアであり、初代教会の弟子たちもユダヤ人会堂で聖書に触れていたことがわかります。異邦人もパラシャを学ぶなかで整えられるというのがヤコブの真意なのです。

私たちが律法を厳格に守っていくという必要はないと思います。でも、無視してきたことで聖書の解釈という面で損している部分が数多くあるのではないでしょうか。


3.タイムキーパーとしてのユダヤ人

私たちクリスチャンは新約聖書をメインに信仰を育んできましたが、ユダヤ人は世界中、どこにいてもこのパラシャット・ハシャブアに沿って律法を読み続けています。このパラシャ学びは誰かが律法を一方的に教えるというような形をとらないそうです。律法の解釈は70ほどあるので都度、示されたことについて疑問や考えを共有して理解を深めるということをしています。そして、パラシャはシナゴーグだけでなく、家庭でも子供たちに語られて引き継がれているのです。これは神がそうするように命じ、導かれたからです。
これから私たちもパラシャをひとつひとつ取り上げてみたいと思いますが、1年間で通読する習慣には大きな意味があると私は思っています。ユダヤ人の1年のサイクルは祭儀を含めて神の救いの計画、そのものを示していてパラシャも時を刻んでいるものだからです。
キリストやパウロがユダヤ人会堂で話をした時、パラシャはタイムリーに聞くものの理解を助けて目を開かせました。

パラシャット・ハシャブアを学ぶ理由のもうひとつがこの救いの計画の時を知るということです。神は変わることなくユダヤ人を愛されており、彼らが持っている時によって救いを成就されるからです。


【おわりに】

私たちはイスラエルの平和のため、パレスチナ全体のために祈っていく必要があります。けれども、外側からキリストを信じるよう呼びかけたとてユダヤ人の心を動かすことはできません。律法を知らぬまま律法に精通する人々にどうやって聖書の言葉を届けられるでしょうか。
律法において最も大切な2つの戒めのひとつが「隣人を自分のように愛しなさい」であるのは、彼らが立ち返った時に本当の意味で世界に平和が訪れ、すべてにわたって神の言葉が成就するためなのです。その鍵となるのはパラシャット・ハシャブアの本当の理解だと思うのは考えすぎでしょうか。

■1コリント9:19~20(口語訳)
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。

この学びが私の手を離れて聖霊なる神の手にすべて委ねられ、強い信仰の糧と成してくださるように。


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皆さんの働きが祝福されますように。