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律法から学ぶNo.26『シェミニ』

2026年3月15日

 今日はパラシャット・ハシャブアの第26週目、「シェミニ」といわれるパラシャ(聖書箇所)について考えていきます。「シェミニ(שמיני)」とは「第8番目」という意味になり、幕屋が建てられてから7日間に及ぶ祭司の任職の献げものの期間が終わりました。そして、続く8日目にアロンとその子たちが祭司の務めに就いて、はじめての燔祭を献げるところから今回のパラシャがはじまります。

 ■今週のパラシャ
   レビ9:1~11:47
 ■ハフタラ(預言書)
   サムエル下6:1~7:17
 ■新約聖書
 (メシアニック・ジューの方々が参照する新約聖書の箇所)
   マルコ7:1~23

※バイブルクラスのスケジュールの関係で本来のパラシャット・ハシャブアの朗読週間とは一致していません。


1.New era

私たちの教会TICA(Tsukuba International Christian Assembly)では昨年から、「New era」という言葉が礼拝のなかで使われるようになってきています。「新しい時代」を意味するこの言葉は私たちクリスチャンが霊的な新しい時代に突入しようとしているということが礼拝のなかで繰り返し語られてきました。
実は今日のパラシャはまさしくその「New era」を示しているところなのです。

幕屋を建ててからアロンとその子らがはじめて祭司の務めを果たしたのが8日目であったと記されています。
この「第8番目」というところで今回のパラシャのタイトルがつけられている訳ですが、ユダヤ人ラビの解釈では「8」という数字は「完全」や「完成」をあらわす「7」を越えて、「超越」や「超自然的な次元」をあらわし、「永遠」という意味にも繋がっていきます。
例えば割礼も8日目で生まれて7日間の自然を越えて、8日目に神の民として永遠の契約に入ることを示しています。また、仮庵祭は7日間なのですが8日目は別な祭日(シェミニ・アツェレト:「8日目の集まり、締めくくり」の意)として聖なる集会をするよう定められています。(レビ23:36)この日は安息日になるとは限らないのですが、安息日のように仕事はせずに神との親密な関係をもつことを重視されます。仮庵祭は出エジプト時代に放浪してテントで暮らしたことを忘れないようにするための祭で私たちの地上の歩みを映し出しています。つまり、8日目の祭日(シェミニ・アツェレト)はそこから解放されたよい日とされ、恵みの雨季の到来(それまで雨はほぼ降らない)を象徴するのです。これも「New era」を示し、私たちが地上の仮住まいから天の住まいへと移されることを映し出すものなのです。

話をレビ記に戻しますが、アロンが贖罪の献げもの、焼き尽くす献げもの、和解の献げものを祭壇に置いて降り、主が臨在をあらわす幕屋に入って主なる神に近づきました。緊迫した瞬間だったに違いありませんが、どういう訳か幕屋内での神との会話などが何も記録されていません。その後、アロンは幕屋から出てイスラエルの民を祝福した時、主ご自身がイスラエルの民に栄光をあらわし、祭壇の献げものに炎を送ってすべてを焼き尽くしました。主がアロンとその子らの祭司、イスラエルの民を受け入れられたのです。この時、民は喜びのあまり声をあげて、地にひれ伏しました。(レビ9:22~24)

この新しい時代の到来を第1のポイントとします。


2.ナダブとアビフの悲劇

ところが、アロンの子であったナダブとアビフはそれぞれ香炉をもってその上で香をたいて主にささげたとあり、その行為に対して「規定に反した炭火であった」として2人は主なる神に焼き殺されるという事件が発生しました。(レビ10:1~2)
この部分、詳細が書かれていないのでユダヤ人ラビたちの見解も分かれていて、ナダブとアビフは酔っぱらっていたのだという解釈、彼らが入ってはならない至聖所に入ってしまったという解釈、聖所で勝手に香をたいたという解釈、本来、用いるべきでない火をつかってしまったという解釈といろいろです。

少し香炉について調べてみました。出エジプト記の幕屋建設のところには香炉をつくれという指示は一切ありません。つまり、香炉は幕屋で使用される聖別された道具ではなかった可能性が高いです。しかし、後にレビ記(16:12)のところでは祭壇から炭火を取って香炉に入れるよう指示されていますので、香炉をつかったことが原因ではないということになります。
そのあたりから推測すると、香炉はエジプトを脱出する時点ですでにあり、生活用具として種火を持ち歩くものとして使われていたのではないかと考えます。荒野で毎回、火を起こすのは現実的ではないので火を持ち歩く用具があったのはほぼ間違いないと思います。ナダブとアビフはそれぞれ自分の火種の道具をもってきて、それを香炉として使ってしまい「主が受け入れられる」火を使わなかったことが原因だと思われます。

今週のハフタラの箇所では人にとって危険と認識されている契約の箱をダビデの町(エルサレム)に迎え入れるためダビデの一行が契約の箱を牛車に乗せて運んでいたところになっています。契約の箱が揺れて落ちそうになったのでウザという人物が箱に触れたところ、神の怒りによって命を落としたというところです。ダビデですら起きたことが理解できず、契約の箱を迎えるのを一旦、諦めたのです。(サムエル下6:1~10)
不可解な部分ですが、危険と認識されていた契約の箱はウザの父であるアビナダブの家で20年間、管理され守られてきたのです。レビ人であるウザはどう扱うべきか知っていた筈なのに軽視して牛車に乗せてしまったのです。その後にダビデは恐らく、そのことを理解して再び契約の箱を迎え入れ、主なる神の臨在と向き合うことを決意しました。そこに自らの行動によって神に受け入れられる者とそうでない者との違いが浮き彫りにされています。

レビ記に戻ってナダブとアビフの悲劇が私たちに何を警告するのかというのが第2のポイントです。


3.食べ物に関する規定(コーシャ)

その次に書かれているのは清い動物で食べてよいものと清くないため食べてはいけないものについての定めです。この食物規定によると、豚は清くない動物となるため私の好きなラーメンなどが食べられなくなってしまいます。ほかにも日本人になじみ深い甲殻類や貝は食べることができないことになります。たこ焼きもダメです。

この食物規定について生物学的にどう判断できるかを調べてみましたが、生物学的に聖書の清いものと汚れたものの区別を裏付けられる見解はありませんでした。結論から言えば、汚れているとされる動物が食べることで健康上のリスクがあるとか、反芻することや蹄が分かれることによる清さとの結びつけはこじつけのような見解しかなく、生物学的にも言えることは何もないと私は思います。
つまり、このレビ記の区分け自体には意味はないのです。

では、何のために…となるのですが、それはイスラエルの民を他の民と決定的に区別するためだと思います。
以前もこの件についてバイブルクラスで何度かお話しさせていただいているのですが、何を食べて、何を食べないというのは古代において、民族のアイデンティティに直結します。現代人には理解しにくくなってきていますが、食べる習慣のないものを食べたいとは思わないのです。そして、古代において食べ物の習慣は生活圏にもかなり影響していたと思います。
主なる神はイスラエルという民族を選んで独自の食習慣を持たせることで彼らが独自のアイデンティティを保つようにされました。実際、彼らは国を失っても現代に至るまでユダヤ人としてのアイデンティティを維持してきました。

この食物規定がユダヤ人ではない私たちにとって何を意味しているのかというのが第3のポイントです。


【シェミニ(第8番目)についてのまとめ】

まずは、今回のタイトルから読みだした「New era」というテーマがパラシャ全体を解く鍵だと思います。
アロンとその子らが祭司職として選ばれて聖別され、イスラエルの民は幕屋を中心に神へと近づく新しい時代へと突入したのです。その時、主の御前から炎が出て献げものを焼き尽くし、神はそれを受け入れられました。
このことは先週のパラシャでも触れたように後の時代に起こり、神の計画として固く立つ真に新しい時代の到来について映し出す鏡のようであり、形(カタ)であり神の計画を明確に示すソースコードなのです。

御前から出た炎は「聖霊なる神」をあらわすもので、祭司として聖別された彼らに主なる神の名をあらわすために受け入れられたのです。これはキリストの弟子たちが祭司としての務めを担うために主の身傍近くに立って清さを保ち献身のあらわれとして自分を献げものとするところに聖霊なる神が降られたことを示しています。

また、先週、触れたように祭司たちはこの御前から出た炎を絶やさず、管理する役目が与えられたということをお話ししました。私たちはキリストにある祭司として聖霊なる神の火を正しく用いなければなりません。
ナダブとアビフは異なる火、自分たちの普段から使用している種火を使ってしまいました。
それによって死を招いてしまったことは厳し過ぎるように思われるかもしれませんが、主なる神が臨在をあらわし私たちと近くある時に祭司は神の火を、自分たちのもっている違うものとすり替えることは赦されません。

■ヘブライ12:28~29
このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

今週のハフタラの箇所でダビデはウザが神に打たれて死んだことにショックを受けたことが記されていますが、ここでダビデは主の臨在に安易な気持ちで近づいてはならないことを思い知らされ、畏れ敬いながら神に近づくことの喜びというものを知るに至るのです。
ダビデの妻、サウルの娘ミカルは王として品のないダビデの喜びようを蔑みました。

■サムエル下6:21~22
そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。

神の臨在は人にとって危険極まりないものに違いありません。それは聖霊なる神における臨在においても何ら変わることがないのです。
しかし、ダビデにとって神の臨在が王としての威厳など、かなぐり捨てても構わないというほど喜びとなったように、主なる神に正しく受け入れられる者にとっての喜びははかり知ることができません。
私たちがキリストの祭司として聖霊なる神の臨在に触れ、喜び仕えていくにはレビ記のソースコードを読み解くかとが非常に重要だと私は思います。
新しい時代、私たちは聖霊なる神の恵みを受けただけで満足するような者であるべきではないのです。さらに主の御前に進み出て神と対話することが求められているのだと思います。

最後に食物規定についてですが、ここまで正しく神に受け入れられるようにと言っておきながら逆のことを言うように聞こえるかもしれません。食物規定について私自身は守る必要はないと考えています。
しかし、可笑しなことを言うようですがすべての人にとってそうではありません。メシアニック・ジューの方々はユダヤ人に近くあるクリスチャンとして食物規定を守っておられ、それは必要なことだと私は考えます。もし、食物規定を守るべきだと思いながら、それを破るならそれは信仰に反する行為になるからです。

■ローマ14:3~4
食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。

パウロの考えはあなたという個人を召した主に仕えるために心を尽くせということです。
主なる神はイスラエルを選び、彼らにとっての務めを果たすために彼らに特殊なアイデンティティを与えられました。その務めのために必要だったからです。一方、異邦人には異邦人としての務めがあるのです。
ですから、私たちは主なる神に近づき、それを喜びとするために心を尽くすべきなのです。

「シェミニ」、第8番目に示されるNew era(新しい時代)、主なる神は私たちにもっと近づくようにと言われています。それはこの時代、新しい世代が役割に応じた預言の賜物を得て神と対話し、主が生きておられることを世界のすべての人が知るようになるためです。
その時、世界は神によって支配されていたことを誰もがまた知るのです。


※このパラシャット・ハシャブアの学びは聖書箇所についての答えを出すということではありません。与えられた聖書箇所についてもう一度、深く考えていくということに主眼が置かれています。

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皆さんの働きが祝福されますように。